兵庫県知事選で再当選を果たした斎藤知事の周りがまた騒がしくなっている。
PR会社を使っていたようなのだ。
事の発覚はPR会社の女性社長のSNSでの手柄アピールから。
知事の周辺がざわついているのはこのアピールが本当なら公職選挙法違反になる可能性があるから。
世間では手柄アピールした女性社長のことを承認欲求モンスターと呼んでるようだ。
ネット上では丸裸にされ気味な女性社長は恵まれた家庭で何不自由なく育ち、立ち上げた会社も順調のようで今更承認欲求に執着する必要などなさそうなのに。
承認欲求とは格差社会の中で頑張っても報われないという不平不満を抱えている人が持つものだと思われがちだが、そう単純ではないのかもと改めて承認欲求について考えてみた。
Wikipediaには『承認欲求は現実の組織や社会において自己実現欲求などよりも強い力で人を動機づけている』と記されている。
子供の頃から合格することや順位を上げることが目標にされやすい生き方を強いられている。
つまり合格することや順位が上がることで満足が得られるようになる。
これが承認欲求の原点だとすると、自分事の目標ですら他者との相対性に振り回されることになる。
『自分が納得できれば良い』という価値観は絵に描いた餅になりがちになる。
日本人の承認欲求は忖度とも相性が良さそうに感じられるがそれ以上に自分より高次元で承認欲求を満たしてそうな人に対する妬みや僻みを強くするようだ。
いつの頃からか増えた『推し』という表現や概念は承認欲求の代償行為に思えなくもない。
自分の『推し』が評価されることはもちろん『推し』のファン同士での共通認識を遣り取りすることは承認欲求を疑似的に満たしているというのは何となく分かるような気がする。
では、そんな承認欲求に多くの人が取り憑かれるようななったのはなぜか、その背景には何があるのか。
それを考えると至極簡単なところに行き着く。
安定して高品質な通信システムと百聞は一見に如かずの高画質な写真や動画を添付して一斉配信できるプラットフォームやアプリの充実だ。
これらの要素はこの10年技術的にもスペック的にも大きく進化した、それを使う人間は大きく進化したとは言い難いが、同じことをやっても表現の幅を増加させ結果として伝わる内容やイメージは進化というよりも変化させたはず。
リアリティを演出することが目的だったかもしれないが、それが非現実感の演出に一役買ってしまっているのかもしれない。
そんな非現実感と承認欲求が結び付いたら底なし沼に落ちるのは間違いない。
いや底なし沼というよりも蟻地獄に落ちるようなものかもしれない。
どちらでも同じようなものか。