未解決だから真相が不明、よってさまざまな解釈ができる。
特にグリコ森永事件では犯人と思しき人物と警察がニアミスしたであろうことまで分かっている。
さまざまな解釈ができるとは、さまざまなストーリーが描けるということでもある。
だからこれらの事件をベースにしたドラマや映画は多数描かれている、解釈の一つとして脚本化されて。
観た人は『そうかもしれない』と思う人もいれば、『そんな陳腐なストーリーではあって欲しくない』と思う人もいる。
真相が明らかになれば解釈に多少の幅が生じても一つのストーリーとして起承転結がまとまる。
コンテンツとして溢れる現代のストーリーは、多種多様に展開されるが、結論や結果はきちんと決められてるものばかりなので、予定調和な展開ばかりでもある。
昔の映画やドラマはおもしろかったと思う場合、そのおもしろさの一つはストーリーの先読みなどしなかった当時の鑑賞スタイルに負うところも大きかったはず。
実際に昔見ておもしろかったドラマなどを再放送で今見るとストーリーにはまるでワクワクできないものが多い、展開が分かった上で見てるからだろうし、描き方に違和感を感じることも少なくない、しかしながら背景の街並みの映像などにはワクワクできることが多い。
昔は当たり前にあった似たような風景が今はまるで無くなっている。
無くなっていく様や変化する様はリアルタイムで見ていたはずなのに、その変化を表現できるストーリーは描こうとすると実に複雑だからだ。
これからの世の中はどうなるのか?
未来の人からすると一本道に見えるようなプロセスが、これから未来に向かう人には道がどこにあるのかすら見えてない。
ただ何となくあそこに向かいたいと思っているだけだ。
本当は何となくあそことしか表現できないことを、さも明確なイメージでプレゼンしたがる人の何と多いことか。
そんな何となくあそこのイメージを具体的で明確にするのがストーリーであり脚本で、まるで本当は未解決事件なのに解決された事件のように扱う。
ワクワクできないものには解決された風が見え隠れする。
何かに取り組むときには謎や不思議を持ち合わせてないときっと楽しめない。