違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ざまあみろ

人間は絶対性より相対性を重視すると言われる、あくまでも一般論だが。

 

テストで100点を目指すよりも、点数よりも偏差値が高いことの方を重視するように。

 

つまり、他人やライバルと思ってる人との位置関係や順位関係に一喜一憂する人が多い。

 

こういう価値観の延長線上には『ざまあみろ』が出てくる。

 

『ざまあみろ』が芽生えると、もはや相手は誰でも構わなくなる。

 

 

相手やライバルを上回るために頑張ることよりも、相手やライバルの失敗やミスを望む気持ちの方が強くなったり、さらにこの気持ちが高じると知らない人や有名人のミスや失敗にも喜びを感じるようになる。

 

自分を取り巻く環境は何も変化しないのに、失敗やミスやスキャンダルで堕ちてる人を見ると『ざまあみろ』と溜飲が下がる人が日本人にはなんと多いことか。

 

喫煙による女子体操選手のオリンピック辞退のニュースに対する賛否の反応にはどちらにも『ざまあみろ』が感じられる。

 

未成年のくせにタバコなんか喫うからだ『ざまあみろ』のほかに、オリンピック自体はこれからだがそんなことで辞退に追い込むからきっと金メダルは取れない、辞退に追い込んだ体操協会『ざまあみろ』のように。

 

相対性ばかり意識してる人は、自分が頑張って結果を掴むよりも相手やライバルが堕ちることに快感を覚える。

 

 

『ざまあみろ』と感じて気持ちがスーっとするような自分に気付いたら要注意だ。

 

そんなことで気持ちがスーっとしてるようでは他人から『ざまあみろ』と思われるような生き方しかしてないはずだ。

 

暑い

暑いということを伝えようとすると説明を始めてしまう。

 

説明するのは野暮なので、他の方法は無いかと考えるが温度計の写真を撮るなど結局説明と同じことをしようとする。

 

あまり考えずに何枚か写真を撮ってしばらく放置した後で改めて見ると、西の方向を窓から撮ったものが暑いというか夏を伝えているなと感じられた。

 

 

 

 

普通だったらジャマに感じる電線が暑さを強調するようで悪くないなと思えた。

 

 

あるようで無いのがオリジナリティ

オリジナルには二つの意味がある。

 

①独自の、自分だけの

 

②(作られた当時の)原型を保っている

 

どちらを意味するかは文脈や文化的な背景次第で変化するので、独自のと言う意味でオリジナルを主張すると、原型から外れてると言う意味でオリジナル性を否定されるような場合もある。

 

つまりオリジナルを主張しても意味は正反対になることがありうる。

 

 

モノに重きを置く場合には、買った当時、作られた当時の原型を忠実に保ってることが重要だろう。

 

一方、所有してる自分の意識や気持ちが重要ならば、自分らしさがそのモノに表現されてる方が重要だろう、たとえ原型から離れても。

 

 

そんなことを考えていたら、20年くらい前の話を思い出した。

 

下火になりつつあるとはいえまだまだ日本では車の改造やチューニングによってオリジナリティを主張するという行為は勢いが残っていた頃の話。

 

改造やチューニングを施すことを良しとする層は、買った時のまま手を加えず交換パーツも全て純正部品の状態で乗ることを『ノーマル』と少し小馬鹿にしていた。

 

知人を介して知人と共に日本のフェラーリ界では知る人ぞ知る大御所の方と会って話をする機会があった、なにぶん古い話なのと簡単に個人情報を晒すのは憚られる現代なので少し曖昧に表現してるが、イタリアのフェラーリ本社がオーソライズしてる方。

 

話のテーマはフェラーリの改造について。

 

教えてもらったのはイタリアのフェラーリ本社は改造されることをとても嫌い、目立つようだとあらゆる法的手段を使って圧力をかけるらしいとのこと、繰り返すが20年少し前の話。

 

それに加え市場での評価もオリジナル(新車販売当時のまま)である場合に最大化するというのが世界共通の事情でもあったのでフェラーリを改造するというモチベーションは低いというのが世界の共通認識だった。

 

この世界共通には例外が二カ国ある、それがドイツと日本だと教えてくれた、つまりその当時の日本だとフェラーリを改造するという市場は展開次第ではおもしろいかもと教えてくれた。

 

ちなみに改造されることが嫌なイタリア本社が法的に勝ち得た対策は、フェラーリ本社がフェラーリだと認めないフェラーリベースの改造車はあの有名な跳ね馬のエンブレムを使用禁止にすることができるというもの。

 

したがってイタリア本社から睨まれた改造を施されたフェラーリはオリジナルのエンブレムを作る必要に迫られるのだが、オリジナリティのために改造をしたがる層の人にとってはネガティブなことではなくむしろ武勇伝が追加されるようなものだった。

 

 

マイナーな例を上げたが、オリジナルとかオリジナリティというのは深く突っ込んで話をしないとどちらの意味で使っているのかが分かりにくい場合があるし、場合によっては二つがごちゃ混ぜになってるようなことも少なくない。

 

そういう時は、オリジナリティを主張する人ほど、主張するほどのオリジナルは持っていないと判断することにしている。

 

 

右手が使えない生活

正確には原因不明な理由で現在右手が不自由。

 

手首から下が機能しない。

 

右手の甲が腫れ上がり指の関節が動かないし、ちょっとした動きで痛みもでる。

 

ざっと時系列で振り返ると、先週の土曜日に庭木の剪定をしたが、水分は補給してたつもりだが脱水をおこしていたかもしれない。

 

これがきっかけであることはほぼ明らかだと感じてる。

 

症状は一気には進まなかったが、手の甲の血管が徐々に腫れに埋もれるようになった。

 

水曜日には3ヶ月毎に受けてる検診があったが、この時には人差し指が完全に腫れで動かせなくなっていた、痛みもあるのだがこの時点では今が症状のピークだろうなと感じていた。

 

検診では毎回血液検査と尿検査をしてるが白血球だけがいつもよりすごく増えていた。

 

先生に右手のことを伝えると白血球の増加には合点がいったようだが、私が右手の酷使を疑っていたのに対して、「虫にでも刺されたんですかね?」と言っていた。

 

もし脱水が関係してるとすれば私の中にはもう一つの可能性が浮かんでいた。

 

 

通常足に出る痛風が手の酷使と相まって右手に出たのかもとも。

 

木曜日になると一層悪化し右手の甲はパンパンに腫れ上がり、手首も動かなくなった。

 

これは痛風だなと思うようになった。

 

20年くらい前に足に患った痛風と同じなら思ったより長期戦になるかもしれない。

 

金曜になっても症状は全く同じ。

 

そして今日、すっかりブログを書いてないことすら忘れていた。

 

普段だったら世間のお騒がせネタは好きなのだが、今はまるで興味がない。

 

とりあえず何か書こうとするなら、最近の自分のことを振り返るだけだと思い書いている。

 

パソコンで書いていて、右手はキー操作程度であれば使えるが、すぐにブルブルと震え出す。

 

右手が不調になっただけと思うなかれ、ポジティブな気持ちもすごく薄くなるのだ、普通に身体が機能することがいかにありがたいか、こう思うのは一度や二度ではないはずだが今また改めて痛感してる。

 

今は時間の問題で回復できることに疑問を持ってないが、そう思えるうちは幸せだなと感じてる。

 

東国原英夫vs蓮舫

東京都知事選挙が終わった後で新たな戦いが勃発してる。

 

ことの始まりは、

 

蓮舫氏「この方は私の友人ではありません」東国原英夫氏の指摘に反論「たけしさんの側にいた方」

東国原氏は8日のTBS系「ゴゴスマ~GOGO!Smile!~」(月~金曜午後1時55分)で、蓮舫氏の落選について

 

「僕は昔から友人なので厳しいこと言いますけど、今回の敗因は共産党さんを前に出し過ぎたとか、さまざまなこと言われますが。蓮ちゃん、やっぱり生理的に嫌いな人が多いと思います。本当に厳しいこと言いますけど。現場を見てそうでした」とコメント。また「蓮舫さんって非常に優秀で、切れ込んでいく、それを批判する、ものすごい能力はあるんですが。首長というのは、みんなをすべて包含しなきゃいけない部分もあって。その能力に欠けているのを都民が見抜いたかなという感じはしました」

 

 

 

この話を受けて、

 

 

 

Twitter上では蓮舫さんに対し、そんな反応するから票が入らないんだとの声もあり、わたしは『なるほど』と思った。

 

東国原英夫さんに対し『この方は友人ではありません』という反応はわたしはとても理解できるので、改めてわたし自身に政治家の資質が無いことを再認識できた。

 

政治の世界では清濁合わせ飲むことが求められる。

 

味方だけが味方では足りないのだ。

 

しかし、大多数の普通の人にとっては嫌なものは嫌だし、受け入れ難いものは受け入れられないのが当然だし、嫌いな人や苦手な人とは距離を取るのが自然なことだが、こと政治が絡むとそんな相手にわざと絡むことは少なくない。

 

東国原英夫さんは蓮舫さんに悪がらみすることでエンタメ化させてるつもりなのだろうし、思った以上にバズっていてニンマリしてることだろう。

 

宮崎県知事として宮崎への注目度を上げることには成功したが、再度宮崎県知事選に立候補した際には落選した、その際に宮崎県知事時代に仕事で接点を持った方が『宮崎の広報役としては抜群だったが、身近で関わった人を不快にさせうんざりさせる人だった』と語るのを聞いたことがあるのを思い出した。

 

 

日本のお笑いにありがちな弱い者イジメが全盛の時代の人で、東国原英夫さん自身も散々いじめられたであろうことは想像に難くない。

 

そんな昭和のお笑い気質が落選した直後の蓮舫さんに向かうのは自然な流れだったのかもしれない。

 

 

正しい間違ってるあるいは良い悪いを論じたいわけではない。

 

政治というのはそういう世界なのだ、政治家に擦り寄る人にも似た気質があるはず、しかし圧倒的に大多数の人には近寄ると火傷を起こす世界なのだ。

 

あまり良い言い方をされないのが傍観者だが、ケガするくらいなら傍観者くらいがちょうど良いのかもしれない。

 

 

主義主張や理屈はフワフワとしたイメージに勝てない

行動経済学にセミ・ホームメイドの法則というのがある。

 

直接的には料理や調理に関する話で、あまりにもお手軽なインスタントで作ると、出来上がったものに満足できないし、「これは自分が作ったものだ」と思えないらしい。

 

インスタントのお手軽さは7割くらいがちょうど良く、残る3割に自分なりのアレンジや創意工夫が施されるくらいだとお手軽である恩恵を受けつつ満足や喜びも大きくなり、これは自分のものだという所有欲すら高まるらしい。

 

この場合の3割とは具体的には混ぜたり何かを加えるというレベルで、難易度から言うと人によってはとても創意工夫とは思えないレベル。

 

そして、自分なりのアレンジや創意工夫の割合が3割を超えることが要求されると、もはや苦痛で楽しめなくなるとも言われる。

 

 

この話、料理や調理に限らないだろう。

 

創意工夫の割合が増えるほど、それが何に関してであっても人は苦痛を感じる生き物なのだ。

 

翻って、何から何まで創意工夫で向かい合う人は例外中の例外なのだ、中には使う道具すら創意工夫で作る人がいるが。

 

 

日記やブログを書くという行為ですら、パソコンやスマホがあるからする気になれるが、手書きでとなったら私は絶対にしない。

 

創意工夫が関連するあらゆる分野にテクノロジーやエネルギーが日進月歩で注がれている。

 

上記で書いた7割や3割が意味する質的な中身は常に現在進行形で変化してる。

 

 

インスタントな7割がアップデートされないままなのとアップデートされているのでは、3割の創意工夫の中身も違ってくるし、当然出来上がるものもまるで違ってくるが、それは能力や実力や努力の差とは必ずしも言えない。

 

強いて言うなら、新しいものへの適応の差だ。

 

屁理屈的に言うと、コロンブスの卵のレベルの差だが、その差が決定的な差になるのだ。

 

 

昨日の東京都知事選における勝者は石丸伸二氏だと言われる。

 

それは時代を先取りしたからだ、主義主張で勝負せず、フワフワとしたイメージを植え付けることで人の心理を惹きつけることができることを身をもって証明したからだ。

 

フワフワとしたイメージ戦略にYouTubeやSNSが有効であることなど誰もが知っているはずなのに、都知事選立候補者の中でそれができたのは石丸伸二氏だけだった。

 

他の候補者は創意工夫のレベルが低すぎたのだ、この場合のレベルが高いと言うのは中身が高尚という意味ではない。

 

インスタントに使えるものを活かしたというだけだ。

 

 

主義主張や理屈がフワフワとしたイメージに負ける時代はすでに本番が始まっているのだ。

 

 

意外だったが結局納得

意外な結果に終わったと感じたのが2024東京都知事選。

 

これを書いてる時点では結果とは出口調査の結果のこと。

 

一番意外だったのは蓮舫さんが3位だったこと。

 

正直言って小池百合子さんと蓮舫さんの一騎討ちだと思っていて、健闘が伝えられる石丸伸二さんも泡沫候補としか思えなかったから。

 

ただ、実際に結果が出るとなるほど選挙とは作戦次第なのだとあまり重要視してなかった話が一つに結びつく。

 

現状を変えたくない人は小池百合子さん一択で、変わることを望む人はそれ以外という選択肢の中で小池百合子さんの最大のライバルは蓮舫さんだった。

 

今回の選挙の最大の特徴は、裏金問題で揺れる自民党が自民党所属ではない小池百合子さんを積極的に応援できなかったという点にある。

 

じゃあ自民党は何をしていたのか石丸伸二さんを応援していたのだもちろんステルスでだが。

 

絶対条件として小池百合子さんに勝ってもらわなければ自民党は困るのだ、健闘して蓮舫さんと食い合いになることが望みだったのだ。

 

選挙戦後半の石丸伸二さんの追い上げはそういうことだったのだ。

 

では都民である有権者にどのような影響が及んでいたのか?

 

結果が出るまでは想像できなかったが、テレビが報じていた。

 

画像はTwitterで拾ったもの。

 

 

 

無党派層の若い人に言葉が届いたのは石丸伸二さんだったのだ。

 

ほぼ無名に近いが市長経験者で政治の素人でもなければ不真面目な印象を与える人でもないし、知名度が低い分だけ色が付いてないところも好感につながっただろう、しかし小池百合子さんを単独で脅かす存在ではない、石丸伸二さんがいなければ蓮舫さんに流れたであろう票を奪ったのだ。

 

今してる話はわたしが書くまでもなくすでにネット上では出ている。

 

そもそも都民ではないわたしには国に影響するという意味では関係無いわけではないが、結局は傍観者の側だ。

 

傍観者としてのゲスの勘繰りとしては、石丸伸二さんが今後どのような分野でどのように生きていくかに興味がある。

 

もし自民党と関わるようであればまさになるほどだ。