情報化時代と呼ばれるようになって久しいが、情報化時代とは何か?
一言で言い切るなら、情報が多過ぎる時代だ。
その結果何が起きるか?
情報には受けと発信の二つがある。
現代人の多くはどちらか片方ではなく両方をやっている。
それでも受けに重きを置いてる人と発信に重きを置いてる人に分類できるはず。
受けが中心の人は多過ぎる情報をいかに捌くかに腐心するだろうし、発信が中心の人は自分発の情報がいかにその他多数の情報に埋没しないかに腐心するだろう。
そのためにどうすれば良いかというノウハウやマニュアルが新たな情報として飛び交うことになる。
古い情報を上書きしてリニューアルするような情報が増える一方でウソやフェイクも増え出す。
情報を捌くことに腐心している人の中には自らその役目を果たすことを止め外注的な扱いにして情報収集のスタイルを変える場合もあるし、最近ではその役目を生成AIに任せることが増えている。
同じことが情報を発信する人にも起きている。
結果としてほんのわずかな一次情報に対して山のような二次情報で情報化社会は構成されることになる。
昔は一次情報こそに価値が宿るとされていたが、今や世間の関心は二次情報に偏っている。
二次情報とは一次情報をどのように解釈したかという情報になる。
世間は『それってどういうこと?』という解釈に惹かれるのだ、
二次情報には連鎖性があり、一次情報を知らずにある二次情報に接した人が自分なりの解釈を加えて新たな二次情報を発信することもある、情報の伝言ゲーム化だ。
本来だったら二次情報に解釈を加えたら三次情報になり以下四次五次と続くが三次以下も全て二次化してるのだ。
疑問や謎がある限り解釈は連鎖的に求められる。
ウソやフェイクを伝えるつもりなどないのに、発信がウソやフェイクになってることは少なくないだろう。
そんな世間の動きに気付くと、善意を装ってあからさまなウソやフェイクを流す方が手っ取り早いという悪意を促進するのも自然な流れに感じられる。
『何を信じるか』『何を信じないか』は解釈の結果生じる。
『何を』の部分は『誰を』でもある。
コメントやレビューが人を惹きつけるのも当然だ。