違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

逆張り的コメントが増えてる?

満員や渋滞や行列に対してどのようなイメージを持つかは人によって大きく分かれる。

 

基本的に好きな人は少ないだろうが、大勢の人が集中する理由に納得できたり共感できる場合には「しょうがない」と肯定的に捉えるだろう。

 

少数派(私が勝手に思ってるだけかも)の満員や渋滞や行列に対して好感を持つ人は、その先に良いことがあるなら自分も加わろうとする人なのかもしれない。

 

私のように満員や渋滞や行列が嫌いな人は、よほどの理由がない限りそこに加わることはないはずだし、参加せざるを得ない時はイヤイヤなはず。

 

 

では、これが意見や考え方が集中するような場合、物理的な障害は何も発生しないが、それをどう受け止めるだろうか。

 

大勢が賛同する価値観だからと同調するということも多いだろう、その場合は多数派に属してることに価値を見出してるはず。

 

多数派に逆らっても良いことはないと達観することも多いだろう、これは消極的な同調だ。

 

事に当たって是々非々で望む人だと、他の人がどうかは関係ないはず。

 

これ以外にも博打のお約束のような逆張りもある、わざと多数派の価値観の反対を選ぶのだ。

 

しかし、逆張りがアンチメジャーである限り、価値観の根底にはメジャーへの意識がある事になるので、逆張りと多数派は意識はほぼ似てると言えるが、逆張り派の方が自意識は過剰だろう。

 

 

日々世間では不快な出来事が起きている。

 

合言葉はペロペロ。

 

その度に正義や正論のバッシングの嵐が吹き荒れるが、正義や正論は逆張りとも相性が良いので、不快の応酬の連鎖が続く。

 

不快な出来事に対して、意識高そうな肩書をつけた人々が逆張り的な意見を言うことが増えてるなと感じる。

 

肩書だけでなく発言も意識高いと思わせたいと思ってるんだろうな。

 

 

幸いなことに、一連のルフィ事件に関しては逆張り的な擁護の話は聞こえてこないように感じる。

 

これから世間の様子を見ながら出てくるのか、それとも一定のレベルを越えてしまうと逆張りは不可能になるのだろうか。

 

意識高い人は、せこく保険を掛けることを忘れてなさそう。

グレた人の末路はグレさせた人に跳ね返ってくる

スペック競争をするならば価値があるのはNo. 1だけというのはなんとなく分かる。

 

スーパーコンピューターなんていうのはその代表格だろう。

 

一方、スペック競争と言っても使い勝手を競うような場合は、評価のポイントは少し違ってくる。

 

絶対性能が高くてもトレードオフやデメリットが目立つと評価は芳しくなくなる。

 

一定レベルをクリアした上で高いバランス力が求められるので、部分的にトップのスペックを誇っても芳しい評価は得られないし、逆にどこを取ってもトップの部分はなくても総合力の高さが高く評価されるということもある。

 

多くの工業製品がモジュール単位で製造されそれを組み立てて完成品となることが増えると、コピーをベースにしたオリジナル品が少なくなくなる。

 

つまり、どれも似たり寄ったりばかりが増えるので、特に良くもないが別に悪くもない、そんなもので溢れかえるようになる。

 

そう思っていたが、

 

三菱重工、国産ジェット旅客機撤退へ 開発会社も清算

 

 

戦闘機や特殊用途の機体を作ることに頓挫したわけではない。

 

単に技術力に起因してのことではなさそう。

 

なぜなら無難なコピーや真似は簡単な時代なのだから。

 

ここまでになると現場のモチベーションが著しく低いとしか思えなくなる。

 

と思っていると「そういうことかもしれない」と思えるようなツイートが目についた。

 

 

 

このツイートは長く連続するが、モチベーションの低下が起きると人はグレるということを納得できるように説明するものだった。

 

 

三菱重工の現場の社員はグレたんだろうな。

 

やる気に溢れていたはずなのに、グレるしかない物語があったのだろう、なんとなく想像できるような気はするが、きっと想像を超えてるだろうなとも思う。

 

日本の劣化の背景には、国家にも企業にもそして個人にも当てはまるような気がする。

 

 

どれが一番辛いか?

何をやってもうまく行かない。

 

一生懸命やってるのに結果が出ない。

 

うまく行かないや結果が出ないには、解釈に幅が生じるので個人差が大きい。

 

どんな目標や希望を描いているかも人さまざまだし。

 

頑張ってもうまく行かないには、騙されたり、冤罪の被害というものもある。

 

自分に落ち度があったからかもしれないし、どうやって防げば良かったんだと打つ手が皆無な場合すらあるかもしれない。

 

 

突然の事故や自然災害などは、一方的な被害者や犠牲者の場合、世間の見る目は決して冷たいものではないが、そのことで救われることは少ない。

 

 

話題の強盗殺人事件の指示役ルフィと過去に接点があったことで世間からのバッシングを受けてる芸能人がいる。

 

過去の発言を遡ってチェックされ揚げ足を取られたり釈明を求められたりしてる。

 

はぐらかしたりとぼけたりすることなく経緯を説明する姿が反省してないとさらに叩かれる。

 

有名でさえなければこんなことにはならなかったはず。

 

有名人は有名税を課されるというが、だとすればあまりにも莫大な追徴課税にも思える。

 

似たようなことは太陽光発電事業を巡っても起きている。

 

社長の夫と妻の政治評論家、互いのビジネスを相互補完するようなwinwinの関係は、夫の会社に東京地検特捜部が家宅捜索に入ったことで、全容が明らかになる前の段階でほぼすべての世間から嫌われてしまった。

 

有名人の辛いところだ。

 

自ら調子に乗って踊り過ぎたのか、それとも踊らされたのか。

 

踊らされたとすれば一体誰に。

 

 

 

一般人にとってうまく行かない状況の中には、良くも悪くも何もないということが多い。

 

手応えがないと言えば辛いことになるが、人生の足元を掬われてるわけではないのでチャンスは消えてない。

 

 

辛いと感じてる人は、自分の辛さと他人の辛さを比較したりしないだろう。

 

 

どっちが辛いのだろうなんて考えるということは結構幸せなのかもしれない。

循環vsコスト(≒効率)

太陽光発電やEVにネガティブな風が吹き始めている。

 

日本での太陽光発電に対するネガティブなイメージは政治や制度に対する不信や不満に起因することが多く、参入事業者の多くがその不備や盲点を利用し災害の発生につながってることも大きい。

 

推進派と抵抗勢力の対立の顕在化の背景には、新しい技術が良いことづくしではないことと、技術の進歩の度合いが期待されたほどではないことも大きい。

 

もちろんロシアが起こした戦争が世界のエネルギー事情に深刻な影響を及ぼし、そのことがさまざまなシミュレーションや皮算用に狂いを生じさせたことも大きい。

 

太陽光発電にせよEVにせよ、必要とする事情は持続可能な地球環境いわゆるSDGsの観点からなのだが、ここに来て思った以上に技術の成熟には時間がかかっていることと、見通しも不明なことが多いということがネガティブの台頭につながってる。

 

時間が掛かりすぎてることはある程度以上の年齢の人にとっては、自分の人生にはきっと関係ないと思ってる人も多いだろうし、投資家目線では回収に不安を感じることにつながるはず。

 

つまり、ネガティブな感情はコストの問題に由来するのだ。

 

一方で、必要とする事情がSDGsに由来するという意味では、時間軸は人間の一生のような短時間をテーマにはしてない。

 

1000年単位、1万年単位の課題に対して、自分の存命中に決着を付けて生きてる間に十分なメリットやリターンを享受したいという時間軸を持ち込むということの混乱が起きているのだ。

 

 

思い返せば、大気汚染や海洋汚染や増え過ぎるゴミ問題もそれぞれの国のローカルな問題だったものが、ワールドワイドな地球規模になってきたのは、すべては循環してるから。

 

SDGsな課題とは循環に起因していてかつ時間軸が人間の一生のレベルを超えて長期の課題だが、それが効率重視のコスト問題に置き換わり、行き詰まったというか停滞期を迎えたのが今なのだ。

 

水や空気が循環してることは容易に想像できるが、実際にはあらゆるものが循環してるのだ。

 

忘れてはいけないのは、循環するものには固有の時間軸があるということ。

 

そこにコストや効率を持ち込むと途端に成り立たなくなるが、それは確実に人類に跳ね返ってくることだけは間違いない。

データサイエンスという擬似餌

自分が高校生だったらたぶん意識したかもしれない。

 

5年前だったらもう少し印象が違ったのかもしれない。

 

そんな見出しが踊っていた。

 

データ系学部に人気、国公立大2次試験の志願倍率3.9倍 日本経済新聞

データを活用して課題解決策を探るデータサイエンス分野は私立大も含めて学部・学科の新設が相次いでいる。2023年春は少なくとも17大学で誕生する。人手不足の解消が課題となる中、全国の定員は約1900人増える見込みだ。

 

 

『データを活用して問題解決策を探るデータサイエンス』という表現は、すでにいい歳になった私には、自分で考えない人には魅力的に感じるんだろうなとしか思えない。

 

翻って考えると、受験生を取り巻く人間関係の中でも親や教師を含めた大人には魅力的に感じられるのかもしれない。

 

この記事を読んでデータサイエンスに興味を持つ人は残念ながら残念な未来が待ってるんだろうなと思うとともに、歴史は本当に繰り返してるなとも感じる。

 

 

バブル景気の頃だと『営業は嫌です、企画がやりたいです』という学生が多かったことを思い出す。

 

ITの時代になると、やっぱり外回りの営業よりも内勤のデスクワーク(PCワーク)をしたがる者が増えた。

 

営業と呼ばれる世界はその世界なりに変化してるが、人と向き合うことだけは変わらない。

 

人と向き合うことをストレスに感じる人にとっては、データと向き合うというのはカッコいい言い訳に映っているとすると、データサイエンスをしたいと思う人のほとんどは、収集されたデータをいじくりまわすことしか考えてないだろう。

 

分析のためにどんなデータが必要で、そのデータを収集するためには何が必要か、そのための試行錯誤には場合によっては人に対する深い洞察力が必要になる。

 

それが備わってる人や素養がある人は、おそらくデータサイエンスなんて呼び方にはまったく興味ないはず。

 

すでに、そういうことを十分にやれてる人だと、データサイエンティストと呼ばれることを嫌がるはずだ、そんなに薄っぺらいことはしてないと。

 

データサイエンスを合言葉にして生徒を集めることはとりあえず成功するのだろうが、一体誰が教えるのだろうかという不思議で一杯になる。

 

データサイエンスの現場で有能な人が大学で教えることが可能だろうか?

 

それが簡単ではないならば、一体教える人はどんな人になるのだろうか?

 

少子化の時代だから大学も生き残りに必死なのは理解できるが、これはこれで詐欺の香りが漂うが、別の表現をすると擬似餌に食いつく魚にも見えてくる。

ロンダリングできないデジタルタトゥ

テクノロジーが発達しながらも、その処理がアナログ的だった20世紀は、ビジネスだろうと遊びだろうと根幹をなすのは人間関係であることに疑いはなかった。

 

人間関係は損得や好き嫌いを基本にしながらも、その判断に気まぐれが介入することも多く、肝心要のところで番狂せが起こることは珍しくなかった。

 

 

21世紀に入り、ITやインターネットが普及定着すると、テクノロジーはアナログからデジタルへ移行した。

 

人間関係よりも、基幹システムとしてのプラットフォームの方が注目されるようになり始めた。

 

乗るプラットフォームを間違えると、人間関係を駆使しても浮かび上がることが難しいと感じる風潮が出てきた。

 

人間関係という根幹が細くなり始めたように感じられる変化だ。

 

アナログ時代だと学歴が輝かしいことは大きな武器になったが、デジタル時代では実際にできることは何かが問われるようになった。

 

とは言っても完全な結果主義というよりは、どちらが良さそうかを比較して選ぶというプレゼン主義になったのだ。

 

そしてそのプレゼンは、最初の3秒で印象が決まり、最初の3分で判断される、と言われる。

 

つまり、判断には気まぐれや感情が大いに入り込む余地があるのだ。

 

アナログ時代もデジタル時代も、これまでのところは厳密さや確実さを求めてるようでいながら、あやふやな要素の介入を排除できずにいる。

 

 

このあやふやさは諸刃の剣でもある。

 

あやふやなものは普段は影を潜めてるが、肝心な時にはひょっこりと顔をだす。

 

消えた、無くなった、と思ってるものが突然現れるのだ。

 

探し求めていたものならば大歓迎だが、消えてくれた方が良かったものほど現れるのだ。

 

アナログ時代とデジタル時代の最大の違いはロンダリングだと感じる。

 

マネーロンダリングが有名で、犯罪など悪意に基づいて手に入れたお金を犯罪で得たお金だとわからなくしてしまうことのように、洗浄を意味する。

 

罪を償う禊とは違い、ロンダリングには反省や償いはない。

 

 

 

最近また飲食店での迷惑行為が目立つようになってるが、この種の罪が「一生ものの罪」となり自己破産しても免責されない損害賠償を負うなどとも言われ始めてる。

 

 

過去に似たようなことをして世間から吊し上げられた人の中には、そういう風潮に異を唱える人が多いが、大多数のそんなことはしない人たちからは反撃されている。

 

 

悪いことをするとデジタルタトゥとしてネット上に消えない記録が残り簡単に検索される。

 

 

大多数の人の記憶からは消えてしまっても、興味を持った人からはいつでも簡単にほじくり返されてしまうという意味でロンダリングは不可能となる。

 

昔だったら取り巻く人間関係の中で許容されればそれは免罪符を手にできたという意味でロンダリングが成立したが、現代ではロンダリングできない旧悪に対しては取り巻きの人間ほど拒否反応を示すし、知り合って間もない頃に身近な誰かに検索されることはザラだろう。

 

そこに誠意や償いの有無はおそらく関係ない、デジタルタトゥがあることが問題になるのだ。

 

 

鋼のメンタルを持ってない人は、悪事や悪ふざけはやってはいけない時代になった。

心を掴んで離さない偽情報は、退屈な真実に勝つ

偽情報が心を掴む場合とは、心配や不安や恐怖に関することが多い。

 

具体的な心配や不安や恐怖もあれば、漠然としたものまで含まれる。

 

偽情報には、心配や不安や恐怖を煽る場合と、心配や不安や恐怖から逃れるあるいは解消するようなものの両極端な二つに分かれることが多い。

 

この両極端な二つは、キッカケ一つで容易に一つに繋がる。

 

心配や不安や恐怖から逃れられることとは、夢や希望と置き換えることも可能だろう。

 

 

偽情報が説得力を持つ背景には、現実社会の中で正しく真面目に生きてる人よりも、汚れた生き方をしてる人や人望があるとはいえない人が良い目に遭ってるのを見るのが少なくないことの裏返しでもあるだろう。

 

汚れた生き方をしたいわけでもなければ、人望なんていらないと思ってるわけではなくても、良い目には遭いたいと思えば真似できる要素があるのではないかと探りたくなるのは不思議ではない。

 

 

実業に対して虚業という存在がある。

 

ものやサービスを作り、ものやサービスを財に転換するという事業が実業なのに対し、お金にお金を産ませようとするのが虚業で、金融機関など利息を目的とする事業。

 

虚業の一部は投資と呼ばれ一層盛り上がっているが、時代は虚業の親分のような嘘や詐欺も盛んになっている。

 

この虚業の親分には、ものやサービスのような対価となる実態がほぼないので虚業ですらない。

 

しかし、物語という偽情報がくっ付いてくるのだ。

 

この物語に、癒しや救いを感じた人が犠牲者になるのだが、自ら喜んで犠牲になるその姿はただのマゾヒストにしか見えないので、周りから普通の感覚を持った人は離れていく。

 

偽情報に癒しや救いを感じる人は、世間からは騙されてるとか洗脳されてるとバカにされ気持ち悪がられるだけだが、当人は信頼できる拠り所を見つけたと思っているのでコミュニケーションは成立しなくなる。

 

 

それもこれも現実の世の中が退屈な物語で溢れているからだ。

 

現代の退屈な物語は、厳しい現実や頼りにならない取り巻きの人間関係で構成される。

 

 

こんな現実から逃れるためには冒険に出るしかないのだが、そのきっかけとなる情報が偽物なのだ。

 

 

数学や物理学が人気あるのは嘘をつかない、嘘がつけないからかもしれない。

 

しかし、適度に数学や物理学を織り込んだ物語を作り偽情報に仕立て上げることは可能だ。

 

現在でも、アメリカでは人口の2%(約600万人)が地球平面説を信じているらしい。

 

この人たちが信じているのは、地球が平面であるという物語なのだ。

 

 

物語をバカにしてはいけない、なぜなら地球平面説を笑ってる人も自身の好きな別の物語の世界で生きてるに過ぎないのだから。

 

正しいかどうかでいうと雲泥の差であっても、生き方の差は50歩100歩。

 

 

みんな日常に退屈してるのだ。