誰だって縛られてるものがある。
万人が等しく縛られてるのが1日は24時間という時間だ。
だから寝る時間がもったいないという発想に繋がりがち。
1日は24時間、その中で何にどのくらいの時間を割り当てたか、あるいは割かれてしまったかを気にするようになる。
それが得に繋がったか、あるいは成果に貢献したか、はたまた損に繋がったのか、あるいは無駄だったのか。
そういうことを気にすることがタイパの正体だ。
物理的に1日を24時間以上にはできないことをネガティブに捉えるからこその発想だ。
そんなことを次の記事に感じた。
「オールドメディアの仲間割れ」? “テレビ離れ”あおりが過熱化…「20代の7割が見ず」報道がはらむ《ミスリードの正体》
冷静に読むと、「あれ? 録画や配信で見た分はテレビ番組じゃないの?」と気付くのではないでしょうか。これは「リアルタイムでテレビを見た人」の調査であり、録画や配信での視聴は含まれていません。
テレビなんか見ない人とカウントされてる人が、テレビで流された情報を知らないわけでもなく、関心を持たないわけでもない。
情報の質は大事だが、それ以前のとりあえず情報を入手する第一段階はどこからでも何からでも構わない。
第一段階で興味を持てばより詳しく正確に知りたくなるし、それが自分にどう関係するのか、世間にどのような影響を与えているか、という第二段階に進む。
第二段階に進むと、情報はより高度になるので入手や解釈に時間を費やすことになる、情報と書いたが趣味や推しなどと置き換えても同じだ。
細かく見ると、1日24時間を何にどのくらい割り当てたかという時間の配分の制約は意識し始めるとキリが無くなるが、最小でも最大でも1日24時間なのだ。
コスパも同様だ。
個人としての考えと法人や組織としての考えはあれども質的には同じだ。
こちらは、タイパの時間とは違い、お金や資金は人それぞれに違う。
しかし、持ってるお金の範囲あるいは調達できる範囲という自ずと生じる限界点がある。
その限界内の範囲でやりくりし、そのプロセスや結果に対して一喜一憂するのがコスパの正体だ。
一旦意識し始めるとキリがないという意味ではタイパもコスパも正体は同じだ。
タイパにしてもコスパにしても、求めるに当たって前提になるのが、すでに知っていることの組み合わせに縛られることだ。
知らないことを前提にタイパやコスパという価値観は機能しない。
タイパやコスパを意識してそれに囚われてる人が結果や効率を求めれば求めるほど、そしてそれが低年齢化すればするほどトレードオフの関係になるのが極めて個人的なことだ。
本当は自分が何が好きあるいは嫌いなのか、何に興味があるのか、自分のテーマは何か、こういうことは失敗や試行錯誤の結果わかるもの。
しかし、タイパやコスパを意識するあまり失敗や試行錯誤を無意味だと思うと、自分が自分のことをよく知らないということに繋がる。
極めて個人的なことの中にはタイパやコスパと馴染まないものが少なくない、本当は何よりも優先すべきことがあるかもしれないとすれば、実に残念なことをしてることになる。
何よりも優先すべき極めて個人的なことなんて全くないという人がいたとすれば、それこそが最も残念なことかもしれない。
年齢を経た人が、自分にとって優先度が低いことはしたくない、そういう意味のタイパやコスパならが幸せに近づくかもしれないが、若い人が夢中になる価値観ではないはず。
トクリュウ(匿名流動型)犯罪が増えるのはタイパやコスパと無関係では無い気がする。