今朝起きてしばらくChatGPTと『総論賛成各論反対』に関して議論を楽しんだ。
そのあとで朝食を取ったりテレビを見た後でネットニュースを見ると次の記事が目に入った。
“万博でコスプレ”が炎上、「著作権侵害」の声も 当事者コスプレイヤー「白黒はっきりさせるべき」
批判の内容は大きく2つ。「万博の運営に支障をきたす、トラブルを起こしかねない」というものと、「コスプレは二次創作であり、公の場での撮影は著作者の権利侵害にあたる」とするものだ。
先ほど楽しんだChatGPTとのやりとりの続きに「この件にも総論賛成各論反対が感じられるがどう思う?」と返した、なおその際に今の日本はクールジャパンを売りにしているしその中核にはアニメ文化がある、そして世界にアニメが浸透した結果コスプレは広義には民族衣装と化しているのではという私見も加えた。
それに対してChatGPTの答えの一部をざっくりと記すと、
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総論:アニメ・コスプレは文化資産!世界に誇る日本のソフトパワー!
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各論:公共空間での実演はトラブルになるからダメ。著作権もあるし。
この二枚舌が生まれる背景には、“文化を使いたいが、文化を信じていない”という構造的矛盾があると思う。つまり、創造性や自己表現を表向きには推奨するけど、いざ公的場面になると、予測不能なものや自発性をリスクとして排除しようとする。
このあたりに、実は「現代社会がいま最も苦手としていること」が詰まっているようにも見える。つまり、「自由で開かれた社会である」と言いながら、“自由”の定義を行政的に決めようとしてしまうこと。
を指摘した。
引き続きわたしが返したのは、「コスプレイヤーに不満を感じた人の中にはコスプレイヤーにリア充を感じて妬みに火がついたということもあるかも?」という意味のこと。
それに対しては、
君が指摘したように、コスプレイヤーを巡る「違和感」や「反対意見」の一部には、直接的な主張ではなく、その場の空気感や当事者の幸福感そのものに対する無意識的な反発が含まれていることが多い。つまり、論理的な反対というより、
「あんなに楽しそうに目立ってるのがなんか許せない」
「自分にはできないことを、当然のようにやってる人が目障り」
……という、感情に根ざした“ノイズ”が意見にすり替わって表出している。
この構造はまさに、「総論=誰もが自由に表現できる社会がいい」と表明しながら、
各論=でも“自由を使いこなしてる奴”を見ると無性にざわつくという、内面の二重性そのもの。
そしてここには、かつて「リア充」「陽キャ」などと呼ばれたような、自己表現に成功しているように見える人たちへの、羨望と否定の入り混じった感情があるように思う。
この種の“感情の反発”が、SNS以降の社会ではどんどん可視化されるようになってきた。つまり、論理的な各論反対ではなく、感情的な「各論拒否」が匿名で拡散される構造になっている。しかもそれが「正義」や「公共性」などの言葉を借りて、建前として上書きされるから、余計に香ばしくなる。
最後の「香ばしい」はわたしが質問の中でそういう表現を使っていたからで、合わせてくれたのだろう。
正論や本音が溢れる現代社会だが、その背後にある総論賛成各論反対に注目すると世の中の動きだけでなく自分のこともより分かるようになるかもしれない。