近年の話として、人を不幸にする要素の一つとして自己肯定感の低さを指摘することが増えた。
改めて考えると、自己肯定感が低いというのは本能に反することのようにも感じる。
世界を敵に回しても自己を貫く方が本能の発動として自然に思えるからだ。
しかし、あえて自己肯定感などと取り上げられるのは、それだけ社会が複雑化してるからだと言えるし、そんな社会に適応すると、人はナイーブになるということでもありそうだ。
そういう事情も背景にあってのことかもしれない。
対人関係のトラブルや社会的な悩みに関する相談をAIに入力した結果、AIは人間の回答者と比較して平均49%高い頻度でユーザーの主張を肯定した。
生成AIとのコミュニケーションを重ねると、この全肯定bot的な雰囲気を感じることと共に、聞いてもいないのに全方位網羅的な雰囲気を表す場合もある。
つまり、全肯定がなんでもありとほぼ同じに感じるような表現を感じることがある。
また、瞬時に答えが得られることは効率的だと思われがちだが、これが従来とは違った意味での自己肯定感の減少に影響するようにも感じていた。
これは質問の仕方やテーマの設定の仕方とも大いに関係してるはずなので、得た答えに不満がつきまとう場合はAIとの接し方に課題があるのだろう。
AIの即時的な回答が自力での問題解決を相対的に苦痛にさせ、試行錯誤を通じた自己成長の機会を奪うメカニズムが確認された。
まあ、だとしても使い方次第では大いに役立つことには変わりないが、諸刃の剣でもあるのだ。
AIが生成AIという形で普及した結果、AIが奪った分野は自己啓発的な分野だと思うことが増えた。
最初は良い話聞いたなと思えても、だんだんと一定のテンプレートが適用されてるだけのようにしか感じなくなる。
だから、本当はもっと良い答えがあるんじゃないのかと。
なんだか迷える子羊という言葉が思い浮かぶ。
そもそもどんな話なんだっけと調べてみたら、全然思ってたのと違う話だった、ついでに言うと子羊ですらなかった。
「もし一〇〇匹の羊を飼っていたとして、そのうちの一匹がいなくなったら、だれだって、残りの九九匹を放っておいてでも、いなくなった羊を探しに行くでしょう。そして、見つかったら大喜びすることでしょう。
本来的な意味は、キリストは最後の一人をも見捨てない、ということらしいが、現代的な解釈としては、天秤にかけると釣り合わないものに振り回されるのが人間だ、とも取れる。
この話に照らし合わせると、AIは一匹の羊と解釈することもできるし、AIの出す答えが一匹の羊とも解釈できる。
さて、どっちを選ぶ?、それとも新たな別の解釈を求める?
