違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

主観的とは身体性の反映

『客観的に……』、こんな会話は日常には珍しくない。

 

しかし、『客観的に……』と表現する大抵の場合は、自分の主観に少し抑制をかけてるだけということがほとんど。

 

概念としての客観が存在することは、抽象概念を駆使する人間にとっては、容易に理解できる。

 

その上で、実は客観なんて存在しないという考えがある。

 

たとえば特殊な一致性がある一卵性の双子であっても別人格を持つ別人であることを考えると、この世には主観しか存在してないはず、そういう考えは成り立つ。

 

もし、この世には客観は存在せず主観のみならば、全員の同意など存在しえない。

 

争いが絶えないのも無理はない。

 

世界の全ての人が平和を望んでいる、誰もが一瞬はその通りだと思うかもしれないが、『平和とは何か?』の答えはおそらく一致することはないはず。

 

 

しかし、主観の分布は多くの場合で一定の傾向を持つはずで、その分布の偏りが客観などと表現されているだけかもしれない。

 

 

では、その肝心の主観はどのように成り立っているのか。

 

人それぞれに、自分を取り巻く環境と自分自身の身体性に他ならないはず。

 

環境も身体性も常に一定などということはなく絶えず変動する、身体性に至っては変動の大半は劣化だというのは残酷な現実だ。

 

良いとか悪いとかあるいは正しいとか間違ってるとかに関して考えるならば、自分の身体性についてが一番楽なはず、誰にとっても。

 

自分の周りの環境についてあれこれ思っても、自分の思い通りになんてできないのだから。

 

 

現代人は、主観なんて脳の思考の産物だと思うだろうが、実は脳よりも上位に身体性が影響してるという説がある。

 

この身体性の影響は無意識で無自覚だとも言われている。

 

最近の筋トレブームなどともリンクしてるはず。

 

鍛えることが正義なんてことはないだろうが、考えるよりも行動するという程度に身体を意識する方が賢明な気がする。