今読んでる本に書いてあって、おもしろみを感じているので備忘録的に記す。
前提となるわかりみとおもしろみの違いは以下のように説明されていた。
純文学の世界では、物語の終わりは本来はどのような形でも許される、それをオープンエンディングと呼ぶ。
一方、純文学以外のエンタメ的な小説などでは、勧善懲悪やハッピーエンドやカタルシスの提供が求められる、エンディングのわかりやすさが共感を生むからで、そんなわかりやすさがわかりみとなる。
オープンエンディングには必ずしもわかりみは無いので、読者が個々に解釈を迫られる、そんな自分なりの解釈や世界観を構築することがおもしろみとなる。
何やら、わかりみに予定調和や思考の停止が感じられる。
いつの頃からか、共感が時代のキーワードの一つとして定着した。
この共感こそがわかりみで、最近では文学の世界でもエンディングにわかりみが不可欠になってるらしいのだ。
共感に深いものを感じてる人は多いかもしれないが、実はすごく浅い可能性が高そうだ。
本来、読者の数だけ解釈の多様性が許されていた分野ですら、たった一つの解釈に行き着くことが求められている。
つまり、正解至上主義だ。
生成AIに何を求めてるかというと、大半の人が正解なのとも共通する。
こういう傾向は、文学やエンタメの分野だけでなく、政治や世間で起きる事件や事故の解釈にまで及んでいるらしい、自分にも当てはまるところがないとは言えない、特に怒りや不満を感じる場合は。
共感というテーマで表向きはコミュニケーションが成立してるように見えても、実際にはまるで噛み合ってないという現象が珍しくないのが現代なのだ。
そのような傾向が顕著になったのは、ウェブの世界も現実の世界も人が集まるのはわかりみの周りだけになったからで、頭を使わなければいけないおもしろみの世界には人が集まらないから。
結果として、おもしろみを求めているはずの人であっても、わかりみの周りをうろちょろするしかなくなっているのだ。
こういう傾向に、抗うべきかそれとも迎合すべきか?
そんなことを考えてるとただでさえ暑いのになお一層暑く感じられる。