最近は、AIであれができるこれができる、だからAIを使いこなせない人間はどんどん取り残される、そんな感じの情報が増えている。
AIのプロを自他ともに認める人ほどそう言っている。
しかし、個人的にはなんか違う気がする。
リアルタイムで「検索」の発展や進化を経験し、生成AIの普及や進化を見ていると、キリがないという思いが強くなるばかり。
だからと言って、世の中の流れに逆らうことが賢いことだとも思えない。
自転車に乗っていた子供が、免許を取れる年齢に達した後でオートバイや車に移っていくことは昔は進歩することだと確信していたが、年齢を経て健康意識が高まることで再度自転車に戻ることこそが進歩に感じる自分がいる。
自転車を取り巻く環境や法律が変わり、以前ほど自由で楽しいだけの乗り物ではなくなったが。
ここで言いたいのは、進歩の様にキリがないを感じるようになったら、その先の進歩は一見逆行に見えることというのはアリではないかということだ。
なぜかと言うと、結局人間本体は変化しないからだ。
変化してるのは人間の外側の環境に過ぎない。
あれもできるこれもできる、と言われることの多くは今となっては人間が自分の手足を使ってやることではなくなったからでもある。
つまり、できるという出力は現実であっても、その入力や出力に至るプロセスは仮想化して、そこには身体性が希薄ということでもある。
戒めの言葉として「足るを知る」というのがある。
おそらく由来としては贅沢を戒めるものだったはず。
現代の「足るを知る」は、身体性を伴わない出力やアウトプットに過剰に価値を置かない、となるように感じる。
身体性を伴わないことに夢中になる場合には、脳だけが快感を感じてる。
現代人は自分が自覚するより遥かに仮想化世界に浸っているので、脳だけの快感というのを多くの人が味わっているが、そのことに無自覚でもある。
いや味わってるのが快感ならまだ良いが、脳だけで怒りを感じてる人の方が多いとすれば、その怒りが身体性と結びつくと待ち受けるのは破壊や破滅のはず。
目の前で起きてることと、ディスプレイ越しに起きてることの区別が付かない人は想像以上に多いと思った方が良いかもしれない。
脳単体では足るを知ることは無いように感じる。