環境や境遇や刺激に対して適応することは順応と呼ばれる。
順応には快楽順応と苦痛順応がある。
一般的には良いことだとされる場合の順応は苦痛順応で我慢したり耐えることで苦痛を苦痛とも感じなくなる、この場合の苦痛は精神的なものが多く、『だから頑張れ』と使われる。
一方快楽順応は飽きるや退屈の原因になる、この快楽の喜びが一生続けば良いのにと思っているのに、あっという間にそうは行かなくなる。
物欲に取り憑かれる人は新しいものを手に入れることで快楽を得たいのに買えば買うほどその快楽が持続しなくなるし、薬物中毒や禁断症状は快楽順応に抗おうとして陥る落とし穴なのかもしれない。
特別でスペシャルな経験や体験による満足はさほど持続することなく消えてしまうという経験や体験を持つ人は多いだろう。
次から次に新しい刺激的なものが登場することに慣れると、順応のために必要な時間もどんどん短くなるだろう。
やがて、少々刺激的な位では刺激にならないと経験や体験を得る前から予想できるようになるはず、何もせずに予定調和のように順応が得られると世の中は実に退屈極まりなくなるだろう。
新しい刺激への第一歩は情報という形でもたらされる。
情報化社会とは最初は刺激が次から次に押し寄せる社会だと思われていたが、結果としては人間の快楽順応が進歩し過ぎて退屈の極みに達しているのかもしれない。
おそらく先進国に付き物の少子化問題などはそのせいだろうと思うと納得できる。
あっという間に快楽順応を起こす体験や経験は、合理的な判断に基くものが多そうに感じる、というのは見返りを求める気持ちが強いからだ。
これをすれば、これを買えば、きっと満足が得られるはず、きっとさらなる得が得られるはずと。
だとすれば、あまり合理的とは言えないことに目を向けるべきかもしれない、つまり冷静さは非合理あるいは不合理と判断するようなことだ。
もちろんだが冷静さが非合理不合理と判断するようなことに対して博打を打つようなことはしてはいけない、あくまでも実験程度だ。
世の中に刺激はたくさんあるはずなのにどれも魅力的に思えない人には必要な発想だろう。