違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ルッキズムは避けられない?

テレビでクリスマス関連の話題としてイチゴの価格の高騰を取り上げていた。

 

直接の高騰要因としては夏の猛暑のせいで栽培開始が遅れたことと、特に首都圏では秋の日照時間が少なかったことでイチゴの生育や収穫が遅れているせいらしい。

 

それに関連して高級なケーキやパフェを提供してる店を取材してると、『見た目がキレイで粒のサイズが揃ったイチゴじゃないとうちのような店では使えない』と言っていて、「そりゃあそうだろうな』と思いつつ、『美味しくて適度な酸味も感じつつ甘いなら見た目なんかどうでも良い』と思う自分でも、ケーキとして買うなら見た目にケチが付きそうなやつがあれば選ばない気がした。

 

イチゴのパックとして買うなら、腐ったり傷んだりしてなければ見た目はあまり気にしない、と言い切れる自信はあるが、自然と条件を付けて使い分けをしてることに気付いた。

 

ついでに言うと、店頭に並んでる選択肢の中から一番見栄えの良いものを自然と選択してることも思い出す。

 

これがイチゴの話ではなく人に対する話でも同じことが起きていて何の不思議もない。

 

『人間は中身が大事だよ』と当然のように言ってる人だって、『だから外見なんて気にする必要はないよ』とは心の中では思ってない可能性は高い。

 

 

外見や見た目は判断材料として間違いなく避けられない。

 

美味しいかどうかは食べるまでわからない、食べる前だと『美味しそう』と思えることが重要、食べる前に美味しいかどうかはわからない。

 

一方、人間の場合は実績の評価というのが可能なので、真にアピールできる実績を持つ人ならば、あるいは実績や評判を知ってスカウトされるような場合には外見なんてそれこそどうでも良い話だろう。

 

さしたる実績もないあるいは全くの未知数の場合は、拠り所はきっと外見しかない。

 

この場合の外見には、容姿だけでなく醸し出す雰囲気や喋り方などが含まれる。

 

 

つまり、世の中の大半の人はその他大勢という括りの中で生きているに過ぎないので、何らかの有利さを得ようとする際にルッキズムを味方にできると強い。

 

ただし、イチゴでも人でもルッキズムは足切りラインをクリアするためには有効だが、ルッキズム偏差値を高めたからといってさらに有利になったりはしない。

 

何らかの足切りラインをクリアした後は結局実績や結果が求められるのだから。

 

 

しかし、ルッキズムゆえに活路が拓けたという思いを持つ人はルッキズムの呪縛から逃れられなくなるはず。

 

なぜなら常に上には上が存在するし、それに加えて老化という容赦ない仕打ちがすぐに始まるから。

 

美容というジャンルが拡大するのも当然だ。

 

 

以下余談

 

ChatGPTと人間のルッキズムについて会話をすると、長々とした会話の最後で、ルッキズムは人間が進化の過程で身につけた副作用のようなものでは、と言ったことが興味深い。