人は何かの判断や決断を迫られた時、直前に見た全く意味のない数字や情報に無意識のうちに影響されるらしい。
善意で行われてる、あるいは中立で行われてる、と思い参加したセミナーや勉強会が、実は宗教や投資の勧誘の場だということは珍しくない、そういう会に参加し感化されることは洗脳されるなどと呼ばれる。
洗脳されるような場合は、どこかで自分が追い込まれてるのを意識するだろうから無意識というわけではない。
洗脳されるなどと呼ばれる環境には友人や知人あるいは日頃世話になってる人がいたり、人間関係があることが避けられない、つまりNOが言いづらい、この人間関係を抜きに洗脳は成立しづらいだろう。
一方で、内容は同じでも、自分で見つけた何の人間関係もないYouTubeやSNSを見て感化されるような場合は、あまり洗脳されたとは言われない。
感化されたことがきっかけで被害に遭っても、世間は騙されて気の毒ともあまり思わないだろう、人間関係のプレッシャーもなく自分が信じたことが失敗なだけだから。
冒頭で紹介した話は、このような場合だろう。
何が言いたいかというと、判断や決断を伴う被害は知り合いから洗脳されたり騙されたりが多かったのだが、最近は直接は知らない人を信じたことから始まるようになっている。
おそらく、リアルな人間関係の中で結果として上手く行ったとしても、結果生じるであろう上下関係や主従関係のようなものを避けたいからかもしれない。
見ず知らずの、自分と比べて大して凄くもなさそうな人がとても良い目に遭ってるように見えてしまい、自分が同じ目に遭っても不思議はないなどと思い込むことで近付きたいと望みやすくなるのかもしれない。
羨望や嫉妬がベースにあるようでベースにあるのはあくまでも「信じる」だ。
21世紀に入って四半世紀、知らない人に対する警戒感は大きく下がっている、価値観の多様化なども影響してるだろうが、自分のアンテナに引っ掛かる情報に対する警戒感も低くなってるはず。
おそらく、信じるのあり方が変化してるのだ。
信じるためには証拠やエビデンスを求めるくせに、提示された証拠やエビデンスをどこまで追求してるかは怪しい。
「信じる」が限りなく「信じたい」になっている。
発せられる情報の多くが「信じたい」にアピールすることを狙っている。
『信じたい』と感じたら、それは警報だ。