現代の矛盾というかパラドックスのような傾向がある。
断定を求めるが決めつけには拒否反応を示す、というもの。
何事にも答え、それも正解を求めるので、強く言い切って欲しいが、自分が求める答えと方向が違うと、不愉快な決めつけの押し付けにしか感じられなくなる、そういう風潮が現代は強い。
このような傾向が生じるのは、自分に自信を持てない人が多いからであり、世の中がどこに向かっているかが分からないからでもある。
だから、逆説的に自己肯定感などというワードが注目を浴びる。
情報化が高度になったことで情報の取捨選択、特に正解の情報だけを入手することが困難になったからでもある。
正解だと信じたものが正解であったかどうかが分かるのは、信じたタイミングよりも少し後のことだ。
そんなことは百も承知の上で、人は正解だと信じたことが正解であることを、信じたタイミングで確定させたいと願う。
そして、信じたことが外れると、多くの人は騙されたと感じる。
信じた時点で既に騙されてるのは詐欺なのだがそういうケースを除くと、そもそも信じた時点ではまだ未知の状態で何も確定してないという場合がほとんど。
信じるために求めるのが断定。
断定とは強く言い切ること。
では、断定されれば信じるのか?
多くの場合、断定されたから信じるというよりも、その前段階に既に信じたい何かがあったりしてるはず。
そういうタイミングで信じたい何かを肯定的に断定する話に接することで確信が一層強まるのだとすると、ポイントは断定したのは誰かということになる。
そんな誰かは以前から信頼を寄せていたという場合もあるが、初対面なのにあまりにも価値観が一致するという場合もある。
つまり、信じることに対してハードルが低い時だ。
一方で、自分と価値観が異なる人が強く断定する話に対しては否定や疑問を強く感じるだろう、そしてそういう時は断定とは思わずに決めつけだと不快感を感じやすい。
是々非々で内容を判断するのではなく、脊髄反射的な好き嫌いで判断しがちになる。
断定と決めつけの関係を考えていると、どうやら第一印象の存在が無視できないなと思え始めた。
人生経験がそれなりになると、第一印象が当てにならないという経験は誰もが持ってるはず、自分なりの経験に照らし合わせて第一印象を処理する処世術を身に付けてるだろうが、それにしても第一印象に引きずられることは少なくないはず。
断定と決めつけの境界には、第一印象の処理の仕方が横たわっていそうな気がする。
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情報にはさまざまある。
起きたことや事実を伝えるもの、さらにそれらをどう解釈するかを伝えるもの。
上記だと、あくまでも実際に起きたことがベースだが、その解釈に想像や空想いやむしろ思い込みと呼んだ方が相応しい何かが加わる場合もある、もはや事実からは離れて行くが、その方が分かり易いあるいはより感情移入できる場合は多く、そうなると情報は文学に寄って行く、人によっては情報の捏造などと言い始めるだろう。
現代のように出回る情報が増え、また誰もが容易に情報発信できかつその情報に世間がどのように反応したかが可視化されるようになると事実に対する反応とは別の、誰かの解釈に対する多数決合戦で事実が捻じ曲がるようになる。
発信する側にとっての情報という視点に対して、受信する側の視点は解釈を求めるだけではなくすべてが疑問や悩みや趣味嗜好に対するQ&A的なものになる。
結果として多数決合戦を意識して発信される情報ばかりが目立つようになり、他が見えなくなる