21世紀に入るとデジタルと通信の組み合わせから避けた生活は送れないようになった。
携帯電話は使わないという人はごく稀にいるが、そういう人ですら生活の周りはデジタルと通信に囲まれている。
あまり興味や関心が無い人でも、これまでデジタルデバイスや通信デバイスやその関連コストにトータルでいくら掛けてきたかが分かるとゾッとするだろう。
どんなデバイスであれ購入時には一定の完成度があるが、確実に翌年には型遅れになる、まるで完成品だったものが実は不完全だったと知らされるように。
デジタルと通信が絡む分野ではハードウェア以上にソフトウェアも存在感をアピールしてくる。
一定の完成形としてリリースされるソフトウェアやアプリは日進月歩でアップデートが繰り返される。
アップデートが繰り返されたソフトウェアはハードウェアの要求水準を上げ、ハードウェア単体としては正常でもソフトウェアを動かすことができなくなり、アナログ時代のような『腕(=人間の実力)でカバーする』と言ったようなことが難しくなった。
つまり、デジタル&通信を背景に生まれるモノは永遠に完成しないので一つのものを大事にずっと使い続けるということが困難になると宿命づけられている。
もう少し抽象的に表現すると、完成形のように見えた『結果』ですら常に『プロセス』の途上に過ぎないのだ。
アナログの場合は『これで十分』という完成形が存在できたが、デジタル&通信の場合は『これで十分』は完成形ではなく妥協や諦めであり美しく表現するなら達観だ。
達観の対義語は執着や固執。
妥協や諦めと考えると残念感があるが、達観と捉えると悪い気はしない。
武士は食わねど高楊枝に通じる清々しい潔さすら漂ってくる。