2月18日の東京新聞の記事がTwitterで流れてきた。

コラムの内容もさることながら、論の展開がおもしろいと感じた。
鬱の対義は一般的には躁。
しかし、コラムを読むと怒だと感じる。
怒の一般的な対義は幸福や安心や穏やか。
では、一般的には躁はどのように解釈されてるかというと、万能感を伴った高揚感のある状態となる。
そうすると、『幸福や安心や穏やか』と『万能感を伴った高揚感』がほぼ似た意味を持つことになる。
コラムに照らし合わせると、万能感を伴った高揚感を感じさせてるのは、『だってなんかやってくれそうじゃん、それが何だか知らんけど』となり、そんな気持ちに『幸福や安心や穏やか』を感じてることになる。
キーワード的には、夢や希望や期待とでもなるのだろうか、ただし根拠や確信は曖昧。
躁も鬱ももとは心の病いを示すものだが、現代では一般名詞化してる。
それは、現代人が健康と病気を同時に抱えることが当たり前になったからで、ある意味多様化の結果のようにも感じる。
上記のコラムを読んで、『なんかやってくれそうじゃん、それが何だか知らんけど』が勝ち、『なんか何もできなそうじゃん、よく知らんけど』が負けたと解釈すると、やっぱり世の中を動かすのは空気なんだなと思えてくる。
空気には様々あるが、どんな空気であろうと、いったん感化されると突っ走るしかないのだ。
そんな空気が実際にあるのか、それともあると思ってしまうのか。
心の健康や病いには空気が大きく関係しているのは明らか。
そんな空気の醸成には、情報の非対称性が大きく関係してるんだろうな、と思う今日この頃。