違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

Pythonでも始めてみるか!

個人や小さな組織が行うせどりや転売というのは、問屋の分散化みたいなものかもと思い当たった。

 

豊富な資金力が背景にあるわけではないので、バクチ的で、自転車操業的になるという意味で、株のデイトレードやFXなどと構造が似てそうだが、勝算を得るためには目利きや嗅覚が問われる。

 

取り組んでる人たちは、ただのバクチで終わらせないために、絶えずアンテナを貼り情報を収集分析してるはず。

 

こういうことには、これで終わりが見えないから、結果疲弊していくのは見えている、もちろん例外はあるが。

 

 

揶揄されがちなビジネス的な傾向は、世の中が変化してるから発生し、大勢の人が試行錯誤してることを意味してる。

 

今も昔も、新しい動きに胡散臭さやいかがわしさが漂うのは同じこと。

 

もともとあった仕事がどんどん減り、残った仕事は低賃金化するという負のスパイラルは目に見えるが、新しく生まれてる高賃金の仕事は見えにくいし、辿り着きにくい。

 

 

新聞記者、ニュースキャスター、DJ…米調査「将来が危ない最悪の仕事」ワースト10

フーレイとオズボーンのモデルは、AI(人工知能)の研究者たちからは、正確性を欠く、曖昧すぎると批判されていますが、コンピューターが可能なのは、ごく単純な作業だけである、という点は合っているようです。

 

この記事では、機械化され、自動化される仕事が消えていくだろうとまとめている。

 

機械化や自動化に馴染まないことは人間しかやれないとも書いてある。

 

こういう情報は、これまでも散々聞いてきたし、実際その通りだろうなと思ってはいるが、その次の行動をどう取るかというモチベーションにはなかなか繋がらない。

 

自分の周りの簡単な作業がどんどん機械化され自動化されてるがために、自分の存在感が薄まっていくことには抵抗感があるが、それに抗ってもしょうがない。

 

それよりも、自分がやってるアナログな作業の中には機械的な自動化の方が効率も良く精度が高いという可能性があるかもしれないと思いついた。

 

自分にできるかどうかは別にして、少し興味を持っていたPython(プログラム言語)でもやってみたいなとは思っていた。

 

5〜6年前に電子工作に夢中だった時期がある。

 

やったレベルは初心者クラスで、Arduinoを使ってのプログラムで、その後ごく初歩的なobjective-CとSwiftも軽くかじったが目標があったわけではないので、そこでやめて、今では綺麗さっぱり忘れてしまったが、プログラムが奥深いことは感じていた。

 

 

例えば、自分が日常的に行ってる検索などの作業をプログラムで自動化すると、手動で検索する場合との間に違いが出るならば、その違い方は知りたい。

 

 

 

昨日からのiPad Proのニューモデルの話題を読みながら、自分が日常行ってる単純作業の自動化はできた方が良いかもしれないと思い始めてる。

 

まずは、アナログな情報収集から始めたい。

 

自由化多様化のような軽薄短小化!

情報としてはありふれた、広告費の媒体別のシェアの割合の変化の推移を、動画にしてるツイートを見つけた、変化や推移が生き物みたいでおもしろい。

 

 

 

登場した当初はまるで存在感がなかったインターネット広告は、テレビや新聞など他の媒体からシェアを奪う様子がハッキリ見えて新鮮だ。

 

その変化の動きを見ていてふと思いついたのが、この動きの背後で見えない別の動きが起きていたのではということ。

 

 

これまでなんとなく分かっているような、分かってないような気がしていたことが、きっとそうに違いないと思え始めた。

 

 

見えない動きというよりも、気付きにくい動きと呼んだ方が良いかもしれない。

 

おそらく、世間的にはSNS関連で一括りにされてしまってる背後で起きていたことと言えるのだろうが。

 

 

上記の動画を見ながら最初に感じたのは、そういえばある時期から雑誌や新聞の編集者や記者の中に過剰にクローズアップされる人が増えたなということだった。

 

本来は裏方な存在だと思っていたが、いつの頃からか編集者や記者の芸能レポーター化が進んでいた。

 

そのことと、広告費の変化に関連があるような気がしたのだ。

 

インターネットの伸びとともに、属性の変化が起きていたのだなと思えてくる。

 

従来は会社や会社内の部署や媒体種毎に紐付いていた関係性が緩み始めて、個人が前面に出るようになっていたのだなということで、正規社員であってもメンタリティ的にはフリーな人が増え始めていたのだなということだ。

 

名前が売れてる人ほど、会社や組織に所属していても、帰属意識は薄いか全くないだろうと思えてくる。

 

そういう人たちの帰属意識は、あるとすれば会社や組織ではなく、世間や社会だろう。

 

優秀な営業パーソンのプライオリティは、会社ではなくお客であるように。

 

その一方で、大半の名もない人々は所属や帰属に強い執着心を持つという二極化も強くなってるはずと改めて思え始めた。

 

 

つまり、昔だったら組織や看板の力だと思えていたことの一部は、確実に個の力にシフトしてるはずだし、この傾向は止まらないと思える。

 

同じ理屈で、組織や看板に力を与えていた数字や人数というのが錯覚になっているのだ、現代は。

 

 

選挙や政治の世界で耳や目に馴染んだ組織票という存在だって、弱体化しながら変質してるはず。

 

圧力団体なんていう不気味な隠然とした力を持つような存在だって、今や『幽霊の正体みたり…』的な存在なのかもしれない。

 

そう思いながら気付いたのは、最近日本会議や神社本庁ってどんどん権威が失墜してるなということ。

 

ネット上を検索すると、日本会議や神社本庁という存在は機関紙や封書やFAXでその影響力を保ってきたが、ネットの時代に対応することができずに分裂衰退してるという論調の記事があった。

 

この衰退の流れも、冒頭で紹介した媒体別の広告費の変化の推移とリンクしてるはず。

 

旧式の一斉送信という一方通行の情報発信で、人の心がコントロールできる時代は終わりつつあるのだ。

 

もう、通り一遍のキーワードに大勢が集まることはないのだ。

 

大勢の人が集っていても、その思いはまるでバラバラで、集合体としての力は発揮できない。

 

つまり、見知らぬ人から見ると組織や集合体のように見えても、実態はバラバラな個なのだ。

 

これは、関係性や結びつきが薄くて緩いものにしかならないということで、仕事仲間や遊び友達だけでなく、家族関係、夫婦関係、親子関係にだって及んでいるだろう。

 

その人間関係の関係性の薄さの隙間に入り込んでいるのがペット市場のように感じるが、これだって薄いのは世間のニュースを見てれば感じられる。

 

1980年代、日本の産業界のキーワードが軽薄短小になり始めた。

 

それを象徴していたのがソニーのウォークマンやシャープの電卓。

 

思えば、日本が世界をリードした軽薄短小文化は今も続いているのだが、軒下貸して母屋を乗っ取られてしまった感じだ。

 

そんな軽薄短小化は、今や人間関係に及んでいるのだが、軽薄短小化してるというよりも、自由化多様化してると理解されている。

 

 

思えば、重厚長大なものを軽薄短小化させることがテクノロジーを発達させたが、現代はそのベクトルに代わるものはまだ無いように感じられる。

 

 

現代人は、仕事でもプライベートでも、コスト意識も高いので、なお一層の軽薄短小化が進むような気がする。

 

中国がアメリカを追い抜く時はもう迫っている!

昨日のブログで資本主義だけでなく民主主義も衰退してると書いたが、少なくとも岐路にあるのだろう。

 

書いてる時には気付かなかったが、だとしたら現在の米中の覇権争いにロシアなども加わった構図の行方は全く違ったものになるかもしれない。

 

ITの分野で急成長していた中国企業Huaweiの、スマホ関連分野での排除が先進国で進んだにも関わらずHuaweiは元気だ。

 

 

スマホ事業不振のHuaweiはIoTに活路を見出そうとしている 2021年4月01日

 

 

テクノロジーは、技術単体で優れているだけでは普及して行かない。

 

技術に加えて使いやすさやわかりやすさの方がむしろ大事になる。

 

Huaweiは、スマホ分野で先進国から排除されたが、そのことがキッカケで、スマホの次に来る分野へ、世界のどの企業よりも早く取り組まざるを得なくなっているし、その分野ではプラットフォームも結果的に独占することになる。

 

関連の主要技術に特許が設定されると、今Huaweiが世界から受けてる仕打ちを世界が受けることになる。

 

Huaweiの部分は中国企業と置き換えても文は成り立つ。

 

軍事、軍備におけるテクノロジーとも関連するだろう。

 

 

新しいインフラを敷設する場合は、古い既存のインフラがある場合よりも、何もないところに最新のものを一気に敷設する方が信頼性も安定性も高いものが出来上がって当然だ。

 

 

 

日本人の無自覚なメンタリティとして、アメリカこそ世界一だと思ってるし、そう思いたいというものがある。

 

そのための仕組みや人間関係の方が、そうでないものより多いし、濃密だろう、流通する情報ですらアメリカに偏っているだろう。

 

だから、アメリカがNo. 1であってくれなければ困る人も多いはずだ。

 

ほんの一時期Japan  as  No. 1などといわれ、その気になった日本人もいたが、そんな人たちも上に君臨するのがアメリカであることには抵抗が少なそうに感じられる。

 

 

中国、「2028年までにアメリカ追い抜き」世界最大の経済大国に=英シンクタンク  BBC 2020年12月27日

この他、インドは2030年までに世界第3位の経済大国に成長すると予測している。

 

 

かつてイーロン・マスク氏は将来のテスラのCEOは中国人エンジニアになるだろうと言ったとも伝えられる。

 

 

アメリカの大統領がトランプ氏からバイデン氏へ代わった。

 

人間性や価値観がまるで正反対のように思われてるが、両者には大きな共通点がある。

 

それはアメリカの復権を名実ともに図りたいというものだ。

 

 

 

焦点:バイデン氏、予想外の豹変 インフラ計画で米経済を急旋回

ジョー・バイデン氏がいわゆる「サイレントジェネレーション」に属する最後の米大統領となるのはほぼ間違いないだろう。この世代は第二次世界大戦期に子供時代を送り、成人になったときには経済が好景気に沸いて中間層が富を蓄え、米国は世界随一の工業国としての地位を確固たるものにした。

 

78歳のバイデン氏はその後半生に、国富に占める中間層の割合が下がり、成長の分け前が一握りの地域に集まるのを目にしてきた。彼は今、3月31日に発表した約2兆ドル(約220兆円)のインフラ投資計画で、この流れを逆転させ、ないがしろにされてきた人々や地域に資金を振り向けたいと考えている。

 

 

米中という対立軸を設ける場合の軸とは、民主主義の度合いになるような気がする、さらにその前提に資本主義があるだろう。

 

資本主義でかつ民主主義の場合、富を勝ち得た者は勝者となり、権力も名誉も掴むだろう。

 

しかし、前提が違うと、

 

中国が独禁法違反で巨額罰金、アリババ抵抗できず-6年前とは一変 4/12(月)

中国当局が電子商取引大手アリババグループに対し、独占禁止法違反で約182億元(約3050億円)に上る過去最大の罰金を科すと10日に発表した後、同社は規制当局に謝意を示すという異例の対応を取った。

 

これは中国での当局による大手テクノロジー企業への締め付けがいかに独特であるかを示唆している。米当局がフェイスブックやアップルに反トラスト法違反で過去最大の罰金を科したとしたら、マーク・ザッカーバーグ氏やティム・クック氏が公に謝意を示すことはないだろう。

 

 

良し悪しや、好き嫌いの枠を越えて、選択を迫られる時期は、もうすぐそこに来てるように感じられる。

 

 

中国的な価値観について、あまりにも知らなさ過ぎる自分に気付く。

 

中国を中心に世界が回り始めたら、生活がどう変わるかを想像くらいしておいた方が良さそうな気がする。

消失点はどこだ?

経済の成長や拡大には限界があるという話は5年くらい前からよく聞くようになった、いわゆる資本主義の限界論であり終焉論。

 

そして、コロナを巡ってこんな指摘も出てきた。

 

 

f:id:chigau-mikata:20210418104245j:plain

 

 

 

なるほどと思えるし、ゾッとする話でもある。

 

超人的な速さと大きさで障害物が現れる世界では、凡人の日常的な感覚(=世論)に押し流される民主主義はズッコケる運命にあるのかもしれない。

 

 

日本にいると見えづらいが、世界は民主主義の方がマイナーになっているらしいのだ。

 

 

 

 

資本主義や民主主義ですら絶対的に安定したシステムではなさそうに見えてくる。

 

そう、これは見え方の問題なのかもしれないのだ。

 

 

 

先日、絵心もないのにApple pencilを買って、少しずつ楽しんでいるのだが、根本的にセンスがないので理屈を学ぶことがセットで必要になる。

 

理屈が分かることには、新鮮な気付きになることもある。

 

人間の目が捉える映像と写真や絵の違いなど考えたことなかったが、写真も絵も一点から一方向を見たものの映像化なのに対して、人間の目は視野が狭いため絶えず眼球を動かしながら見ている。

 

多くの場合は、眼球が動く時にはそれに合わせて顔や頭も動くが、顔や頭を動かさずに眼球だけを動かすこともある。

 

つまり、何かを見てるときは、何かを連続的に正面で捉えようと目は動くのだ。

 

絵心のない人の絵がおかしくなる理由の一つは、目が捉えたままに描こうとすることにあるのだが、それは行為としては自然なことなのだが、描かれた絵は不自然になる。

 

その不自然さを解消するテクニックを体系的に整理したものがパースと呼ばれるもので、Wikipediaでは遠近法として載っている。

 

 

絵心のない人は、パースについて書かれた本など読むと新鮮な気持ちになれるはずだ。

 

ちなみにわたしは、図書館でこの本を借りて毎日少しずつ読み進めてる。

 

 

 

 

 

 

パースについて書かれた話の最初に出てくるのが消失点

 

絵心があるような人は、センスで感覚的に捉えられてるのかもしれないが、人間の目にはまっすぐに見えてるものでも、絵に書く場合には傾きをつけないと不自然になる場合があるのだが、その傾きの延長線上の行き着く最終点が消失点になる。

 

Wikipediaには消失点の例として次のような画像がある。

 

Wikipedia 消失点の例

 

 

冒頭で紹介した、資本主義や民主主義が限界や終焉を迎えつつあるように見えてる現象は、本当に限界を迎えつつあると捉えることも出来れば、消失点が意識されたと捉えることもできそうだと思ったのだ。

 

消失点は、そこで消失するように見えるだけで、実際には何も変化しない。

 

消失点をどこにどのように設定するかで絵は変わるし、当然ながらその絵にまつわるストーリーだって変化しても何の不思議もない。

 

ただ確実に言えるのは、消失点の設定を間違った絵は不自然だし、見てて気持ち良くないが、消失点の捉え方が巧みな絵は長時間見ても見飽きない魅力を持つ。

 

 

ものごとを捉える場合には、消失点という観点もあるのだと覚えて損はないと今更ながら気付いて新鮮な気持ちになれている。

本音なのか観測気球なのか、あるいは失言なのか?

本音が出たのか、それとも世間の反応を見るための観測気球だったのか、あるいは単なる失言だったのか。

 

 

 

最近、同じように、真意はどこにあったのだろうかと感じたものにはこんなものもあった。

 

 

 

このように政治がチラつくと、外野は勝手に真意を知ろうとアンテナを広く張るが、単なるゴシップだともう少し範囲を狭めて決めつけようとしたくなる。

 

その分だけイメージが明確になるので波及効果が高くなる。

 

 

 

 

この話題も影響が多方面に及んでいるようだが、その中にはブーメランになってるものもある。

 

 

 

 

オリンピックに話を戻すと、観測気球と思しき話はこれまでも出ていたのだ。

 

 

五輪中止の可能性に言及 「主力国の参加無理なら」―下村自民政調会長  2021年03月04日

「主力国の選手が大量に来られない場合は国際オリンピック委員会(IOC)も考えざるを得ないだろう」

 

 

この話は世間で話題にならなかったような気がするので観測気球にならなかったような気がする。

 

だから第二弾を上げたのかもしれない。

 

 

最近は、観測気球という表現で定着したように感じるが、世論の反応を探る手法は、以前はアドバルーン発言などとも呼ばれていた。

 

似てるようで微妙に違うかもしれないものにオフレコ発言や、『関係筋の話』がある。

 

 

どれも、一つ間違うと爆弾発言や暴露になってしまう。

 

一つ間違う場合の多くは、根回し不足や関係性構築の失敗だ。

 

世代交代などで、それまで受け継がれていた文化が途切れることも関係してるだろう。

 

二階さんの発言が思った以上に波紋を呼んだのは、静かにしかし確実に日本の世代交代あるいは意識交代が進行してることを示してるのかもしれない。

ステルスマーケティングはそんなに悪いのか?

最近、久々にステマ(ステルスマーケティング)の話題を耳にした。

 

 

 

GoogleTrendsで見ると、ステルスマーケティングはステマで馴染んでいることが分かる。

 

 

Google Trends 『ステマ』『ステルスマーケティング』2004年以降

 

 

最初の大きな山は2012年の1月で、この時に世間の人はステルスマーケティングという手法を認識したのだ。

 

この時に盛り上がった理由は、前年に消費者庁がガイドラインを公表し、注意喚起を促していたところに、新聞記事等で美容や歯科やエステの分野でステルスマーケティングが目立つと取り上げられ、その後ペニーオークション詐欺事件でステルスマーケティングに加担していた芸能人が謝罪するなどワイドショーネタになっていた。

 

GoogleTrendsで上記に加えて時系列で見ると、

 

GoogleTrends『ステマ』『ステルスマーケティング』『ペニーオークション』2004年以降

 

ステルスマーケティングが認識されたのが2012年年明けで、ペニーオークションが叩かれたのが2012年の末であることがわかる。

 

 

 

この当時、話題になってることは知っていたが、個人的には全く興味がなかったので調べることなどなかったが、今になって調べるとこのペニーオークションというのが、その後のメルカリの登場に繋がったのではと感じられる。

 

いきなり登場したようなイメージがあったメルカリだが、ステルスマーケティングで転んだペニーオークションに十分な市場価値が感じられたからこそメルカリに繋がったような気がする。

 

 

GoogleTrends『ステマ』『ペニーオークション』『メルカリ』2004年以降

 

ところでステルスマーケティングってそんなに悪いことなのだろうか?

 

どうしようもないものを、さも良いもののように伝えているならばダメだが、お金をもらって広告宣伝するにしても、実際に自分が継続的に使っているならば、そんなに悪いこととは思えない。

 

 

いつの頃からか、商品を買って失敗すると、『騙された!』とリアクションすることが増えたような気がする。

 

もちろん本気で騙されたなんて思ってない人の方が多いだろう。

 

私の場合だと、十分に調べなかった自分が悪いと思っているが、『騙された』と表現することは少なくない。

 

事前に下調べをしていると、レビュー等を見ていても、参考になる人とそうでない人の違いはすぐ分かるので、参考にならない人のレビューを鵜呑みにしたりすることはないし、情報として痒いところに手が届いてないものには情報としての価値は感じないので実害は受けない。

 

もし無意味な形容詞を信じ込んだとすれば騙されたと感じるのも理解できるが、それは被害妄想の一種に位置づけられるのだろう。

 

 

難しい話ではなく、ごく普通の目利き力さえあれば、どうってことない話にすぎない程度だと思うが、そのごく普通の目利き力に自信が持てない人はステルスマーケティングが許せなくなるのだろう。

 

 

しかし、もしかしたら世間では自分で考えずに他人のことばで判断しようとする人が増えてるとするならば、ステルスマーケティングは減ることはないだろう。

 

自分で考えない人が増えてるとすれば、考えてない人に伝わるように表現する必要がある。

 

考えない人のためにしてあげれることって何があるのだろうか?

 

とてつもない難問だ。

 

ステルスマーケティングは、ますます巧妙化するだろうが、考えてる人で目利き力があれば不自然な表現の羅列にしか感じられないはずだ。

 

このように考えると、ステルスマーケティングが悪いというよりも、ステルスマーケティングに騙される人の方が悪いとしか思えなくなる。


 


 

『許容範囲』と『一致』の間に存在するギャップに振り回される

一致することを重視すればするほど許容範囲は狭くなり、最後は許容範囲がなくなり、一致以外を許せなくなる。

 

些細な違いが原因ですれ違いが生まれる場合のキッカケは、相手の側が許容範囲を逸脱するケースもあれば、自分自身が許容範囲を知らず知らずのうちに狭めているようなケースもある。

 

 

一致する、と感じると簡単にくっ付き、すれ違いを感じると簡単に別れる。

 

現代の関係性はこのようなものになりつつある。

 

一致やすれ違いの判断基準が単純化してるのだ。

 

周りを見てもだが、自分もだ。

 

自分が持ってる前提を、相手も同じだと感じているから起きるような気もする。

 

この場合の前提は、常識などと置き換え可能だろう。

 

 

例えば、小室圭さんの28枚の文書。

 

宮内庁の反応を見ると、おそらくこの文書によってしゃんしゃん総会のように一件落着となるシナリオでも組んでいたのだろう。

 

ところがどっこい、世間は燃え上がってしまった。

 

各界の論客も一斉に参加し、わたしの私見では9:1で否定派が多いように感じられる。

 

前提の食い違いを見誤ったせいだろう。

 

 

 

 

現代では、文章が書かれてる場合、全文を読む人がそもそも少ない。

 

わざわざお金を出して買った本ですら読まないで、コレクションしてるだけという人や、写真に撮った後で転売するケースが増えているらしい。

 

そして、本は読まないかわりに、その本のレビューや書評に目を通し、手っ取り早く自分の感想をでっち上げて読んだことにするという人が増えているらしい。

 

本を買うのは、『本当に読んだんだよ』というアリバイ工作のためらしいとも聞く。

 

こうなると、昔から言われている文脈を読み解くや行間を読み取るといった術は遥か遠くに行ってしまっているのだろう。

 

そうなると、見えすいたキーワードが都合よく利用されるだけになるはずだ。

 

 

これって、人間が中途半端にAI化してると言えるかもしれない。

 

 

YouTubeでの「チェス談義」が、“人種差別”として削除された事件の真相

著名なチェスプレイヤーによるYouTube動画が、人種差別発言を含むヘイトスピーチであるとして削除される“事件”が起きた。研究結果や実験から見えてきたのは、動画の内容をチェックするアルゴリズムが「黒」「白」「攻撃」「防御」といった言葉を誤判定した可能性である。

 

 

この記事を全部読めばわかるが、現在のAIアルゴリズムはいわゆる文脈を十分に読むことができないし、ましてや行間を読むなどはもっとできないので、キーワードを抜き出して反応するだけなのだ。

 

 

部分を切り取って都合良く(=誤解される側にとっては都合悪く)利用することは、今や避けられないのだ。

 

これに対抗するために法的手段に訴えるというのは一部で有効性が認められるようになってるが、時間も手間もかかり過ぎるし、依頼する弁護士の当たり外れも大きいという欠点がある。

 

 

文脈や行間が読み取れなことと、詐欺の増加は確実にリンクしてるはず。

 

詐欺師の側は、嘘の許容範囲を広げるために文脈や行間に工夫を凝らしてるはずだ。

 

 

 

全文を読まないと言えば代表格は取扱説明書。

 

そのせいだろうが、説明書がなくても使える商品が売れるし、それらは直感的に操作できるなどと持ち上げられる。

 

余談だが、日本メーカーの商品がガラパゴスになった理由として、高級品ほどスイッチが多く、使いこなしが難しいことを付加価値としていた時代を忘れられないのだろうと思うと妙に納得できる。

 

 

良くも悪くも時代は表面的にはシンプルな方向にシフトしている。

 

時代がどのように変化しようと、私たちは『許容範囲』と『一致』の間に存在するギャップに振り回されるのだ。