違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

仮想(virtual)の反対語はphysical!

今が旬の『仮想』という言葉は、“物理的には存在しない”と言う意味で、英語で言うと“virtual”となる。

 

だから、その反対語は“real”となり、日本語では“現実”となる。

 

辞書的にはこれが正解だが、英語圏特にアメリカでは、virtual(仮想)の反対は“physical”の方が近いと解されてるようで、日本語で言うと“物理的、物質的、身体性がある”となり、人間が五感で感じられるものとなるらしい。

 

今後“仮想”と銘打ったものが増え、問題を起こすとすれば、仮想はphysicalではないと言うことに起因して起きる可能性が高くなる。

 

最近世間の話題の中心になっているコインチェック事件だが、投資家がどのような扱いを受けるかは要注目だ。

 

現在、仮想通貨を巡っての議論は法の整備が追い付いてないということで取り沙汰される事が多いが、第1は課税をどうするかで、それ以外は後回しになりそうだ。

 

そんな法が未整備な仮想通貨に関して、日本では既に重大な判例が出ている。

 

 

仮想通貨に所有権はないとも解されている判例が、わが国で出されている。

 

それは、2014年に起きた、ビットコイン交換業者大手のマウントゴックス社の破産に絡むビットコイン引渡等請求事件に対して、東京地方裁判所が2015年8月に出した判決だ。

 

判決の詳細は、法律の専門家に委ねるが、ごく簡単に説明すると次のようになる。

 

原告は、マウントゴックスに預けていたビットコインの所有権を主張し、ビットコインの引き渡しを求めた。

 

それに対して判決は、ビットコインは有体物ではないから所有権を主張することができず、引き渡し請求は認められない、というものだった。

 

結局、この裁判は原告が控訴しなかったため、これで確定。マウントゴックスの破産自体も、ビットコイン取引に衝撃を与えたが、破産後に起こされたビットコインの引渡請求訴訟に対する判決もまた、衝撃を与えたのであった。

 

ビットコインへの「税金」は、これだけかかる 譲渡益に対しては最高税率45%の所得税

 

 

 

仮想であるが故に所有権が否定されたようにも見えるが、それだけでもない。

 

仮想通貨ではなく、銀行預金だったらどうなるかと言うと、1金融機関あたりで最大1000万円までしか保護されないし、銀行預金に対して私たちは所有権を主張することはできない。

 

私たちが銀行預金に関して銀行に主張できるのは、債権があることの主張だけだ。

 

だから、銀行は無い袖は振れない場合、『はれのひ』と同じ結果になる。

 

理屈はそうでも、多くの人はそのことに備えようとはしない。

 

それは、銀行には信頼があるからだが、『信頼』も仮想であることを改めて思い知らされる。

 

銀行に対する信頼と、リアルなお金に対する信頼は限りなく似ている。

 

お札や硬貨は、所詮紙切れや金属片に過ぎないという意味では『信頼』という仮想性に依存している。

 

お金には仮想性があるのに信頼がおける理由の一つは、物と物の交換の仲介物としてスタートし、physical性の裏付けがあったからだ。

 

心に関するものは、全て仮想性がある。

 

心に関するものは仮想性があるのに、厄介なことに実感が伴う。

 

実感はあるのに、五感を直接刺激されてるわけではない。

 

だから、心に関することは煩悩に通じるのだろう。

 

今後あらゆる分野でリアルと仮想の境界がどんどん曖昧になるだろう。

 

そんな時、煩悩に打ち勝ち、道に迷わないようにするためには、physicaiを大事にすることだ。

 

そう考えていると、”走れメロス”を思い出した。

 

太宰治が”走れメロス”を書く発端になったとされる下記のようなエピソードがある。

 

懇意にしていた熱海の村上旅館に太宰が入り浸って、いつまでも戻らないので、妻が「きっと良くない生活をしているのでは……」と心配し、太宰の友人である檀一雄に「様子を見て来て欲しい」と依頼した。

 

往復の交通費と宿代等を持たされ、熱海を訪れた檀を、太宰は大歓迎する。檀を引き止めて連日飲み歩き、とうとう預かってきた金を全て使い切ってしまった。

飲み代や宿代も溜まってきたところで太宰は、檀に宿の人質(宿賃のかたに身代わりになって宿にとどまる事)となって待っていてくれと説得し、東京にいる井伏鱒二のところに借金をしに行ってしまう。

 

数日待ってもいっこうに音沙汰もない太宰にしびれを切らした檀が、宿屋飲み屋に支払いを待ってもらい、井伏のもとに駆けつけると、二人はのん気に将棋を指していた。

太宰は今まで散々面倒をかけてきた井伏に、借金の申し出のタイミングがつかめずにいたのであるが、激怒しかけた檀に太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言ったという。

 

後日、発表された『走れメロス』を読んだ檀は「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と『小説 太宰治』に書き残している。

 

 

 

この呑気なエピソードが、”走れメロス”という感動の物語になるのは、ひたすら走り続けるというphysical性にある。

 

最近、スポーツを見るだけでなくすることに意識が向かいだしたり、美容を意識する人たちが筋トレをしたりすることが話題になることが多いが、それは表面的には”健康的な生活”という捉え方で語られる事が多いし、私もそう思ってた。

 

しかし、世の中が仮想(virtual)指向になってることへの抵抗であり、反動なのかもしれないと思い始めた。

 

 

『健全な精神(心)は、健全な肉体に宿る』

 

 

今や周回遅れの死語になったと思われていたこの言葉は、一周先を行ってる実は凄い意味を持っていたのかもしれない。