兵庫県知事を巡る話題の中で『真摯に受け止めます』という表現が、昭和の政治家が得意とした『記憶にございません』のような悪しきテンプレートになる予感を感じてるのはわたしだけではないだろう。
真摯に受け止める気など無くても『真摯に受け止めます』と表現されることは、借金を踏み倒す人が『返すつもりはあります』と答えると裁判では返済の意思があると解されるのと同じ構造だ。
便利で効率的で都合の良い表現がテンプレート化しそれを使いこなす人を見てると、人間自体の機械化が感じられる。
産業革命以降人間はエネルギーを使うことで機械化を高度化させ、さらに自動化まで実現できるようになった。
そして近年ではAI化によって人間に歩み寄る技術も高度に実用化され始めた。
その結果が、テンプレート表現を重宝する人の増加だとすると、人間の外側で進化していた機械化に適応した人間は人として機械化をしてるように感じられる。
この場合の人の機械化はサイボーグのように人の力を超える存在ではなく、何かが欠落した人がその穴を都合の良いテンプレートを張りぼてとして使っているようなものだ。
そしてこういう振る舞いをする人が案外世の中を上手いこと渡り歩いていたりするのだ。
人間は機械ではないと思う人は肝心な時にはテンプレート的な振る舞いはしたがらないが、機械化した人間は肝心な時ほどテンプレート的な振る舞いを良しとするように思える。
最近数年で芸能界で有名芸能人が突然過去の旧悪がバレて失脚してるが、彼らは人間っぽい欲の皮が突っ張り過ぎたというよりも、あまりにも自分に都合の良いテンプレートを周りの人に押し付け過ぎたからだとすると、人間自体の機械化はほどほどにとどめるべきだろう。
機械化した人の周りでは、その子分のような人が親分の機嫌を取ろうとテンプレートに則った行動を機械的に今日も繰り返していることだろう。
テンプレートを使いこなすことが効率的だなんて思っているとしっぺ返しは倍返しでは済まないかもしれない。
だって人間なんだもの。