『現象には必ず理由がある』
ドラマで一世を風靡したセリフだ。
ドラマの中で扱われていた現象は物理的な現象だったが、人間が織り成す現象のドラマ性にだってもちろん理由がある。
ただ人間が織り成すドラマの理由には物理現象のような普遍性や再現性があるとは言えないだろうが。
そんな小難しいことを思ったのは日産とホンダが経営統合をするというニュースを見て。
この経営統合には三菱自動車も加わるとも報じられている。
昭和生まれでクルマが好きだった人ならば、今現在はさほどクルマに興味がないとしても思うことがあるだろう。
思うのはこの現象の理由は何だろうかだ。
昭和のクルマはメーカーが違えば哲学も個性も違っているのが当たり前だった、だからこそユーザーも自分の価値観を表現するための相棒として選ぶような側面が強かった。
つまりそんな事情が今も通用するなら経営統合はあり得ないのだが、それが起きるということはそれなりの理由がある。
高度な経営論というよりも、クルマを購入するユーザー目線の方がその理由を的確に指摘できるような気がする。
21世紀を目前にする頃から言われていたことに『クルマは家電になる』がある。
クルマが家電と最も遠い要素はエンジンが内燃機関であることでそれこそがクルマの個性の中心でもあったが、その内燃機関の制御に高度なデジタル化プログラム化が介入するようになった頃から家電化は始まっていたのだ。
やがて制御は内燃機関だけでなくブレーキ系や走行系にも介入が進み、クルマは運転手が主役とは言い難いものに変貌していった。
そして電気自動車の登場でエンジンが内燃機関からモーターにシフトしたことで家電化は完成の域に入り始めた。
最近になって電気自動車に関してはネガティブな反応も増えているが、それはモーターか内燃機関かの話であって、クルマそのものとしては家電化を極めることにブレーキがかかったわけではない。
家電業界を見れば分かるが、簡単にコピペができるので個性で勝負するということが困難になる。
勝負のポイントは規模やコスト削減にならざるを得なくなる。
規模が大きいから安心、コスト削減を徹底してるからスペックが同等ならリーズナブル、そんな条件だけでユーザーの大半は選んでいるはず、クルマで個性を表現したいと本気で望む人は超高級車やスーパーカーなど高価なアクセサリーとして捉えているはず。
ついでに言うと、クルマに乗ってる時間とトレードオフの関係にあるのが歩いたり立ったりの運動の基礎となる時間、賢明な人はクルマの頻度を減らすだろうし、そもそもクルマにコストを掛けたくない人は増える一方のはず。
そういう現象の数々がもはや無視できないレベルに達したというのが今回の統合劇の裏にあるとすれば統合によって問題は解決しないので延命策にしかならない気がする。
家電の宿命だ。
現代に松下幸之助が現れてもボケ〜っと立ち尽くすことしかできないだろう。