違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

不安の根源にある『無い物ねだり』!

縦横無尽に広がる枝葉には幹という中心があり、幹の下の見えない土中には枝葉と同じかそれ以上に根が張り巡らされている。

 

多様化するものを考える時は、無意識のうちに枝葉を想像する。

 

そして幹に相当するものは何だろうかと自然に連想しようとするだろう。

 

しかし、根のことは考えないかもしれない。

 

本当は根のことも思い浮かべる必要があるのかもしれない。

 

 

社会学や心理学(に限らないだろうが)は、複雑に見える枝葉のような世間で起こる事象に対して、中心に幹のようなシンプルな原理原則が働いているならば解き明かしたいと考え、追求したものと言えるだろう。

 

 

目に見える幹を中心にして広がる枝葉を見る場合と、広がった根が幹に集約されてる様を想像するのとでは、受ける印象が全く違ったものになる。

 

そのようなことが頭に浮かんだら、根につながることとして、根源に興味が湧いてきたので焦点を当ててみた。

 

 

古代ギリシアではものごとのρχή アルケーは何なのか、ということが問われた。このアルケーを日本語に訳す時に一般的に(/しばしば)「根源」があてられている。アリストテレスは『形而上学』で、先人たちのアルケーに関する見解を紹介し、ミレトスのタレースは万物のアルケーは水だとしたと言い、ヘラクレイトスは火、ピュタゴラスは数、エンペドクレースは土・水・火・空気の四大からなるリゾーマタ、デモクリトスはアトモス(不可分体)、アナクシマンドロスは無限定(ト・アペイロン)だとしたという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/根源

 

 

 

 

ネットを検索すると、根源的な〇〇とタイトルが付いたものを見かけるが、それらの多くは読むと枝葉に感じられるし、日常会話で使うことがある諸悪の根源も同様に枝葉に感じられることが多い。

 

実際の樹の根のように広がっているのが根源の特徴かもしれないが、幹のような根があるのではないかと探してみて、共感できそうなものを選んでみた。

 

 

 

 

 

 

上記二つのツイートでは、どちらも根源的な不安と表現されてるが、むしろ全ての根源の中心に不安が鎮座してると思えてくる。

 

人間の場合、感じうる全ての不安や悩みはほぼ人間関係に帰属すると言われる。

 

極めて個人的なことであっても、家族や周りの身近な人のことを過剰に意識するから不安や悩みになってしまうという理屈だ。

 

失敗を恐れるのは、自分自身が自分以外の人の目を勝手に意識してるからだ。

 

死ぬことが怖いのはいつ死ぬか分からないからであり、死んだらどうなるか分からないからであり、死んだら誰かに迷惑がかかるのではと考えることだったりする。

 

もし地球上の人間が全て同時に死ぬとしたら、死ぬことは不安や悩みにすらならないだろう。

 

 

そう考えると、不安や悩みの根源は人間の場合は人間関係と言えそうだが、最近は少し変化してるのは、従来の人間関係はあるのが当たり前だったが、いつの頃からか人間関係があるのか無いのかが曖昧になってきている。

 

従来は人間関係が濃いから不安や悩みになっていたのだが、最近は人間関係が薄いことが新たな不安や悩みにつながってるように感じられる。

 

人間関係でがんじがらめになることを束縛と言うが、束縛の反対語は自由。

 

つまり現代人は束縛で感じていた不安や悩みから抜け出そうと自由を求めたのだが、自由が身近になると新たな不安や悩みが出てきているのだ。

 

 

このように考えると、不安や悩みの根源に見えるような気がしていた人間関係だが、その更に根源には無い物ねだりが見えてくる。

 

 

格差が著しい現代では、カネさえあればと思う人が多いが、おそらくカネがあっても別の不安や悩みが出てくるはずだ。

 

結局、どんな人間でも不安と悩みを抱えてることになる。

 

全ての人は平等だ。

 

神様ってすごいなと思えた!

 

擬似体験からリアル体験へのシフト!

字面だけで『便利、快適、楽』の反対語を思い浮かべると誰だって避けたいと思うだろう。

 

現代は、『便利、快適、楽』を求めることが当たり前になってるが、少し視点をずらすと『便利、快適、楽』の反対はスポーツトレーニングが当てはまってもおかしくないと気付く。

 

考えようによっては、避けたい嫌なことの一部は趣味や遊びのように喜んで続けられるものに変えていけそうだと思えてくる。

 

 

テクノロジーや高度なインフラで発展した先進国も、技術の代替わりが進むと下に見ていた発展途上国が殆ど同じ地位に辿り着いてることに気付くことがある。

 

そうなると、先進国の売りは先進性では通用しなくなり、観光や伝統を絡めたアクティビティにシフトするような気配を見せるようになる。

 

 

日本では政府ですら気付いたらもうビジネスとしては終わりだという話もあるがそれはさて置き、日本政府も観光やスポーツビジネスに活路を見出そうとする意識が高まってることがこの数年感じられる。

 

その頂天に位置するのが2020東京オリンピックだと考えると、オリンピック終了後には暗さが漂うようになるが、これはスポーツを見る(観る)ものだと思ってるからこその考え方だ。

 

スポーツは見る(観る)よりも、することを楽しむものだという考え方や感じ方が2020年に定着することができれば新しい価値観がどんどん生まれてきそうな気がする。

 

 

エンターテインメントの歴史を振り返ると、スポーツや冒険が持っていた興奮やリアリティをエンターテインメントが奪って行ったように思える時がある。

 

映画や最近のゲームを見ると、冒険やチャレンジの擬似体験をなんのリスクや身体的な危険もなく楽しめる方向にどんどん向かっていて、AR(Augmented Realityの略で、日本語では「拡張現実」)やVR(Virtual Realityの略で、日本語では「仮想現実」)へ進化(深化)している。

 

つまり、大きな傾向としてリアリティの擬似体験をありがたがる時代が続いてきたのだ。

 

擬似体験するためには道具が必要になる。

 

そんな道具を揃えることは、広い意味でモノを消費することを意味する。

 

 

消費という観点で見ると、最近はモノ消費からコト消費へシフトしてるとマーケティングの世界では見ているが、これは擬似体験からリアル体験へのシフトと似てるのかもしれない。

 

最近巷では筋トレがブームと言われてるが、実際にはブームと言われる程大きなものにはなってないと思うが、少なくとも少し前までは潜在的な存在だった人たちが顕在化し始めているのは明らかだ。

 

スポーツという観点で見ると筋トレはスポーツ以前のものに位置付けられるのだろうが、スポーツとの大きな共通点は、リアルに体を使い、そのフィードバックをリアルに感じられることで、そのリアルさが好ましければ次のモチベーションにつながるという好循環を生み出すという特徴がある。

 

この持続の好循環は、依存や中毒と似てるようで大違いだ。

 

体を使うということを代表してスポーツを例に話してきたが、大事なことは体を使うことで、スポーツである必要はない。

 

体を使うことのトレードオフが『便利、快適、楽』なのだが、なぜそのようなシフトが起きているかというと、『便利、快適、楽』が人を幸せにすると考えていたのに、それではと言うよりそれだけでは幸せになれない人が増えてきたからだろう。

 

そうなると、トレードオフしていたものに目が向くのは当然だ。

 

それなりのレベルで『便利、快適、楽』を実現できているのに幸せの度合いが低いと感じる人に必要なことは、体を動かすことかもしれない。

 

だとしたら一番手っ取り早いのがスポーツをすることだ。

 

一人で、どこででもできるスポーツなんて探せばたくさんあるのだが、多くのスポーツは上達しようとすると勉強と同じでかけた時間と上手さは比例しないが、筋トレはほぼかけた時間と成果が比例する、だから高学歴で勉強に悩んだことがある人ほど嵌りやすくなるのは、かけた時間に成果が比例することが快感になるからだと言われてる。

 

なにごとも夢中になってる人は、興味のない人からは依存や中毒を患ってると見えてしまう。

 

『外見』が与える第一印象の魔力!?

第一印象は当てにならないが、大きな追い風になることもあれば、立ち塞がる壁になることもある。

 

第一印象の多くは外見だ。

 

 

外見は一番外側の中身

 

ということばもある。

 

 

昨年亡くなられたマンガ家の小池一夫さんのTwitterのフォロワーは今でも80万人以上いる、いつも弱者に優しいことばをかける小池一夫さんのことばであることが重い意味を与えてくれる。

 

外見を理由にしてうんぬんするのは差別だと嫌がられる傾向が強いが、それは外見を気にする自分の気持ちを知ってるからこその自己嫌悪に近いような気がする。

 

外見や振る舞いをマナーと呼ぶと、上手に世渡りをするための必須事項になる。

 

「20歳の顔は自然から授かったもの。30歳の顔は自分の生き様。だけど50歳の顔にはあなたの価値がにじみ出る」byココシャネル

 

 

人は自分が思ってる以上に他人を外見で判断してるし、自覚は薄くても自分自身も外見で他人から判断されているものだ。

 

何かの拍子にそういう現実を意識させられるのだが、そんな一つの事例が次の記事(記事の中身は連続のツイート)。

 

 

出産前は金髪で、お宮参りのために髪を暗く染めたら…世の中の対応の変化に「悲しすぎる」「そんなに顕著なのか」と驚きの声

 

 

人は、自分の嫌いなファッションや外見をしようとは思わないし出来ない、全く興味が無いということはあるかもしれないが。

 

つまり、結局外見にはその人自身や価値観が強く反映されることになる。

 

それが、純粋に自分自身の興味や関心の反映である場合と、他人の目や他人からの評価を意識してる場合の違いはあるだろうが。

 

 

 

外見とは、広い意味でのアウトプットなのだ。

 

 

 

形があるものの外見の場合はデザイン、

 

本だったら装丁、

 

絵画だったら額縁、

 

 

これらは第一印象に大きく影響するという意味では中身より大切と言えるし、逆に言うと、私たちが中身だと思ってるものはおまけだと言っても良いかもしれない。

 

第一印象の与え方を失敗するとその先は無いのだから。

 

 

中身の反対として語られることが多い外見だが、技術や観察が重要な理系の世界では目視という言い方をする。

 

外見を気にすると言うと感情的なできごとになってしまうが、外見の変化に気付くことを目視と呼ぶと、途端にアカデミックな香りが漂ってくる。

 

目視が必要な世界では、一回の目視(=第一印象)では終わらずに一定の間隔で連続的に変化を見極めようとする。

 

しかし、外見を気にする世界では、一回の目視(=第一印象)でレポートや論文が書き上げられるのだ。

 

間違ってれば修正するつもりがあっても、一旦印象付けられると修正は容易ではないのはインプットのされ方のせいかもしれない。

 

一般的には外見はアウトプットとして意識されるので、他人の外見を見て、同じ格好を自分がするとしたらどういう心境の変化が必要になるだろうかと考えるのではないだろうか?

 

その答えが『無理!』と第一印象としてインプットされると、その判断が間違っていたとしても修正は容易でなくても不思議はない。

 

たかが外見、されど外見!

 

 

 

外見で得をしたという声も探してみたが、見つかるのはダイエットに成功した人の、周りの人(異性)の反応が違ってきたというようなものが多く、それ以上に生々しいものは簡単には見つからなかった。

 

実は外見で得をしてる人の多くは、外見なんて気にしてなくて、むしろ内面が評価されていると思い込んでいるのかもしれないという仮説は浮かぶがそこまでだ。

 

 

仮説が当たっているならば、外見に反応してるのはおそらく自意識過剰だ。

 

だとすると、外見が与える第一印象や外見を気にし過ぎる自意識過剰は、今日もそしてこれからも悲劇や喜劇を生み出すのだろう。

 

あなたは上書き保存派、それともフォルダー保存派?

『男はフォルダー保存で、女は上書き保存』、こんな話をつい先日テレビ朝日の弘中アナがアベマTVで言ってるのを聞いて、なるほどと思ってしまった。

 

恋愛に関しての男女の違いとして言っていたのだが、男女の違いや恋愛に関してにとどまらず、フォルダー保存を選択するか上書き保存を選択するかというのは生き方の違いや価値観の違いとして大きいかもしれないと思った。

 

由来に興味があったので調べてみると歌手の一青窈さんが歌詞で使っていたらしいと分かった。

 

 

そしてもう一つおもしろいツイートがあった。

 

 

一つ区別した方が良いだろうなと思えるのは、記憶してることとフォルダー保存してることの違いだ。

 

フォルダー保存の記憶は鮮明だが、時には間違った内容で保存される可能性がある。

 

単なる記憶は、そういうことがあったという事は覚えていてもデータとして活用できるほどの鮮明さは持ち合わせてない場合が多いので、懐かしいと感じる思い出に近くなり、このレベルだと良いことも悪いことも大した違いはなくなる。

 

 

上書き保存をするというのは、別の言い方をすれば、アップデートを躊躇しないということだろう。

 

例えば、OSやアプリのアップデートがリリースされたら私は比較的躊躇なくアップデートする方だし、自分がそうだと世間も似たようなもんだろうと思っていたが、実際にはかなりの人たちがアップデートを躊躇するし、なんの迷いもなくアップデートはしないという人も多いのだ。

 

アップデートを躊躇する人は、今現在上手く行ってるものに変更を加えてそれがきっかけで不具合が出たら嫌だから必要ないと判断するのかもしれない。

 

このような考え方は、一事が万事と相性が良い気がする。

 

 

女性は占いが好きだといわれるが、これなど実際には起きてもいないことで絶えず脳内のデータを上書き保存したいという気持ちの現れかもと思えてくる。

 

今現在に不満がなくても、もっともっとと望むからなのかもしれない。

 

 

あるいは、新しい何かの予感が感じられないと退屈だと感じるのかもしれない。

 

 

もちろん今現在に不満があれば積極的にアップデートや上書き保存はしたくなるはず。

 

 

一方、フォルダー保存派がなんでも蓄積するのは全てに保険を掛けるような気持ちと通じるような気もする。

 

取捨選択が出来ないので、大切なものとそうでないものの区別がつかなくなり、取り敢えず全て大切なもの扱いをするのかもしれない。

 

フォルダー保存派の悪しき究極がゴミ屋敷だと思えてくる、上書き保存派にはゴミにしか見えないものが大事なお宝に見えてしまうのだ。

 

このように考えると、世の中にたくさん見られる『どうしてこんな(そんな)ものに執着するんだろうか?』と思える現象の説明がつくような気がしてくる。

 

 

上書き保存出来ないとキツイなと思えてくると同時に、例えば頻繁に付き合う相手を変えたりや離婚と再婚を繰り返すような人達や転職を繰り返してばかりのような人達の中には上書き保存症候群の人もいるのだろうなと思えてくる。

 

世間からは、長続きしない人と見られがちな人の中には、実際には上書き保存の度が過ぎていると言ったほうが相応しいかもしれない人もいるだろう。

 

同じ人の中にもフォルダー保存派の自分と上書き保存派の自分が同居してることは珍しくなく、日常生活の中では折り合いがついてることが多いだろうが、何かの拍子に対立関係が露呈することはあるはず。

 

言ってる(頭で考えてる)こととやってることが違うなんていうのは、矛盾と捉えるよりも葛藤と捉える方が似合ってそうだ。

 

平和を望みながらも競争という争いに余念がなかったり、安全が一番だと思いながらも危険は避けたいと思いながらもチャレンジはしてみたいと考えるのはちっとも不思議なことではない。

 

永遠に続くことを夢見ながら、日替わり商品に惹かれるような。

 

パソコンやスマホなどのITの普及が無ければフォルダー保存や上書き保存という分かりやすい分類を人間の行動に当てはめて考えることは難しかったはず。

 

 

こういう分類は昭和の頃はどう表現してのだろうか?

 

簡単に表現出来ないとストーリーで伝えるしかないだろう、もしかしたらジキルとハイドのような二重人格もフォルダー保存と上書き保存の葛藤で説明がつくのかもしれない?

フッ化水素をめぐるゴシップ!

日本では歯に関して使われるものだとして知られているのがフッ素。

 

このフッ素と水素を化合させてできるのがフッ化水素

 

今日は、この生活の身近にあるようでよく分からないフッ化水素(通称フッ酸)をめぐるゴシップ話。

 

Google Trendsで検索可能な2004年以降の動きを見ると、

 

GoogleTrends 「フッ化水素」2004年以降

 

大きな山が二つあるのが分かる。

 

最初は2013年3月で、新しい山は2019年7月。

 

フッ化水素の何が検索されていたかというと、2013年に関してはこれ。

 

女性の足指、5本切断「フッ化水素酸」 肌、骨溶かし、死亡にまで至る猛毒  2013/3/29

思いを寄せていた女性の靴に猛毒の薬品・フッ化水素酸(フッ酸)を塗り、足の指5本を切断させたというニュースが世間を震撼させている。

   犯行に用いられたフッ酸は、工業用に広く用いられている薬品だが、硫酸よりも強い腐食性をもつ。専門家よると、骨が溶けたり、死亡したりすることもあるという。

 

 

そして2019年7月はこれ。

 

大韓民国向け輸出管理の運用の見直しについて 経済産業省

7月4日より、フッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素の大韓民国向け輸出及びこれらに関連する製造技術の移転(製造設備の輸出に伴うものも含む)について、包括輸出許可制度の対象から外し、個別に輸出許可申請を求め、輸出審査を行うこととします。

 

 

フッ化水素がどのような用途に用いられてるかは検索すれば詳しく出るので特に触れないが、製造技術には高度なノウハウが必要で特に純度が99.9999999999%のものは日本でしか作られていないという特徴があり、数少ない日本が世界に誇れる技術なのだ。

 

しかし、フッ化水素をめぐる問題のおもしろいところはフッ化水素の問題のようでいて実は日韓両国の感情の問題に見えるところがおもしろいので、まるでゴシップ話に感じられる、そして途中からはアメリカ企業も参入し始めてるのだ。

 

 

 

先ず、フッ化水素の取引に条件を付けてきた日本の動きに対して韓国は、

 

韓国企業、輸出規制受けフッ化水素を増産 日本製品の代替目指す  Newsweek 2019年7月23日

 

と反応した。

 

フッ化水素の自国生産を目指した韓国は、高純度ではないフッ化水素は実用化できたらしいので一部の用途に関しては代替されていったが、高純度のものはハードルが高く日本に頼らざるを得ない状態なので8月は一旦取引量がゼロになったが、その後は取引量は下がっても続けられている。

 

韓国向けフッ化水素輸出、1年で3283t→100kg 9月  貿易統計 前月比では若干回復  2019/10/30  日本経済新聞

 

 

その後は9月に比べると増えているが10月は約900kg、11月は約950kgに留まっている。

 

12月分の発表はまだされていない。

 

しかし、おもしろいのは取引量が変化したことよりも、取引価格の基準単価が激変したことだ。

 

韓国向けフッ化水素の価格、輸出管理強化後に264倍も値上げされていた! 韓国が超高値でフッ化水素を買わされていたことが発覚!

 

 

さらに、超高純度でなければ自国生産できると考えていた韓国製フッ化水素を使った製品が大量の不良品を出しているらしく、このような話が出ている。

 

 

サムスン・LGの業績失速、「韓国時代」の終わりの始まりか 1/13(月)

有機ELも問題を抱える。韓国の報道によると、LGディスプレイーが米アップルに供給した「iPhone(アイフォーン)11 Pro」シリーズ向け有機ELパネルで、日本製から切り替えて国産化したフッ化水素に起因して大量の不良が発生したと見られる。

 

 

一見韓国の完敗に見えるのだが、ここに来てまた新しい動きが出ている。

 

 

米デュポン、韓国で半導体材料生産 日韓対立間隙突く   日本経済新聞 2020/1/9

韓国政府は半導体材料の国産化を掲げ外資企業の工場誘致を促しており、デュポンのような動きが増えれば日本企業の競争力に影響する可能性もある。

 

 

このデュポンの動きが明るみに出るやいなや、

 

 

森田化学、フッ化水素の韓国輸出を再開 日本経済新聞 2020/1/9

森田化学は韓国で約3分の1のシェアを持ち、サムスン電子やSKハイニックスなどの半導体メーカーに供給していた。

 

 

この件は韓国国内ではデュポンの動きにビビって日本が引いたと伝えられてるようだ。

 

 

そもそも日本がフッ化水素の規制に動いた理由は、化学兵器に利用される可能性が高いことがあり韓国経由で北朝鮮や第三国に渡ることを警戒してのことだったのだが、この動きに対して韓国は徴用工問題の報復と解釈したことから始まっている。

 

断片的なニュースとして見てると全く興味が湧かないのだが、政治や経済の中枢では感情的な人間ドラマで事態が展開してることが分かると、芸能界のゴシップと同じレベルで楽しめることが分かった。

 

今後のフッ化水素の取引をめぐるニュースが楽しみだ。

阪神大震災が25年前だと気付いて思うこと!

25年前の1月17日に阪神大震災が発生。

 

それを受けてこんな見出しの記事が出ていた。

 

地震切迫度 31の活断層で“震災直前と同じか それ以上” 2020年1月17日

25年前の阪神・淡路大震災を教訓に国は全国で活断層の調査を進め、発生確率などのリスクを評価してきました。現在、地震が起きる切迫度が阪神・淡路大震災の直前と同じかそれを上回る活断層が31あり、改めて活断層地震への備えが重要になっています。

 

先日のブログで地震について書いた。

 

 

www.chigau-mikata.club

 

その中でも書いたが、歴史に残る地震とは死者1000人を超える地震で、統計上は13年に1回発生するのだが、阪神大震災の前は50年前に遡るのだ。

 

そして、阪神大震災の次は2011年3月11日の東日本大震災。

 

 

阪神大震災を小学2年生で体験した女優の北川景子さんは次のように述懐している。

 

「自分が暮らしていた街が、昨日まで普通だったのに今日、こんなふうに壊れてしまうんだというのがすごく悲しかったですし、大きな衝撃でした」と感じたというが、

 

「全国の皆さんが神戸のためにたくさん救援物資を送ってくださったり、エールを送ってくださったり、たくさんの方の支えがあってここまで復興することができたと思います」と力強く語っている。

 

さらに「私は皆さんに元気や希望、勇気、励ましをお届けできるような活動をこれからも頑張っていきたいと思いますので、皆さんも一緒に頑張っていきましょう」

https://mantan-web.jp/article/20200115dog00m200065000c.html

 

 

 

 

 

 

25年前の阪神大震災のことをしっかり記憶してるとすれば体験者を除けば現在の35歳以上くらいだろうか。

 

それより歳下だと、学習での知識になるのだろうか。

 

今年の1月17日は阪神大震災の話題が多いような気がするのでGoogleTrendsで直近5年を見てみると、

 

GoogleTrends 「阪神大震災」直近5年

 

2016年4月の熊本地震や2018年6月の大阪北部地震の時にも検索が増えていることが分かるが、今年が特に多いわけではなさそうだ。

 

阪神大震災の話題というよりも次の大地震の話題が増えているのかもしれない。

 

昨日はこんな見出しが出ていた。

 

 

浅い部分で「ゆっくり滑り」 南海トラフで検出 海保・東大 1/16(木)

紀伊半島沖から四国沖にかけての南海トラフで、陸海のプレート境界の浅い部分がゆっくり滑る現象を7地点で検出したと、海上保安庁の石川直史火山調査官と東京大の横田裕輔講師が15日付の米科学誌サイエンス・アドバンシーズに発表した。

 

わたしが地震が気になってるから地震の話題やニュースに気付くのか、それとも地震の話題やニュースが実際に増えているからなのかはGoogleTrendsを使っても知ることはできない。

 

 

25年前わたしは阪神大震災のことを会社で知った。

 

社長室の扉が開いていたので中を覗き込むと社長と社長の弟の取締役(二人とも高齢)がテレビに夢中だったが、覗いてる私に気付くと手招きをして、「大変なことが起きている」と言った。

 

テレビが伝える映像のインパクトもさることながら、社長室を覗いていて手招きで呼ばれたという記憶と相まって阪神大震災には特別な思い出がある。

 

1995年当時だと、速報性においてテレビやラジオに敵う媒体は存在しなかった、だから大勢の人がテレビにかじりついただろう。

 

一方、東日本大震災の頃にはインターネットとSNSの普及でテレビやラジオといった大きなメディアに頼らずとも草の根の情報や安否確認の方が高い機動力を発揮できることが明らかになった。

 

事件は会議室ではなく現場で起きているということを思い知らされたのだ。

 

学者や研究者の中には、人間が開発した技術の多くは人間を幸せにはしてないという指摘をする人がいるが、その中でもインターネット関連は平常時はあまり良く言われないが、この時ばかりは違っていた。

 

阪神大震災が起きた時、被災の中心だった神戸に住んでる方の多くが神戸で地震が起きるなんて想像もしてなかったというようなことを言っていたのを聞いたような気がする。

 

Wikipediaには工業化時代の後に情報化時代が始まり、現代は知識経済または情報化社会になっていると書かれていて、『情報化時代は1972年から1992年まで続いたと推定される』と書いてある。

 

情報化時代のその先の時代に移っていたとされる1995年に起きた阪神大震災は、われわれは何も分かっていないと思わせるに十分だった。

 

 

今の日本では、いつどこでどんな規模の地震が起きても不思議はないという知識や情報は表面上は行き渡っている。

 

それでもきっと、次の大地震が来た時は、まさかこんなことが起こるなんて思っても見なかったと言うのだろうという気がする。

 

人間ドラマではなくシューズドラマだったランニング競技!

勝負の世界では勝つためにあの手この手が駆使される。

 

勝つために相手を上回ろうと努力し、そして時には相手の足を引っ張ろうとする。

 

そんな勝負の世界の中の一分野であるスポーツに焦点を当てて見たい。

 

相手を上回ろうとするための努力は、第一番目に体力や技術の向上に向けられる。

 

相手の足を引っ張るための努力と自分を高めるための努力は表裏一体で現在では境目があいまいになってしまったが、大前提となるイコールコンディションで競い合うために設定されたルールの盲点を狙うことも努力の対象になってしまう。

 

オリンピックで必ず話題になるドーピングも、ルールの盲点を突こうとするもので、建前と本音は薬物の効能の発見とと検出技術の向上のいたちごっこの繰り返しから伺い取ることができる。

 

このドーピングが体内で作用するものであることに対して体外で作用するものとして身に付ける装備品もドーピング的な役割を果たすことがある。

 

ランニング競技の多くは順位を競うだけでなくタイムも競争の対象になる。

 

サッカーやラグビーのような競技も激しく走ることが求められるが、ランニング競技の走りとは走りの質が全く違っている。

 

ランニング競技の走りは、均一な走りの連続という特徴があり、他の競技に比べてそこが盲点になる。

 

うわさはあったが、やっと事態が動き出したようだ。

 

ナイキの厚底シューズ禁止と英報道、過去の記録は残る見通し/陸上

デーリー・テレグラフ紙(電子版)は世界陸連の専門家による委員会が検証し、底の厚さに制限を加える規則を設けることになったと報道。現在人気を集めているモデルはトップレベルでは使用が禁じられるとした。タイムズ紙(電子版)によると世界陸連は既に出された記録については抹消などはしない見通し。

 

水着のレーザレーサーの二の舞を感じる人も多いだろう。

 

 そして2010年1月にFINAは競泳水着の規定の変更を最終決定した。これにより、水着の布地は「繊維を織る・編む・紡ぐという工程でのみ加工した素材」に限定され、水着が体を覆う範囲も、プール競技では男性用は臍から膝まで、女性用は肩から膝まで、オープンウォーター競技では男性用、女性用とも肩から踝までに制限された。

 

 

 

 

ランニング競技でシューズに注目するようになったのはいつ頃からなのだろうかと検索すると?

 

スパイクシューズが誕生したのは1895年。

 

『どうしたらもっと速く走れるだろうか?』というイングランドの一人の男性の興味から生まれたとある。

 

彼がスパイクシューズを使って駆け抜ける様を見た多くのスプリンターが同じシューズを作ってくれと依頼。

 

そうして誕生したのが現在のリーボックの前身であるJ.W.フォスター社。

 

その後スパイクシューズは普及し、メーカーも増え、シューズの競い合いが始まったが、さらにスパイクの食いつきを良くするためのトラックづくりにつながって行った。

 

当初のトラックは土やアンツーカー(レンガを砕いたもの)。

 

1960年代になると、全天候型として合成ゴムやポリウレタンで覆われたトラックが登場するようになった。

 

このトラックの作りの変更もその後のシューズには大きな変化を与えるとともに、選手としてのランニングの適性にも大きな影響を与えることになったはずだ。

 

1964年に100mの日本記録を出した飯島 秀雄さんはその脚を買われてプロ野球に入ったが、期待されたほどでもなく引退した、2017年8月27日放送の「消えた天才一流アスリートが勝てなかった人大追跡SP」(TBS)で陸上界から去った理由としてこう言っていた(わたしもテレビで見ていた)。

 

「自分の走法は土のトラック専用で、メキシコ五輪から導入された合成ゴムのトラックには合わないから」

 

ドーピングにしろシューズにしろ、そのおかげで記録や勝ちが得られているとしても、それだけで誰もが勝てるわけではないのだが、勝てる理由は努力などとは別の、合う合わないが関係してるようにも感じられる。

 

だとすれば、努力の方向性は合わせることに向けられるべきだとも言えるかもしれない。

 

クルマの世界が好きな人だと分かりやすいが、速さの限界はタイヤの限界で、どんなにパワーがあってもそのパワーをタイヤが受け止めきれなければ路面にパワーは伝わらない、速く走るという意味での上手な運転とは限られたパワーを確実にタイヤに伝える技術なのだ。

 

そう考えると、タイムとしての走りを決定付けているのはシューズとトラックのように思えてくる。

 

ランニング競技のタイムの短縮の歴史を見ると、人間の体力や能力が大きく進化したように感じられるが、本当は昔の人に現代と同じ環境や道具を与えたらもっと良い記録が出るのかもしれないし、現代のトップ選手に昔の環境と道具を課したら記録は平凡なものなのかもしれない。

 

 

現代のランニング競技でタイムの更新が著しい種目の主人公は、もはや人ではないのかもしれない。