生き方は人それぞれと言ったり、あるいは百人百様と言いながら、金太郎飴のような生き方をしたがる人は少なくない。
もう少し賢そうな表現をすると、統計的指標の中央値や平均値を尺度にする生き方であり、偏差値的な序列を意識した生き方だったりだ。
他人と大して違わない金太郎飴のような生き方を意識しても結果的には大きく違い、結果的な百人百様は出来上がるのは皮肉な結果と言える。
この皮肉の悲喜交々は、自分自身のことなのに他人との比較やその他大勢との比較でどこに位置してるかで自分自身を測ろうとすることによって起きている。
人間の悲しい現実の一つだ。
健康診断で各項目毎に適正数値が設定されていて、その数値に一喜一憂することもまったく同じ構造だ。
数値で出されるデータはプレゼンテーションや説得の際には都合良く使いやすいだけで、個別特殊な事例にはまったく無意味なのが平均値や中央値や適正値といった統計上弾き出される数値。
ただし、母数が大きな統計情報の実際の分布の状況を知ることは意味が見出せるかもしれない、決して中央値や平均値に縛られる必要がないということに気付けるためには。
そのためには個別特殊な事例も知りたいところだ。
大谷翔平さんやトッププロアスリートの血圧等のバイタルデータはどうようなものなのかのような事例だ。
宇宙人から見れば地球人なんてみんな同じ金太郎飴にしか見えないかもしれないが、金太郎飴ばかりだとほんの少しの違いを見つけては一喜一憂したりマウント合戦を繰り返す、それが人間社会だと思うとしっくり来る。
比較の基準は自分と同じ(似てる)か違うかが大きい。
地球の金太郎飴は、比較しては一喜一憂を繰り返す人間だと思えてくる。