バカリズム脚本のドラマのおもしろさについて考えていると、よく出来た漫才と共通するボケとツッコミの妙に行き着くように感じられた。
改めて考えると、ボケとツッコミはセットだが、あくまでもボケから始まり、そのボケに対しての切り返しがツッコミ。
つまり能動的なのはボケで、ツッコミは受け身のリアクションなのだ、そのツッコミがどんなに鋭くても。
ツッコミの多くはおもしろいことを言ってそうに見えてもほとんどが常識返し。
常識返しなんて一般的にはおもしろくないが、それがおもしろいとすればボケが素晴らしいからだ。
バカリズム脚本は意表を突いた設定がつきもので、その設定に沿ってドラマが展開されることが高度なボケになる。
高度なボケに対してはごく普通の常識に基づくリアクションは、意表を突いた本来あり得ない設定にリアリティを感じさせてくれるし、リアリティは薄くても共感に基づく感情移入がしやすいのだ。
意表を突いた設定でボケることは余程の工夫がないとただのあり得ない話で終わり、おもしろいとかおもしろくないという評価の対象にすらならない。
これは万事に当てはまることで、多くの人にとって能動的な行動の多くは良い悪い以前にそもそも評価の対象にすらならない。
人生を通じての体験や経験の積み重ねの結果、受け身のツッコミで生きてる人が現実社会では大半だ、人だけでなく企業や組織もだ。
ツッコミ型の発想では改良や改善は得意になれてもイノベーションは無理だ。
イノベーションは究極のボケなのだから。
鋭いことを言ってるようでもその中身はただの常識や誰でも知ってることばかりというのがツッコミの役目なのだ。
日本社会にはボケが圧倒的に足りないのだ。
そんなことをバカリズム脚本は感じさせてくれる。