承認欲求を満たすために嘘を吐いたりフェイクをでっち上げるような場合きっと気持ち良さや快感を感じているのは脳だろう。
とんでもない犯罪や事件が起きる場合の動機に強く影響を与えているのも気持ち良さや快感だろう。
何に対して気持ち良さや快感を感じるかの是非はともかく、きっと気持ち良いだろう、きっと快感が得られるはずだという期待は強い動機になるだろうし、むしろその期待が描けないと動機は形成されないと言っても良いはず。
次の記事を読んでますますその思いを強くした。
「『この体液がお前なのだ』 入院中に感じた『健康』と『自由』」内田樹
その時、なるほど「健康である」というのは「自由である」と同義なのだということが腑に落ちた。
健康に気持ち良さや快感を感じるのは、健康を奪われたり健康であることに危機感を持つ人で、健康は簡単で当たり前だと思い込んでる人にとっては健康はただの退屈に過ぎないはず。
健康であることの気持ち良さや快感は脳が感じるとともに身体が感じることでもある、脳だけでは成立しない。
気持ち良さや快感には脳由来のものと身体由来があるが、実際に気持ち良さや快感が得られる場合には脳と身体の両方が気持ち良さや快感を感じてるはず。
一般的には身体が先に感じ少し遅れて脳がそのことに気付くことが多いだろうが、中には逆のパターンもあるはず。
脳が先に気持ち良さや快感を感じ、それに遅れて身体が気持ち良さや快感を感じるというケースだ。
そんなケースをイメージしようとすると暗く陰鬱なものになりがちな気がする。
先づは行動しろの意味が少し違って感じられるが、間違ってはいないなとも感じる。