最近やたらと地震が増えたように感じる。
起きた地震に対する情報や分析は素早いが、地震の予知や予報は現在のテクノロジーではまだ無理のようだ。
緊急地震速報だって聞けば身構えるが、あれはすでにどこかで起きてる地震の揺れが伝わる前に聞いてるだけに過ぎないし、震源地に近い場合は揺れの後にあるいは揺れてる最中に聞かされてるらしいとも聞く。
先日、野村克也さんの座右の銘である『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』について話題にした、この話は人間が織り成す事に関してで自然現象に関してではないが、共通点はある。
『勝ち』も『負け』もどちらも『現象』と置き換え可能で、『起きる現象はすべて不思議ではないが、だからと言って理解出来てるわけではない』とでもなりそう。
地震の研究をどれだけ積み重ねても、地震が起きないように出来るわけではないし、いつどこで地震が起きるかさえ把握できるわけではない。
しかし、起きた地震に関しては詳しく解説される。
地震研究の結果、建物やインフラの耐震基準を上げ、それに沿った都市計画や街づくりを進めることは被害の低減には有効だと思うが、世の中を俯瞰して眺めると、たぶん万能ではないだろうと分かる。
世の中はどこに向かっているのか?
そんなことを得意気に語る人は多いし、当たった外れたと一喜一憂する話は多いが、当たったなりにまたは外れたなりに、事後の解説は的を射るものだ。
後の世では、あの頃世の中はどこに向かっていたかや紆余曲折は鮮やかに、まるで最初から一本道であったかの如く解説されるが、そんな解説をいくら積み重ねてもきっと未来には役に立たない。
なぜなら予想や予測には典型的には順張りと逆張りがあるが、そんな順張りと逆張りの間にですら無限のグラデーションがあるのだから。
大抵の人はそんなことは分かっている。
それでももっともらしい未来予測に乗りたがる。
大事なことは、もっともらしいということ。
知識や知恵が増えると、それに歩調を合わせるようにもっともらしさも変化する、その変化が進化と呼ばれてるだけかもしれない。
証拠証拠あるいはエビデンスエビデンスと求める風潮は強いが、所詮求めているのは自分が納得できそうなもっともらしさに過ぎない。
もっともらしさを信じた先に何があるのか、もっともらしさを信じないあるいは疑う先に何があるのか、結局はよく分からないのだが当たった外れたと一喜一憂する。
人間はそんなことばかりを繰り返して来たし、これからも繰り返すのだ。
繰り返すたびの高度化するのがもっともらしさなのだ。