違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

初めてvs一期一会

それが何であれ、比較する別の体験を持っていないことが『初めて』。

 

つまり、比較できないから比較しない(はず)。

 

結果として先入観を最小限にして受け止めざるを得なくなる。

 

いわゆる第一印象の出来上がりで、その後経験や体験が増えると、第一印象とはかけ離れたイメージが定着することは少なくない。

 

子供の頃の体験に新鮮さや感動が多い理由であるとともに、大人になると新鮮さや感動が少なくなる理由でもあるだろう。

 

 

本当は初めてじゃなくても前回の記憶が遠くて薄い場合も擬似的な初めてが成立するだろう。

 

 

初めてというのは何も最初の一回という瞬間を意味するだけではなく、一定期間の賞味期限も持つ、ただし個人差が大きいかもしれない。

 

 

これとは別に、何度も体験してるのに、かなり時間が経過した後で、『初めて気付く』ということもある。

 

『目から鱗』などと表現される体験で、初めてではないのに初めての体験が起きることもある。

 

この場合の初めてとは、初めて芽生えた意識であり、目覚めとも表現できるだろう。

 

目覚めは悟りでもある。

 

 

初めての体験の中でも特別だった体験は、後にもう二度と体験できない一期一会だったと悟ることもある。

 

一期一会の場合、体験そのものに価値があったというよりも、初めてであることと何らかの感情がリンクすることによって一期一会たらしめてると感じられる。

 

いくら分析できても『あの時に感じたあの思い』には二度と会えないし再現できない、だから一期一会なのだ。

 

 

初めてだからこその一期一会だが、初めてであれば一期一会になるわけではない。

 

人生を重ねると、自然と初めてが減っていく。

 

初めてを意識して避けようとすることも増えるかもしれない。

 

そういう場合は、初めてを経験し。その後馴染んだり慣れるために発生するプロセスに良い思いが少なかったからかもしれない。

 

あるいは、一期一会の感動の再現を追い求め、それが叶わないことに疲れてしまったからかもしれない。

 

意識的に初めてを追い求めることを世間ではチャレンジと呼ぶことも多い。

 

 

子供にとってはごく普通の日常生活の全てがチャレンジになり得るのに対して大人はチャレンジは壮大なものだと思ってしまいがち。

 

 

小さな初めてを何歳になっても始められかつ楽しめる人はきっと幸せだ、一期一会はそういうところに訪れる。

人生は物語

考えや意見を伝えるあるいは表現するに当たって、意識するようにと教えられ続けてきた言葉がある。

 

起承転結5W1H

 

これらが整っていないと、言いたいことや表現したいことは、伝えたいようには伝わらない、と教えられてきた。

 

 

起承転結や5W1Hが上手くまとめられてないニュースは、結局何が言いたいのか分からない。

 

教えることが上手な人は必ず意識して実行してるはず。

 

 

その一方で、きちんと説明されないと理解できないのは頭が悪い証拠だというような思い込みを持つ人も多い。

 

だからこそ『一を聞いて十を知る』ことを賢いことだと思ったりする。

 

起承転結や5W1Hを回りくどいことと思う人は、結論だけがわかれば良いと思いがちで、結論しか知らない人はその結論になぜ至ったかは上手に説明することはできない。

 

 

現実社会では、起承転結や5W1Hをきちんと意識してコミュニケーションが取られてるわけではないし、発信者が意識していても受け手が意識してなければせっかくの起承転結も5W1Hもずれや誤解を生じさせることになる、いわゆる伝言ゲームだ。

 

 

事実や真実や真相が知りたいという思いが起承転結や5W1Hを求めるのだが、別の表現をすると、起承転結や5W1Hが整うとそれは一つの物語になる。

 

物語には脚色や演出は付きものだが、そこはスルーされがちで事実や真実として罷り通りがち。

 

物語として理解できると分かりやすくなるのだ。

 

これは人間にしかできないはず。

 

人間以外の動物だってコミュニケーションを取ってることは知られてるが、物語にはなってないはず。

 

 

フェイクニュースや陰謀論や詐欺はどれも分かりやすい物語を伴って展開されている、だから不安や恐怖が伝染するのだ。

 

 

ロシアがウクライナに仕掛けた戦争に関しても、多くの人が報道で伝わる映像などを踏まえて自分の脳内で組み立てた物語として認知してるに過ぎないのだが、物語ではなく事実として認識してるつもりになってるはず。

 

人間は良くも悪くも自分で作った物語の中で生きているだけなのだし、コミュニケーションとは相手との物語合戦なのだ。

 

勝った負けたと捉えると新たなストレスの物語が余計に増えるだけ。

 

人間という生き物は、脳内で物語ばかり作っているのだ、あの手この手で脚色や演出を加えながら。

 

 

物語は自分の環境を無視して組み立てることは不可能なので大満足する物語を描くことは簡単ではないだろうが、心地良い程度の物語ならば自分次第でどうにかなりそうにも思える。

 

 

所詮物語、されど物語、人生は物語だと知ってることが大事。

 

 

人生は物語だと軽く考えられないと、先祖の悪い因縁を背負っているなどと重い物語を背負い込むことになる。

オリンピックや万博は日本では有事

日本が高度成長してた頃の小学校の教科書では東の東京と西の大阪は規模において甲乙付け難いと教えていたように記憶している。

 

大学のイメージだって東大と京大(大阪ではないが)は場所が違うだけで同じレベルだと世間では認知されていたように記憶している。

 

 

個人的な印象としては、東京と大阪の格差が決定的になったのはバブル期の頃からで、その少し前の時期から大阪の象徴だった吉本興業も東京に活路を求めていた。

 

改めて東京と大阪を比較したくなったのはたまたま次のツイートを見たから。

 

 

 

落ちたな〜大阪と感じた。

 

 

内閣府の資料に東京の一極集中がどのように進んだかという推移を示すデータがあった。

 

 

 

 

データの出典は下記サイト

https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s3_3_19.html

 

 

70年代以降は大阪(圏)は人口が減少期に入っていたのだ、印象としては90年代の半ば以降だと感じていたが、それより四半世紀早かったのだ。

 

前回の大阪万博は1970年3月から9月までの半年間開催されたが、この時には大阪圏は減少期に入っていたのだ。

 

 

さて2025年開催の大阪万博は何かと懸念を指摘する声が大きく、こんな話もある。

 

万博主要施設は突貫工事必至か、小山薫堂氏と落合陽一氏のテーマ館は落札者決まらず 2023年5月25日

22年12月に入札の不落・不調が伝えられ始めてから、はや半年がたとうとしている。それでも2つのテーマ館は実施設計や建設工事の着手にめどが立っていない。突貫工事で進めざるを得ない事態が現実味を帯びてきた。

 

 

ここまでの流れを総合すると大阪が残念な印象を受けるが、忘れてはいけないのは2020(2021)東京オリンピック、私はあったことを忘れていた。

 

2020東京オリンピックは、なんだかんだ言われながらも閉幕時には感動の方が多かったと総括され成功だったとする声も少なくなかった。

 

しかし、2年経過するとあったことを忘れていたし、何か印象に残ってるシーンがあるかというと、まるでないというのが正直なところ。

 

どうしてこんなに東京オリンピックの印象が薄いのかというと、ロシアがウクライナに攻め込んだことが大きい気がする。

 

オリンピックも万博も、開催の意義は世界の平和が前提だ。

 

 

次の記事は全文は読めないが、

 

五輪メダル売ったウクライナ選手 日本人落札者から届いた驚きの言葉  2022年4月18日

ロシア軍の侵攻が続くウクライナで、スポーツ選手たちが各地の大会で手にしたメダルを売りに出しています。収益を軍や病院などの活動にあてるためです。

 

 

現代の日本でオリンピックや万博に色気を出す時の前提は平和というよりも平和ボケのように感じる。

 

今の日本では、オリンピックや万博は平和ボケゆえの有事に思えてしょうがない。

最強vs無敵

岸田総理の嫌いな言葉遊びをしてみた。

 

〜〜〜国会での遣り取り〜〜〜

 

立憲 田島麻衣子氏

「長男の交代は、更迭と理解してよろしいか?」

 

 

岸田総理

更迭かどうかという質問ですが、「言葉遊び」をするつもりはありません、「けじめをつけるために交代させる」、このように申し上げてる

 

〜〜〜〜〜〜

 

 

 

シンプルに誰が一番強いかを競う格闘技世界一戦を設定することはシンプルどころか実に複雑で困難が付きまとう。

 

誰が強いかだけでなく、どの格闘技が強いかが決まるからであり、異なるルールに対する調整も有利不利の元となるからでもある。

 

また、勝者の側が得るものよりも、敗者の側が失う存在意義の方が遥かに大きいと思われるからだ。

 

大々的に告知された勝負事で決着がつくということは、負けた方は全てを失うことになり、負けた方は個人だけでなく、組織や団体を含めての存続にすら影響しかねないからで、利権だけでなく評価や名誉やプライドなどありとあらゆることが絡んでくる。

 

物語としてはそういう展開をイメージしやすい。

 

 

しかし、実際に催された世界一戦あるいは異種格闘技での敗者側が全てを失うということはなかった。

 

その時の勝者であり敗者に過ぎないだけだった。

 

 

目指したはずの最強の称号は極めて内輪なものでかつ瞬間的なものに過ぎなかった。

 

 

それに対して現代の『全てを失う』は割とイメージしやすい。

 

思慮分別に欠けた悪事がバレるだけで達成可能になっている。

 

もちろん『全てを失う』のは未来永劫にというわけではなく、敗者復活も可能だろうが、足を大きく引っ張られることは間違いない。

 

 

現代では、何かを得ることは年々難しくなるが、その割には失うのは簡単になっている。

 

それに比べたら、最初から何も持ってないという自覚がある人だと、別に今さら失うものを気にすることもないだろう。

 

 

どうせ全部失ったから、今さら命だけ残っても意味も価値もない、そう考えてヤケクソになるのが無敵の人。

 

 

無敵の人には恐れるものがないが、それは世間を騒がせる悪事で認識される。

 

一方で世間が気付かないのは、無敵の人ゆえに成功できたという話。

 

ヤケクソパワーが発揮されるのは悪事だけとは限らないし、入り口は悪事だが途中から変わるということもあるはず。

 

無敵の人ゆえに死に物狂いで頑張って、ついには成功を手に入れたというケースだってあるはずだが、成功した時には無敵さは影も形も残ってなさそうな気がする。

 

 

得たものは守りたいのが人情で、その人情はもはや弱さになるからだ。

 

無敵の人が奈落の底から這い上がったらすでに無敵ではないのだ。

 

 

単なる言葉遊びなのだが、最強であることは無敵であるかもしれないが、最強でありかつ無敵となると概念として成立できないような不思議さを感じる。

 

 

 

 

みんな大好き『コップの中の嵐』

岸田翔太郎首相秘書官が辞任という体で更迭された。

 

世間や与党内からの批判や非難の多さに『心が折れた』とも報じられていた。

 

この件は、岸田家親族忘年会写真が原因になってるというくらいだから昨年の話。

 

写真を掲載したのは週刊誌で、その週刊誌の写真が話題になったのだ。

 

ネットやSNSで写真がバズって、それを週刊誌が追及したとすれば今時だなと感じるが、逆のパターンなのだ。

 

最近の話題の発覚パターンとしては、やけに時間が経っているという特徴がある。

 

週刊誌側が写真を入手したのはいつ頃なのか?

 

もし、撮影後すぐに入手していたとすればずっと温めて、最も効果的なタイミングを狙ったと勘繰ることもできる。

 

 

写真を見ればノリでやってることは一目瞭然で、だとするとノリでTwitterにアップなんていうのが一番似合いそうだが、それだと瞬時に発覚するはず。

 

LINEで流出という指摘もあるが、それならば閉鎖性が高いから納得できるが、その場合は一応ノリの暴走に忖度のブレーキはかけられたと言えそうだ。

 

参加者にもバレたらまずいよなという思いがあったことになる。

 

 

写真を撮影したカメラ(スマホ)は誰のものか?

 

セルフタイマーを使っての撮影なのか別に撮影者がいたのか?

 

写真を共有できる立場にいた者は忘年会参加者以外にいたのか?

 

親族以外の公邸関係者は誰がいたのか?

 

 

嵐はコップの中で起きたことがよく分かる。

 

疑心暗鬼が渦巻き、親族や公邸関係者の中にスパイがいたのではという陰謀論まで現実味を帯びてくる。

 

写真を見る限り盗撮だとは思いにくいが、念のためにChatGPTにも聞いてみた。

 

その回答は『関与した者を特定し真相を明らかにするでしょう』と締め括られていた。

 

結果が公表されることはないだろうが、コップの中でも起きてしまえば嵐は嵐なのだ。

費やした時間と得られる成果や結果の関係

タイトル通りの問いをChatGPTに投げてみた。

 

その結果、一定ではないという前提で以下の4つの項目が関係すると挙げてきた。

 

費やした時間という量の問題以外に質も問われるという意味だろう。

 

      1. 努力と熟練度
      2. 目標の明確さ
      3. 効率と生産性
      4. 外部要因

 

1、2、3、は主として自分でなんとかすることで、4は自分ではどうしようもないこと。

 

 

このChatGPTの回答に対して誰でも分かってる陳腐な優等生的な答えだという印象を持つ人は多いかもしれないが、私は妙に感心してしまった。

 

それはずっと思っていたことと結びついたからだ。

 

 

何かに一生懸命打ち込んだ経験がある人ほど、筋トレを覚えるとのめり込むという話だ。

 

一生懸命に打ち込む何かとは、なんでも構わないが、受験勉強やスポーツや仕事などが一般的だろう。

 

 

一生懸命何かに打ち込んだ経験がある人ほど、周りの人からどう見えていたかとは別に、『やってもやっても成果が上がらない』あるいは『やればやるほど悪くなる』というジレンマを抱えたことがあるはず。

 

しかし筋トレは、掛けた時間と得られる成果や結果がほぼ正比例するという印象を体感できるのだ。

 

この正比例してるという実感を得るためには最低でも3ヶ月から半年という時間は掛かるが。

 

掛けた時間と得られる成果や結果が正比例してると気付いた瞬間に、『こんなの初めての体験だ』と感動するのだ。

 

その感動は、もっと上を目指したいという気持ちよりも、ここで満足してやめたら全てが無駄になるという思いの方が強く、やめるなんて勿体無いという意識になる。

 

 

全盛期を過ぎたプロのスポーツ選手の中にも、筋トレで肉体改造する人はいるが、ほとんどのケースで本業の成果には反映しない、そういう意味では筋トレをスポーツというジャンルに分類するのは違うような気がする。

 

少なくともスポーツ選手が筋トレを取り入れるのは落ち目になってからでは価値はないのだが、成長期に取り入れることも害があると言われている。

 

つまり、スポーツに関する限りは筋トレは掛けた時間と発揮するパフォーマンスの間には微妙な関係性があるのだ。

 

 

筋トレの場合、掛けた時間に比例するのは筋肉の量だけと思った方が良い。

 

それが良いか悪いかは全く別の話。

 

 

費やしたり掛けたりした時間と得られる成果や結果には負のものもある。

 

地球温暖化だって掛けた時間の結果の産物だし、積み重ねた生活の結果が後悔先に立たずの病気に繋がったり。

 

どちらも後戻りができない段階になって初めて現象(つまり負の成果や結果)は着々と進行していたことを思い知らされる。

 

 

 

実感できるかという意味では必ずしもそうではないが、きっとやったらやっただけの成果や結果は出てるのだ。

 

 

費やしたり掛けたりした時間に対して成果や結果に満足できない場合は、ChatGPTが挙げた4つの項目を振り返ると良いかもしれない。

 

 

費やしたり掛けたりした時間に対して得られる成果や結果が満足できないからと合理的な損切りをすることは、実はもったいないことなのかもしれない。

 

ただ生きてるだけでも冒険だ

かつて冒険する人の多くが海に出ていた頃、海に出る人は船乗りと呼ばれていた。

 

船に乗るといっても今の船をイメージしてはいけない。

 

ひとたび海に出たら、今船がどこにいるかなんて分からなくて当たり前だったのだから。

 

海を舞台にした冒険には羅針盤がつきものだが、具体的には何だと思って調べると方位磁針のことだった、さらにいつ頃から使われるようになったのかをChatGPTに聞いてみた。

 

 

羅針盤は、おおよそ2,000年以上前にさかのぼる歴史があります。古代中国や古代ギリシャ、古代ローマなど、さまざまな文化や時代で独自に発明されたと考えられています。

 

 

 

古代中国では、紀元前4世紀ごろには既に「指南車」と呼ばれる磁石を利用した方位磁石が存在していたとされています。この磁石は、南北を示す針が磁石によって指し示される仕組みで、航海や地理的な探検において方位を判断するために使用されました。

 

 

 

一方、古代ギリシャや古代ローマでは、磁石の性質についても知識があったものの、羅針盤のような具体的な装置は存在していなかったようです。しかし、地球の磁場の性質や方位を理解するための研究が行われ、航海術や測地学の分野で重要な役割を果たしました。

 

 

羅針盤の近代的な形が広まったのは、13世紀ごろの中国の宋朝時代です。宋代の旅行家である郭守敬が、磁石を使用した針状の指示器を船に取り付け、方位を判断するために利用しました。このような羅針盤は、その後、ヨーロッパにも伝わり、大航海時代の探検や航海において不可欠な道具となりました。

 

 

 

羅針盤は、原理はシンプルながら世界共通になるまでには随分時間が掛かっているのだ。

 

 

 

さて、羅針盤と出会えるまでは船乗りたちは何を頼りにして自分の位置や目的地を探ったかというと北極星だ。

 

目視で北極星を確認するので天気が悪ければ確認することはできない。

 

 

ここまでは前置き。

 

現代を生きる者はテクノロジーの恩恵を受けてるように思ってるだろうが、こと自分の人生となると羅針盤を持たない船乗りそのものだ。

 

しかも、実際の船乗りと違って北極星という頼りになるものもない中で、自分が本当はどこに位置してるかもよく分からないまま、一生懸命目標を定めようとしてるとすれば、悲しいというか滑稽ですらある。

 

違いといえば乗ってる船のサイズや乗員の数や出発地点で、それ以外は自分のコントロール下にはない可能性が大だ。

 

 

北極星に相当する基準や目標はあるかもしれないが、それは船毎にバラバラで共通のものにはならないのだ。

 

『あの船について行こう』とすることは海が穏やかならばできるだろうが、そう簡単でもないだろう。

 

 

ただ生きてるだけでも十分に冒険なのだ。

 

 

昔の冒険者に比べたらずいぶん楽をしてるようでも不安な気持ちには大差ないのかもしれない。