多くの人が求める『もっともっと』の世界は、さらなる刺激や変化を求める気持ちがあればこそ。
次から次に新しい情報が出てくるのは、多くの人のさらなる刺激や変化を求める気持ちにリーチしようとしてるのだ。
なぜかイソップ寓話の金の斧の話を思い出した。
この寓話の教訓めいた部分は全然関係なく、多くの人が今持ってる自分の斧を金の斧や銀の斧に変えたいと望んでいるのだろうなと思い当たった、もちろん私もだ。
ここで言う金の斧や銀の斧とはより高価なものというのではなく、自分にとってより価値があるもの。
もちろん人によってはより価値があるというのが金銭的な高い評価という場合もあるだろうが。
大事なのは、そのより価値があるものにリーチしようと能動的に行動するために必要な材料を求める気持ちに終わりがないから『もっともっと』となるのだという点だ。
『もっともっと』が試行錯誤を伴う能動的な行動の結果得られたら大きな満足や喜びが得られるはず。
『もっともっと』を実現できても満足や喜びが物足りない場合は得方に問題があるからだ。
『もっともっと』は量や大きさに向かうだけでなく質にも向かう。
質に向かう『もっともっと』は、他人の価値観とは相容れない独自性を見せる場合もある、そういう場合に他人からは無欲になったと見えるかもしれない。
いずれにしても多くの人が自分なりの『もっともっと』を求める限り情報はどんどん増える一方だろう。
自分の心の中の『もっともっと』の正体がよく分かってない人は情報の海がますます広く深く感じられるはず。
自分の心の中にある『もっともっと』の正体を正しく理解できてる人は果たしてどのくらいいるのだろうか。