政治家や有名人の学歴詐称が発覚するたびに思うことがある。
世間は学歴ゆえにその人を支持するわけではないのにどうして学歴にこだわったのかと。
故・田中角栄総理の学歴は小学校卒、総理になった時よりも大蔵大臣(現・財務大臣)になった時に話題になったのは1962年。
たぶん今以上に学歴がものを言った時代のはずで、小学校しか出てない大臣が並いる東大卒の議員や官僚を従えていたというのは痛快だ。
最終的には、いやある程度実績が上がればもはや学歴なんて関係ないが、なぜかスタートの時には学歴に縋ってしまう、縋るというよりもアピールするものがそれしか無いからだろうし、その気持ちを掘り下げるときっと自分に自信が無いからだろう。
ここで言う自信はアイデンティティに近いものかもしれない。
アイデンティティなんて嘘偽りが最も似合わないはずなのに、そこに嘘偽りを持ち込むのは人間の弱さがそうさせるのだろう。
そんなことはしないと言う人でも、軽い気持ちで『盛る』ことは少なくないかもしれない。
広告宣伝やアピールの一環だと思う時には、誰だって『盛る』ことを考えるだろう。
何をどう『盛る』のか?
腕の見せ所でもあるだろうが、一見上手く行ったとしてそれは『盛り』のおかげだったのだろうか?
海外の車のレストア番組を見ると、ボロボロの車体を修理するために塗装や錆を落としていると、そもそも破損していた上にパテを盛ってそこを整形して塗装して誤魔化していたからボロボロになることを加速させてしまったということが透けて見えることがある。
後できちんと修理するつもりだが、その前に一旦見た目だけ整えようと思っただけかもしれないが、そういうのは往々にしてずっと放置されるもの、実際問題当初は何の不都合も無いかもしれない。
ただほど高いものはないと言われるが、嘘をつくのもタダだ。
ただほど高いものはない。