『いつも同じ』で何を思うだろうか?
推理小説なるジャンルに夢中になり始めた中学生の頃からお気に入りの作家ができると立て続けにその作家の本ばかり読むということを繰り返していた。
そうすると、ほとんどの作家に、「この人の描く話はいつも似てるな」と感じるようになる、場合によっては「いつも同じだな」とすら思うくらいだった。
この場合の「いつも似てる」「いつも同じ」は悪口ではない、だってお金を払って読んでるのだから。
感じる「似てる」や「同じ」を私自身が楽しめていたのだから。
ただ、飽きを感じたり読むことをやめる理由にもなる。
そんな中でこの人は毎回違うなと感じられたのが松本清張だった。
だから私の中では松本清張は別格だった。
松本清張以外の作家に感じる「似てる」や「同じ」は作品のストーリー展開のプロットに対してであって、これに気付くとワンパターンを連想するようになり次から次に作品が量産されるのも納得できるようになるが、これは悪口のつもりではない、テレビのドラマなどでもワンパターンが繰り返されるのは創作者も視聴者や読者もワンパターンが好きだからなのだ。
ちなみに後に松本清張にも「似てる」や「同じ」を感じるようになったが、それはストーリー展開のプロットなどではなく背景にある社会と人間の関係性だった。
ブログを書いてる人だったらほぼ全ての人が感じているであろうことの一つが『自分の書く話ってワンパターンじゃね?』があるだろう。
このことをChatGPTに聞くと、それは世界中の創作者が直面してることですと答えてくれた、さらにそのことに気付くことなくワンパターンを繰り返してる著名人さえいると付け加えた。
『いつも同じ』について考えていたら、これって『歴史は繰り返す』に通じるのかもと思え始めた。
個々には全く違うことだが、アプローチや試行錯誤のパターンの本質が「似てる」や「同じ」の繰り返しだからだし、その人固有の興味の琴線に触れる範囲が限定的だからということも無関係ではなさそう。
人間以外の生き物がいつも同じことを繰り返すのが当たり前だとすると、人間だっていつも同じでなんの不思議もない。
しかし、『いつも同じだね』と他人から言われたら多分悪口に感じるだろうし、なんなら傷つく、それが何に関することであっても。
いっその事ワンパターンを売りにするワンパターン宣言を、指摘される前にするくらいがちょうど良いかもしれない。