『秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまと小室圭さんの結婚行事について、準備時間などの関係から2020年に延期となることが分かりました。
報道記事によると、天皇陛下の生前退位や譲位の関係から充分な準備を行う時間的余裕が無く、結婚行事は2020年頃に延期となる見通しです。』
という報道がなされた時、多くの人が「ああ、あれが原因かな」と思っただろう。
私も思ったが、一つ疑問だったのは、"身辺調査を潜り抜けてなかったのかな?"だ。
眞子様結婚延期へ 週刊誌を読まない人に解説 2018年02月06日
①横浜市職員だった父親が自殺し、その父親(祖父)も後追い自殺しているが、どういう事情があったのかよくわからない。
②小室氏の現在の年収は推定で250〜300万円程度とみられ、弁護士事務所の補助員なので今後も昇給は難しく将来の生活設計ができてない。また、財産もあまりなく、親戚との関係もトラブルがある。
③母親が父親の死後に婚約し小室圭氏の学資などを援助していたが婚約は破棄され、援助したお金は返済されていない。
④母親がある小さな新興宗教に入信し、その方面でのお付き合いについて噂もあり精査しなくて良いのか。
どこの家族にも暗部はある、お互い様だと知らぬふりしつつ助けあって社会は営々と続いてきた、ましてや皇族はその象徴である、鬱の嫁を抱えた孤立した長男が跡を継ごうが、嫁ぎ先が貧乏で姑が新興宗教だろうが、それくらいのことは吸収してしまう懐の深さが本邦にはあって然るべきだ。 https://t.co/AAfpSgwEVb
— 高木壮太 (@TakagiSota) 2018年2月7日
そう思いながら、身辺調査の妨げになったのは"開かれた皇室"のあり方かもしれないとも感じた。
皇室が開かれだしたのは平成天皇になってからだが、皇太子時代からその思いはあったのだろう、こんなエピソードがある。
昭和63年、アグネスチャンが司会をした世界各国の留学生が集まるパーティーで
皇太子両殿下(現在の両陛下)と留学生たちが歓談。
両殿下が入場される前に外務省の係の人が留学生を並ばせた。
白人から、だんだん肌の色が濃くなるようにきっちりと分けて。(
両殿下(※現在の両陛下)が会場に入ってきて、
さっとお部屋の様子を見てとって何食わぬ顔で 反対側(肌の色の濃い方)から回った。
アグネスチャン「何もおっしゃいませんでしたが、 その行動自体が最大のメッセージだったと思います」
(当時の地方新聞より)
皇室を開くということは、"特別"ではなく"普通"であることを望む気持ちだったのだろう。
そうやって普通である行動は恋愛に関しても皇室を開いたのだろう。
テレビ東京島田アナウンサー(2004年11月)
愛する人と一緒になるために皇室に嫁ぎ、皇室の伝統を大事にし、教えを請い、
皇室の一員となれるよう努めていくことが、 よりよい自分をつくっていくことにつながると考える紀子さま。
皇室に入るということを就職ととらえた、雅子さま。
異質の世界に嫁ぐ娘を内心心配しつつも、娘の今後にたしかな自信をもち、
皇族の一員となることへの責任と自覚をもつようにと諭している川嶋教授。
とにかく自分の幸せを第一に考えてほしい、いつまでもお前は私の娘だ との主張がみえる小和田氏
開かれた皇室は、特別な状態から少しだけ普通に近づくことだったのだろう。
そして、特別から普通になるということは、自由を手に入れるということでもある。
自由ではない状態とは、束縛されてる状態で、それは生活が監視され管理されることに繋がる。
眞子さまと小室さんの結婚延期は、開かれた皇室が許容した自由が起こしたいたずらなのかもしれない。
小室さんに対する事前の身辺調査がきちんとなされていれば今回の事態は避けられただろうが、その場合眞子さまは恋愛を引き裂かれることになる。
ということは、出会ってはいけない二人が出会ったという現代版ロミオとジュリエットだ。
自由であることは、"プライバシー遵守"と"パパラッチ的興味"というトレードオフの関心事を生み出す。
束縛されてれば、監視され管理され、周りに守ってもらえるが、自由がない。
自由であれば、思った通りに行動できるが、自分を守るのは自分だけとなる。
自由だけ、あるいは束縛だけという人生はない。
皆それぞれが、自由と束縛に折り合いを付けながら生きている。
眞子内親王の結婚延期について、朝日が「驚きの声」など当たり障りない反応記事でお茶を濁し、読売が「小室家をめぐる報道の中ではやむをえない。日本では家同士の結婚という意識が強い」云々の古色蒼然コメント掲載の中、唯一解説らしい解説を掲載し、見識を示した日経新聞。 pic.twitter.com/VDd0RcTJuT
— Shoko Egawa (@amneris84) 2018年2月7日
同じできごとを、どのように表現するかに多様性があることは、自由の為せる技だ。
しかし、自由とは不思議なもので、自由について考えると、アンタッチャブル(untouchable)ということばが頭に浮かんで消えなくなる。
なんでも出来る自由と、そんな自由を妨げようとする自由。
まるで『矛』と『盾』だ。
macの辞書アプリで検索すると、
ùn・tóuch・a・ble
形容詞
1 〈人が〉(権威などのために)手出しをされない, 批判されない, 罰せられない.
2 触れることのできない, 手の届かない.
3 比類のない, 無敵の.
4 不可蝕賤民(せんみん)の, けがらわしい.
5 触れてはならない.
名詞C
〖しばしばU-〗不可触賤民〘かつてのインドでの最下層の人〙.
映画「アンタッチャブル」は、禁酒法時代のアメリカで酒を扱いたい犯罪組織とそれを阻止しようとする政府側の闘いを描いているが、そのタイトルのアンタッチャブルとは"賄賂に屈しない"という意味だ。
辞書を見れば分かるように、身分として最上位の特権階級も最底辺も言葉上は同じになる。
はっきりと書かれたものは無いが、色々検索すると、元の意味は不可触賤民を意味するもののように感じられる。
もとの意味が生まれた頃は、自由が少なく、差別的身分制度があったのだろう。
しかし、その最下層に属してる人が自由を手に入れかつ特権を手に入れた様な時に、出自を知るものが畏敬の念を込めて"手出し出来ない"という意味で使いだしたのではと想像する。
恋愛だけならば何の障害も無かった眞子さまと小室さんの間には、結婚となると超えなければならない大きな大きな見えないアンタッチャブルがあったようだ。