そもそも論としての『仕事の定義』を久しぶりに思い出させてくれる記事があった。
ヨボヨボ予備軍の40~50代が狙われている…和田秀樹「いつの間にか病人にされてしまう行ってはいけない場所」
高齢者専門の精神科医である和田秀樹さんは「健康診断や検査で老化現象にも病名がつけられてしまうと、不安の連鎖から人は薬を飲みつづけてしまう。しかし高齢者の方々に限って見れば、検査で病人にされた健康な人たちかもしれない」という
話の内容には賛否両論があるのは当然として、『そもそも医者とは?』と問われた際に即座に答えとして浮かぶことは何かの違いが賛否両論の大元にはある。
深く考えない人は『医者とは病気やケガを治してくれる人であり、そんな職業』と答えるはず。
しかし、医者だけを集めて同じ問いをすると大半は『医者とは病人や心身に悩みを抱える人からお金を得る職業』と口には出さなくても心の中では思っている、と言われる。
職業というもののほとんどは極論すると、困ってる人や悩んでる人からお金を取ることが目的。
だからこそその集客のための営業は、不安や悩みや心配をプレゼンテーションすることで、その手法は巧妙化する一方だ。
だから詐欺や詐欺まがいが巷に溢れる。
始める時には思ってもいなかったことが継続の動機になっているということは多い。
意に反することだと途中で気付いてもいまさらやめられない、そういう理由で継続されてることは世の中にはたくさんあるはず。
仕事に限った話ではない、人が集団や組織を構成しての行動に付き物の不都合な真実だ。
だからこそ俄然価値がありそうに感じられるのが、一人でやる、個人の意思でのみ動くということだ。
建前や偽善など入る余地はまったく無い世界観が成立する。
したいからする、見返りなど求めない、なんなら大損したって構わないとすら思ってる世界観。
だからといって排他的な生き方ではない、これが重要。
失敗したら反省して行動を修正すれば良い、だから後悔とは無縁、他人から見ると真似したい生き方ではなくても、どこか羨ましくもあるだろう。
冒頭の記事のおかげでそんなことを思い出した。