違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

共感vsメンタライジング

今日の夕方、特に天候に問題がなければ甲子園では広陵高(広島県)の試合が行われる。

 

数日前からネット上では大騒ぎになっていたが、テレビ新聞等はその騒ぎを報じない。

 

検索すれば多数の情報が出るから具体的な騒ぎの内容には触れない。

 

わたしも多くのネット民と同様な思いを持っていたのだが、その思いを否定したり押し殺すというのではなく、わたしは一体何に反応してるのだろうかを再考してみた。

 

自分には直接関係ないしどこまでが本当かも分からない話のどこに反応していたのかを試合前に考えてみたくなった。

 

悪を糾弾するような気持ちに似たものを感じながらも、心の中にドス黒いものが渦巻いているのもまた事実だったから。

 

 

事件には、それが何事であっても被害者と加害者が生まれる。

 

そんな事件を傍観者として見てると、多くの人は被害者に感情移入するだろう、それは事件の事実関係に照らしての反応であり、自分が被害者の立場だったらなどとも思うからだろう、少ないながらも加害者に感情移入する人もいるはず。

 

そういう場合、感情の根底には共感があるはずで、どちらに共感するかで反応が違ってくる。

 

ところでこの共感という反応は、人間以外の社会的動物にも見られる、一方で人間にしかないとされるのがメンタライジングだ。

 

 

共感とは相手の気持ちを感じ取ること。

 

メンタライジングとは相手の心を理解すること。

 

 

共感は感情的で脊髄反射的な反応なのに対して、メンタライジングは認知的な反応になる。

 

 

この共感とメンタライジングは、おそらく日常では区別されることなく使われることが多いと考えられるが、少なくとも自分自身の心の中にドス黒いものを感じるような場合にはあえて区別できた方が良いはず。

 

 

世間を騒がせる事件になってるということは、起きた出来事に納得ができないからだとしても、共感だけで反応すると暴走しがちになる、一方メンタライジングで反応するとそこに分析的な要素が必要になる。

 

判断するために必要な情報が少なかったり偏ってる場合に、名探偵だったらどう振る舞うか、きっとメンタライジングを重視するだろう、その上で感情的にならないはず。

 

 

夕方の試合にわたし自身が一体何を感じるのかが興味深くもあり怖くもある。