1951年、マッカーサーが退任の際の演説で、兵士の間で流行していた風刺歌から引用したのが有名な『老兵は死なず、ただ消え去るのみ』で71歳の時、その13年後84歳で亡くなっている。
21世紀に入ってから有名人や著名人が『老い』や『死』をテーマにした本を出すことが増えた、高齢化や長寿命化が進んだことの必然でもあるだろう。
ある程度人生の年月を重ねた人だと誰もが遭遇してるのが、老いを迎えるより遥か前に亡くなった人の存在だ、身内や直接の知り合い以外に芸能人やスポーツ選手などいわゆる有名人なども含めて、死の理由は様々だ。
最近ある本を読んだ、若い頃には全く関心を寄せたことがない人が著者、本を読まなければ今でも関心を持たなかっただろうが、それなりの年月を経た生き方には魅力が多かった、その魅力の大元には老いや死に対する意識が無関係ではなかった。
生きてることに価値があるならば、老いを迎えられることは幸せなはずだが、世間では必ずしもそうは思われていない。
老いや死を考える際にマッカーサーの「老兵は死なず…」を思い出すが、現実的には消え去るのは簡単ではない、せいぜい接点がなくなることで知ってる人の記憶からも消え去るということはあっても。
老いや死を考えることで価値観や生き方はどのように変わるだろうか。
最後の晩餐は、イエス・キリストが処刑される前夜に十二人の弟子と摂った食事を描いたレオナルド・ダビンチの絵。
それを踏まえて、「最後に何が食べたい?」というのは日常会話になっている。
そして、おそらくだが、その答えには年齢の違いや老いや死に対する意識の違いが如実に現れるはず。
良いとか悪いとか、あるいは正しいとか間違ってるなんて評価は全く意味を持たないはず。
自分にとって何が大事か、あるいは何に対して一番思いや感情が向かうか、ただそれだけのように感じられる。
老いや死を意識することで、多数の執着や欲望が膨れ上がる人もいれば、自分の中で厳選されたごく少数のことのみが浮かび上がる人に分かれるように感じられる。
欲望が膨れ上がるというのは元気な証拠でもあるが確実に老いが進行してることに対する自覚は薄そうだ、それに対して少数に厳選する場合には元気なうちにしておこうという対策意識が感じられる。
もちろん、どちらかが正しいというモノではない。