東京赤坂の高級個室サウナで起きた事件に対する世間の関心は、サウナでの出来事というよりも『高級』とはなんぞや?、に向かっているように感じる。
東京・赤坂サウナで発生した死亡事故、タイタニック号を見物する潜水艇タイタンの悲劇やホテルニュージャパンの火災にも通じるものがありそう
ビジネスにおける値付けの鉄則がある。
高いものには理由はない、安いものには理由がある、だ。
この鉄則は、だから思い切って高い価格を設定しろという意味で用いられることが多い。
しかし、もう一方のお約束の心理がある。
こんなに高いんだったらさぞかし良いのだろうと思い込んでしまうことだ。
無意識のうちに、いや中途半端に理論武装した結果のせいかもしれないが、きっと原価も高いんだろうと判断するのだ。
しかし、どこにどう高級要素があるのかを見抜く目や鼻は持ち合わせてない人が大半だ。
安い大量生産される軽自動車や大衆車をネジ一つから全ての部品を個別に作った場合、フェラーリやロールスロイスなどのスーパーカーや超高級サルーンと同じくらいコストが掛かるという話は昭和の車好きだったら知ってる人が多い。
つまり、大量生産大量消費を前提にした精密品のような場合は、そのこと自体が大幅な原価の低減を可能にするし、工業製品としての品質も最上を保つことを可能にする。
高級が少数の人をターゲットにしてる限り、そしてそこに手作業が介入するような場合は余程の達人や人間国宝レベルの人が携わるわけでなければ、大量生産されたものに品質では劣って当然なのだ。
しかし、そんな劣ったものも見せ方(魅せ方)次第で値付けには大きな違いが生じても罷り通るのが高級市場だ。
機械化自動化は、大量生産されたものの品質を高度に安定させることに貢献した。
その代償は、買うあるいは持つ喜びの減少かもしれない。
機械化自動化の前の時代だと、”安物買いの銭失い”というのは確かにあった、だから高いものは値段分の価値があるということが成立してた、しかしそれは今となっては昔話だ。
現代の高級市場は、心の渇きを満たすためには有効だが、品質そのものが高級であるとは限らないというのが最大の欠点になる。
高級に手を出すならば目利き力と達観が必須。
それが備わってなければ、”高物買いの命失い”になるのが現代だ。
つくづく高級に縁がなくて良かったと思っている。
いろんなものやサービスの価格が上がってる今だからこそ、高いものには理由はないと思うくらいがちょうど良い。