違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

シェアに関するあれこれ

シェアと聞いて何をイメージするだろうか?

 

大きく二つあるはず。

 

占有率と共有の二つ。

 

元々は経済用語的な市場占有率を示すものとして理解されていたように感じる。

 

21世紀に入るとGAFAMがそれぞれの分野で独り勝ちしてると言われるようになったが、それぞれの分野には比率は大きく違っても必ず他のライバルがいるので占有率100%とはならない。

 

つまり、市場は複数のプレイヤーの共有によって成り立ってると表現できる。

 

つまり出来そうで出来ないのがシェア100%、つまり独占だ。

 

一般的にシェアの対義は所有とされるが、それは所有はシェア100%の独占だからだ。

 

シェアの対義を所有だとは理解していてもそれがイコール独占だとは思ってない人が多いかもしれない。

 

シェアにしても所有や独占にしても、その対象になるのは自分の外側にあるもので、もし自分の内側にあるものがその対象になるとしたら臓器売買や人身売買など穏やかではなくなる。

 

家族間での臓器移植などはシェアの例としてシンプルに肯定的に捉えやすいが、それ以外のパターンだと複雑だ。

 

さて、誰もが独占できていて共有が難しいものの一つに自分自身がある。

 

独占してるとも所有してるとも言えるし、生涯逃げられないものとも言える。

 

逃げられない代わりに、一定の範囲でなりたい自分に近づくということは可能になる、その際に必要になる知識や知恵や他人の協力は共有の一種と思えなくもない。

 

なお、ここで言うなりたい自分に近づくとは美容整形のようなものではないつもりだがその解釈も十分成り立つ。

 

かつてテレビの討論バラエティで政治評論家の三宅久之さんが不倫は絶対ダメと主張する際に『結婚とは男と女の独占使用契約だから…』と言っていたのを思い出す、つまり既婚者が不倫や浮気をするのは行為としてはシェアになると言うことだろうかと今更ながら思う。

 

2014年から2015年にかけて台頭してきたものにシェアリングエコノミーがあるが、私を含めて世間にはレンタルとの違いがピンと来てない人が多いだろう。

 

シェアを独占との対比で捉えると、独占できないものを独占したいと願うことや、せっかく独占できているのにそれは活かさず似てる別のもののシェアに活路を見出そうとする人の何と多いことかと不思議な気がする。

 

ビジネスにおける独占とは永遠に手が届かないことに思えてくる。