違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

残価設定というサブスクリプション

実直な銀行員だった父親の影響が大きいのかもしれないが、欲しいモノは基本は現金一括で買う。

 

高額ですぐには買えそうにないものは、貯金に励み必要額を満たすまでの間欲しいという気持ちを持続できるかを自分に課すというスタイルを取ることが多かった。

 

最大の敵は『今欲しい、今じゃなきゃダメだ』という煩悩だ。

 

 

その煩悩以上に強かったのが、欲しいものは所有権が完全に自分に帰属しなければイヤだという思いだった、それが叶わないならば自然と欲しいという気持ちが消え去る、そんな生き方をしてきたからローンを組むということはとてもイヤだった。

 

金利を含めての損得や今手に入れることの価値を天秤にかけての葛藤もあるが、多くの場合生理的な反応だった。

 

 

さて、IT時代になってさらにスマホの普及によって購入スタイルにサブスクリプションというモデルが普及し始めた。

 

本来の意味は雑誌の定期購入に由来するはずだが、IT絡みのサブスクリプションでは商品やサービスの所有が目的ではなく、継続的な利用が目的になる。

 

ソフトウェアなどのデジタル商品やサービスの場合、常に最新に自動でアップデートされるというのが最大のメリットになる。

 

わたしにとっては、知っていても利用したいとは思わないサブスクリプションに加えていつの頃からかよく目にしたり耳にするようになったものに残価設定というものがある。

 

一足先に車で採用された仕組みで、最近ではスマホや住宅でもに拡大している。

 

 

残価設定しての購入を『残クレ』と呼び、disる書き込みをTwitterではよく目にする。

 

こういう場合のdisりポイントは最終的に損か得かであり、損だと判断する場合には目先の安さに飛びつくからだになることがほとんど、つまり残価設定での購入をする人は損に飛びつく人とdisられるのだ。

 

なんとなくだが、残価設定を好意的に受け取る利用者は若い人なのだろうなという思い込みがある。

 

一方で、残価設定なんて仕組みを採用する事業者側には老練や老獪が感じられる。

 

ChatGPTに質問してみた、『残価設定して購入するユーザー像に関するデータがあるなら教えて』と。

 

そうすると、車の購入に関する以下のデータを出してきた。

 

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残価設定ローンを利用する人の割合についてのデータによると、残価設定ローン(残クレ)は日本で新車購入時に一定の人気を持っています。例えば、2018-2019年の調査によれば、残価設定ローンを利用している人は全体の20%に達しており、これは通常のローン(クレジット)の18%をわずかに上回る数値です 。

 

特に若い世代では残価設定ローンの利用率が高く、20代以下の利用者では43%に達しています 。

 

この高い利用率は、月々の支払いを抑えられることやライフスタイルに合わせて車を乗り換えやすいというメリットが背景にあります 。

 

このようなデータは残価設定ローンが特定のライフスタイルや経済状況に適していることを示しており、特に短期的な車の利用を考えている層に人気があります。

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ChatGPTの回答の『車』の部分を置き換えれば他の商品に関するユーザー像にも当てはまるはず。

 

 

予想通り若い人が多いのだが、選択肢は比較検討するまでもなく残価設定一択というケースも少なくなさそう。

 

残価設定を利用する人は、知らず知らずのうちに自分自身の価値にも残価設定してそうに感じられる。

 

その価値は決して上がることはないのか、それとも上がることもあるのか、あるいは目先のことと考えるのか、それとも短期的なことと考えるのか。

 

 

買い方が変わる時は、時間軸の捉え方で正当化するのかもしれない。

 

手ぶらが好きなポケット派

新テクノロジーとしてのEVが失望されているように、ARやVRもあまり芳しくなさそう。

 

今後時間をかけて進歩することは間違いないだろうがまだまだ従来型に需要はあるのだ。

 

従来型の焦点はディスプレイに当たっている、サブ的な存在がバッテリーだ。

 

従来型のベクトルは小型であることや軽量であることに向かっていたが、必ずしもそうではなくなっている。

 

 

“コンパクトスマホ”は絶滅するのか? 変わりゆく「小型の定義」と「市場ニーズ」

 

記事の中から「小型の定義」に該当しそうな部分を拾うと、

 

2024年のスマートフォン市場では、幅70mm、高さ147mmクラスのサイズでさえ「コンパクト」と評価されることが多い。このサイズはiPhone 15(71.6×147.6mm)やGalaxy S24(70.6×147mm)などが該当し、画面サイズでは6.0~6.2型前後の端末が多い。

 

 

「市場ニーズ」はというと、

 

ゲームはもちろん、動画はYouTube ShortやTikTokをはじめとした縦動画アプリの普及も影響しており、画面の小さい機種では視聴しにくい、操作UI(ユーザーインタフェース)が小さく表示されて使いにくいものも増えてきている。

 

それに加えて、

 

「スマートフォンのサブディスプレイ」というレベルまで進化したスマートウォッチなら、スマホを取り出さなくとも対応できる。メーカー側からしたら、スマートウォッチなどと組み合わせればよいので、スマートフォン本体が過度に小型である必要はないという考えだ。

 

 

 

テレビのディスプレイが液晶主流になったこと、さらに地上デジタル放送に移行したことで大画面は一気に当たり前になったがそれは据え置きの場合の話。

 

モバイル環境下での大画面は潜在需要はあっても実用化は遅れた。

 

だからこそタブレットという隙間が生まれたのだが、冒頭の記事はスマホがタブレットの領域と重なり始めたことを示しているのだろう。

 

ディスプレイの大型化はバッテリーの大容量化にも繋がるので追い風要素になるはず。

 

大型化によるネガティブ要素は、バッグを常時使う人やスマートウォッチを使う人にとってはきっと当てはまらない。

 

読む、見るという行為に対して大画面は単純に正義だし、描画などをする人にとっては尚更だろう。

 

 

引用した記事のコメントを読むと、大画面にネガティブな発言をする人の多くがスマホはポケットに入れる派の方のようで、わたしはガラケーからスマホへ移行する際に最も躊躇したのがポケットには入れられないなと思ったからだったことを懐かしく思い出した。

 

手ぶらが好きなポケット派にとっては生きづらい時代なのかもしれない。

足裏を活かせ

ふと思い立って自転車のペダルを買い替えた。

 

ふと思い立ったと書いたが、GWの頃からずっと考えていた、買いたいペダルはすでに決めていて、思い立つ必要があったのは買うという行動を起こすこと。

 

たかが自転車のペダルにしては高価な22,000円のもの。

 

買い替えるまで使っていたペダルも15,000円はしたものでそれなりに評価できるものだったのだが、不満があるというよりももっと良い感触が得られるのなら試してみたいと思い始めていた。

 

自転車はマウンテンバイク。

 

マウンテンバイクのペダルに関するかなり高度なうんちくを知識としては得ていて、興味や妄想が掻き立てられたのはコンケイブ形状に対して。

 

興味のない人にはただのペダルにしか見えないはず。

 

コンケイブとは窪みを意味し、それがデザインに活かされているもので、自転車のペダルの場合だと足が乗る軸の辺りが緩やかに、本当に緩やかに窪んでいるのだ、見てるだけだとそんなに効くのかと疑問を持つ人は少なくないはず、その程度の窪み。

 

その窪みに足がフィットすることで足とペダルの一体感が増しコントロール性も高まるのだ、理屈は。

 

理屈は分かるし反論も無い、問題はその一体感やコントロール性の向上を体感できるかだ。

 

購入したペダルはアメリカで出てるマニアックな比較で数年間No.1の評価を得てるものなのでモノとして間違いないことはすでに分かっている。

 

突然今日になって機が熟したというか魔が差した、行きつけの自転車店に在庫があることは知っていた。

 

 

さて交換後、乗り始めてすぐに違いに気付いた、まるで違う。

 

足とペダルが一体化するというのはこういうことかと分かるのだ、それによって走りがどう変わるかはまた別の話だが、確実に気持ち良いのだ。

 

ペダルのコンケイブ形状に関しては特許等があるわけではないので類似商品は多数あるにも関わらず数年間No.1を保っているのは微妙な人間の足裏の特性を活かすデザインが施されてるのだろうが、見ただけでは分からない程度の違いでしかない。

 

 

そこで改めて思ったのが、足裏の感覚やセンサーは実にデリケートなのだなということ。

 

足の裏はツボの宝庫だという話は有名だが、それに加えて人間は二足歩行の動物という意味でも足の裏はきっと謎めいた不思議がたくさん隠れているのだろうなと思いを新たにした。

 

何歳になっても自分の身体を思い通りに動かしたいなら足裏が喜ぶように活かしてあげるのが大事だなと今思っている。

 

たかが〇〇、されど〇〇

大したことなさそうに見える事やモノや人が、実はとても大きな存在だということを意味する表現。

 

表現としてはありふれてるが、その真の意味には誰もが気付けるわけではない。

 

 

それなりの遍歴や試行錯誤を経た結果、閃きや天啓のように気付けるものだとすると、一生縁がない人も少なくないだろう。

 

遍歴や試行錯誤が必要という意味では、まさに人生に無駄は無いということになる。

 

望んだものではないがすべてはそこに辿り着くためだったと思えることがされど〇〇の真髄だとすると、そんな〇〇は目の前にあるのに簡単には気付かない、いや気付けないということになる。

 

たぶん壮大なことや難しいことではないだろう。

 

現代社会では非効率だとしか思われないかもしれない。

 

逆に考えると、最短ルートで何もかも手に入れたような人が、最期に自分は欲しいものを何一つ手に入れられなかったと思い知ることに通じるとするならば、人生はやっぱりおもしろそうだ。

 

何もかも失ったと失意の底にいる人が、欲しいすべてのものを手に入れていたにも通じるだろう。

 

このような場合の、失ったものや手に入れたものというのは哲学的だ。

 

つまり気持ちの問題だ。

 

たぶん脳が反応するのとは違うメカニズムの気持ちがそうさせるのだろう。

 

小さな何かが気になってる時は、されど〇〇たかが〇〇を思い出そう。

 

有意義な時間が過ごせるはずだ。

 

ムカつかないために

設定されてる法律や規則やルールに照らし合わせて正しいことをしていても(しているつもりでも)、違っているという指摘を受けることはままある。

 

勘違いや誤解によって起きる場合が多いが、それとは別に見解の相違という場合もある。

 

所詮法律や規則やルールとはその時々の人間が気分で作り、気分で設定してるからしょうがないといえばしょうがない。

 

そして、この見解の相違ということは科学や医学の場でもよく起きる。

 

研究や調査をどんなに重ねても肝心なことが分からないために常に複数の仮説が成り立ち得るような場合だ。

 

見解の相違は派閥や徒党を生み利害を共有するため、簡単には見解を改めたりしない(できない)。

 

見解の相違が争いに発展すると、見解そのものの中身や質から離れた争いになりやすく、論破という口喧嘩合戦や『それってあなたの感想ですよね』と突き放したりするようになる。

 

これって人間同士だから起きるのだろう。

 

ではAI同士だったら見解の相違はどのように処理するのだろうか?

 

ChatGPTに聞くと、AI同士の場合には感情やエゴが無いので主観的な自説の押し付け合いにはならないが、プログラムとデータに依存するのでプログラム次第でありデータ次第で着地点が見出せなくなることはあり得る。

 

というような回答だった。

 

 

人間に個性があるのは誰でも理解してるが、AIにだって個性はあるのだ、AIの個性はプログラムとデータで決まるという意味では最初は人間に依存するのだ。

 

じゃあ、人間は何に依存してるのか、AIの場合のプログラムやデータに相当するものとは?

 

アンガーマネジメントのために、ムカつく相手に遭遇した場合にはその人に施されたプログラムやデータを想像しながら見下すというのは効果があるかもしれない。

 

これができればムカつきそうな時にムカつかないという回避に役立つかもしれない。

 

暴露は正義と連動しやすい

暴露系として有名な滝沢ガレソ氏は一足先に悪名を馳せたガーシーに比べると弱い者イジメをするようには見えてなかった。

 

フォローするようなことはしてないが、時々流れてくる話題を見ることはしばしばだったが、最近話題になってる話はイメージと違う気がした。

 

 

滝沢ガレソの“憶測投稿”拡散…星野源の事務所が強く否定、法的措置も検討

 

新垣結衣 夫・星野源ら巡るネット上のうわさを否定「事実はひとつもありません」1年半ぶりX更新で

 

 

真偽の程など知る由もないが、そもそも滝沢ガレソってどんなプロフィールの人だろうと興味を持ちChatGPTに聞いてみたところ以下の記事を紹介してきた。

 

 

 

上記以外で、取材を受けた際の受け答えが載っている記事として以下もあった。

 

“炎上系インフルエンサー”滝沢ガレソ、暴露はしても“正義感ゼロ”「どちらかに偏った活動はしたくない」情報拡散の想い

 

 

プロフィールに関して一番知りたかったのは、無名の段階からどういうプロセスを経て知名度を築いたのか、あるいは世間はなぜ滝沢ガレソ氏に惹かれたのかだったが、そのズバリは分からないままだ。

 

ただ、いろいろな記事を読みながら過去に出会った一人の人物を思い出していた。

 

まだTwitterなどなかったか始まったばかりの頃だ。

 

私より10歳ほど下の男性で元ヤンキーという人物で悪いというよりもむしろ正義感が強いタイプ。

 

誰に対しても基本タメ口だが、年上を立てようとする様子は感じられるので日常で不快感を感じることはなかった。

 

そんな彼が好んで見てるサイトが数種類あった。

 

少年法の壁が強固だった頃に残虐非道な犯罪を犯しながらも表舞台では名前やプロフィールが隠されていたような人物のその後のプロフィールや家族関係などを暴露するサイト。

 

彼は時々私に『この事件知ってますか?』あるいは『この事件覚えてますか?』とノートPCの画面を見せてきた。

 

そこには当時の写真に加えて現在の写真が載っているものもあった。

 

彼とは数年の付き合いだったが、きっと今は滝沢ガレソ氏をフォローしてるだろうなと思えた。

 

滝沢ガレソ氏をフォローする人の気質としてスキャンダルやゴッシップをひっくるめて公序良俗に反することへの嫌悪があるだろうし、一方で滝沢ガレソ氏へ嫌悪を感じる人もフォローしてるだろう。

 

嫌悪という感情は人の心を縛る力が強いのだ。

 

ネタは持ってるが自分では有効に処理できない人が滝沢ガレソ氏にネタを提供するのでネタ集めには事欠かないはず、重要なのは事実無根でないことだけだ。

 

 

星野源さん新垣結衣さんに関する真偽は今後ほっといても多方面からチェックが入るだろう。

 

 

暴露は隠されていた真実という以外に、正義の暴走によっても起こるのだ。

 

変数要素

生きてるとさまざまな基準値や標準値あるいは平均値と遭遇する、いや押し付けられる。

 

例えば適正血圧のように。

 

 

一方で誰もが基準値やや平均値から大きく抜きん出た成果や結果を上げたいと心のどこかで願っている。

 

しかし、どんなに頑張っても大谷翔平には大谷翔平以外の人はなれない、人間性においても実力においても。

 

 

同じような教育や指導を受けても同じ人間はできない、なんとなく自然と誰もが気付いているはず。

 

一方で、カルト宗教やテロ組織場合によっては企業でも、属して帰属意識や忠誠心が芽生えてしまうと、姿形は違えども行動や価値観はまるでコピーされたかのような人が量産されるイメージを持つはず。

 

何が違うのか?

 

その違いは変数要素が多いか少ないかだ。

 

自己実現を図るためには行動の自由が前提になる。

 

教育や指導という入力が仮に同じだとしても、それを処理するソフトウェアは人それぞれが独自のものしか持ってない、その処理したものを如何にアウトプットするかも身体性が関わると、変数要素だらけでまるで違ったものになって当たり前。

 

一方で強い帰属意識や忠誠心という束縛を受けると自由は鳴りを潜めるので変数要素が少なくなる。

 

 

AIなどが社会の中枢を制御するようになるということは、社会から変数要素が排除されることを意味し、それは自由の減少と同じになり、さらにいうと自然の摂理と相容れなくなる。

 

余談だがマイナカードの扱いを巡る攻防も、変数要素を排除したい派と排除されたくない派の争いと思うと納得できる。

 

思い通りにならないのは、計算通りにならないということで、それは変数要素が多いから。

 

逆にいうと、計算通りにうまく行くというのは変数要素が少なかったからであるか偶然かだ。

 

社会で噴出するさまざまなハラスメントを見てると、変数が自ら意思を持つかのように変質してることが感じられる。

 

 

 

あんなに持て囃されていたEVがおかしなことになっている、中でもテスラが。

 

社会に存在する変数要素を限定化することでEVは価値をアピールすることに一旦は成功したが、ある程度市場に流通すると新たな変数要素が噴出してきたのだ。

 

 

計算通りにうまく行かない場合には必ず変数要素の影響を受けている。

 

その変数要素が何なのか、いったい幾つくらい存在するのか、そういうことをまったく考えずに立ててる計算が役に立つわけない。

 

 

変数要素はトレードオフに似てるようだが一味違う。