違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

儲からない話に付き合う義理はない

興味深い記事だった。

 

経営のプロ「コンサル会社」の倒産が急増  ~ コロナ禍での政策支援と「本物を求めるニーズ」のはざまで ~

 

 

興味深いのは記事というよりも、寄せられてるコメントの方で、実際にコンサルに依頼した体験を持つ方(おそらく経営者かコンサルと直接接点を持ったであろう現場の方)のもの。

 

コンサルが倒産するのは当然であり必然だと感じるコメントの中から象徴的な言葉を拾ってみた。

 

 

まずはそもそもコンサルに任せる意味や意義とは何かについて。

 

 

基本的にコンサルタントの仕事は問題解決である。問題とは「あるべき姿」と「現状」とのギャップ。「あるべき姿」は原則固定だが、環境変化によって「現状」は変動する。だから当然に「問題」も変動するのだ。つまりその「解決策」も変動するということである。

 

 

この意味や意義を意識した場合に外注する必要性はどこにあるのか?

 

 

事業計画などは、その業界、産業に精通していなければ難しいわけで、依頼しているこちらが指導するケースがほとんどでした。

 

 

その予算があるのであれば内製化していったほうが社内に経験値もたまり長い目で良い結果がでるのではと思います。

 

 

自分も会社を経営していた身としては、経営者としての経験が無い人からの経営のアドバイスどうなんだろう?という感覚はあります。

 

 

経営のプロじゃなく、コネとか義理とか忖度とか癒着の世界。

 

 

コンサルタント会社の目的は手数料稼ぎ。 企業経営は頭だけで分析し成功するようなあまりものではない。社長の理念、信念が最重要。

 

 

コンサルは自分の形を持っていてそれを押し付けるような感じがします。 結局各社の中身まで把握するのは難しいし、各社にあったアドバイスをするの は難しいと思います。

 

 

社員から改善案が出ても実行できないケースがほとんどでその内、社員も何も言わなくなり社長が道に迷うことになるのです。当たり前に日々の改善と合理性を突き詰めていけば自然にできる事ができていないのでコンサルが入っても変わる事ができない会社が非常に多いと感じます。

 

 

儲ける仕組み作りの本来のマーケティングにはほとんど手を出しません。

 

 

 

 

業界の中にいた方は次のように言っている。

 

 

監査法人系の大手と言われるコンサルティングファームにいましたが、資料収集、分析、パワポの資料作り、プレゼンが上手くなるだけで、経営のプロにはなれません。

 

 

 

そんなコンサルだが実際に契約が成立するのはなぜか?

 

 

経営者がコンサルに丸投げして自社に最適な答えがポンと出てくると考えるからコンサルは使えない、となるように思います。

 

 

 

数多くのコメントが寄せられてるが、ほぼ上記のどれかに該当するものが多い。

 

 

私が目を通したコメントには書かれてなかったが、個人的に知ってる経営者は、コンサルと付き合う意義は自社に直接のメリットがあると思ってのことではなく、コンサルと付き合いのある他社に自社の悪口を言われないようにするためだと言っていた、そして自分の周りの経営者仲間がコンサルを使うのは同じような理由だと言っていた。

 

この話は最近の話ではない、20年くらい前からISOなど国際標準規格の導入が進み、これらの規格は直接適用されるのは海外取引する大企業なのだが、その下請けや取引企業にも規格を満たすことを求めるようなものだったため、その頃からコンサルバブルが始まっていた、その頃の話。

 

 

儲からない話に付き合う義理はないとなったのが今になってようやくなのかなと感じられてしょうがない。

 

あと1ヶ月

Twitterで『あと1ヶ月』がトレンド入りしていた。

 

あと1ヶ月という表現から楽しいことをカウントダウンするような「もういくつ寝るとお正月」の雰囲気は感じられない、常に締め日に追われるような雰囲気がひしひしと伝わってくる。

 

約束事を守るのは当たり前のことだが、期限が明確に設定されると途端に理不尽さが漂う。

 

目標には達成のための期限を設けることは重要で、受験の場合だと試験日を過ぎたら意味がない。

 

社会に出ると、売上金の回収や挙績や成果に関しての締め日に常に追いまくられる、毎月給料をもらうためのトレードオフとして。

 

当然、会社が給料の支払い期限を守らなければ怒るだろう。

 

 

軽い気持ちで話したことを、相手が約束に近いと感じれば、相手は何となくの期限をイメージとして持つだろう。

 

「また行こうね」「また会おうね」と言われたら、どのくらいの間隔を空けるのが適当だろうかと思ったり、どうせなら天気が良い日をイメージするだろう、そして時間が空いてるのはいつ頃だろうかと何となくイメージくらいはするだろう。

 

 

しかし、大人になるとこのような約束めいた言葉は言った方も言われた方も約束だとは思わなくなる、だから期限や締め日も存在しない代わりに、お互いにどうでも良い関係性になる。

 

11月30日が12月1日になったからといって何が変わるのかというと、新たな12月の締め日がやってくることと、2023年の締め日が重なるというプレッシャーだけが重くなるのだ。

 

12月以前の未達の残りの回収も求められるし、それができれば大あっぱれでもあるだろう。

 

幸か不幸か今日は全国的に寒そうだ。

メンタルの振幅

イベント事で盛り上がった翌日にメンタルが落ち込むという人は多い。

 

二日酔いに似た症状とでも言えそうだ。

 

前日に仲間で盛り上がりモチベーションを高めたはずなのに、翌日になると昨日のあの自信はどこに行ったのだろうかと不安を感じたりすることは少なくない。

 

このような実体験や他人の体験談を知るにつれ、急激に盛り上がる感情を信じない、というかその盛り上がりが持続するかどうかこそが大事だと気付くようになった。

 

そういうことを意識するようになると、自分だけでなく他人のメンタルの振幅にも意識が行くようになる。

 

一般的には夜盛り上がった内容が、朝陽の元ではとても成り立たない内容だと思い知らされることが多いかもしれない。

 

通じ合ったと感じた思いが、そうでもなかったと思い知らされるのも太陽の力の為せるわざかもしれない。

 

メンタルの振幅のマイナス方向への振れが過剰に気になるようになると心を病みやすくなるだろう。

 

だからと言ってメンタルを上げること、それもできるだけ簡単にとなると依存を求めるようになる。

 

依存の代表格は人間関係と薬物。

 

人間関係が切磋琢磨や共に楽しむというものであれば良いが、そこに宗教やネットワークビジネスや詐欺が網を掛けようとしてることは少なくない。

 

 

何気ない一言でメンタルは揺れ動くということは誰でも経験してるだろう。

 

メンタルを強くするということを望むとますます揺れ動くのがメンタル。

 

メンタルを悪い意味で麻痺させるのが忙しいという状態。

 

忙しいという状態は、悩んだり落ち込む暇すらないことだが、悩みも落ち込みも実際には生じていて残ったままだという不都合はある。

 

悩みや落ち込みの多くは、悩んでも落ち込んでもなんの解決にもならないことばかり。

 

それよりも、メンタルの振幅に意識を向け、振れ幅の正体を自分なりに理解することは大事だろう。

 

そのためには自分と向き合う時間は必要だ。

こんなふうにはなりたくない

図書館に行って本を物色してると、少し離れたカウンターの方から何やら迫力のない大声が聞こえてきた。

 

おじいさんと思しきその声の主はしきりに何かを訴えているようだが、声は大きいがよく聞き取れない。

 

図書館の係員が最初は一人だったようだが、見かねた他の係員も対応に加わったようだ。

 

この時点までは間に本棚がいくつもあるのでカウンターの様子は見えない。

 

おじいさんの『なんでこんなに大勢に囲まれなければいけないんだ』という声が聞こえて、わたしのゲス心は抑えが効かなくなりカウンターが見える位置に行った。

 

直接見える位置まで行くとおじいさんの声はモゴモゴしてるが結構大きいことが分かった。

 

あくまでもカウンター越しの話し合いでおじいさんが囲まれていたわけではいないが、係員は男性1名女性2名で最初は女性1名で対応していたはず。

 

係員の対応は穏やかで威圧的な様子は皆無なのだが、おじいさんは激昂している。

 

話の内容が分かると、どうやらおじいさんは自分が読みたい本を探せないらしい。

 

おじいさんの断片的な情報から係員が何冊か提示したようだが、それではないと言う。

 

係員が、『探すには著者名もしくはタイトルを教えて下さい』と繰り返すが、おじいさんは著者もタイトルも答えられない。

 

ただ、昔読んだことがある本をもう一度読みたいと繰り返すだけで、『そんな簡単なこともできないのか』と興奮していたのだ。

 

昨日から市長や町長の老害的パワハラがワイドショーネタになってるが、老害のパワハラは末端でも活発なのだ。

 

図書館の係員は立場上声を荒げることもできず、メンタルやられるだろうなと思うと気の毒だった。

 

 

また、将来自分がこのおじいさんのようになったらどうしようかと思ったら、それだけで憂鬱になる。

 

ハラスメントの被害に遭うのはもちろん嫌だが、加害側になるのはもっと嫌だなと強く思った。

 

ハラスメントの加害側は、瞬間的にはその場を制圧してるかのように見えるかもしれないし、だからこそ力を誇示したようで一瞬は気持ちいいかもしれないが、現代ではそれは倍返しで跳ね返ってくるし、図書館のおじいさんのように本当は不甲斐ない自分への怒りを他人に向けてるだけになると、ますます深く闇落ちするだけだろう。

 

 

人の振り見て我が振り直せって深いなと思った。

 

 

他人から『あんなふうにはなりたくないな』と思われる生き方はしたくないものだ。

誰でもお宝を持っている

病気やケガの治療や回復を目的とした場合の医学には、万人に等しく結果が出ることを期待するし、それは難しい要求ではないように感じるが、残念なことに治らない人はいる。

 

同じ医学を駆使する場合でも、トッププロのパフォーマンスをさらに向上させるという目的の場合は果たして上手く行くかと懐疑的になる、アマチュアをプロにする程度ならば有効でも。

 

海外のオリンピック選手の中には医学の産物と言われる選手がかつてはいたが最近は聞かない。

 

 

人間という抽象化した存在には有効性が期待できても、ひとりひとりに対して有効かといえばそうではないケースは少なくない。

 

これは医学に限ったことではない、多くの人が経験を通じて実感してるはず。

 

 

その違いはなぜ生じるのか?

 

考える葦である人間は、才能や努力や運の違い故だと考え納得しようとしてきた。

 

そして現代では、才能や努力や運以上にお金の違いが大きいと感じるようになっているようだ。

 

お金を得るために才能や努力や運が必要だとなっている。

 

これは、関わってる人間関係の影響が大きい、関係性は双方向とは限らず、中には一方通行のものも含まれる。

 

 

才能や努力や運やお金を持ってるという自覚のある人が密かに恐れているのが、『いつまでもあると思うな』や下剋上。

 

突然のひっくり返しは、人間相手あるいは人為性に起因するとは限らない。

 

自然災害やそれを超えた天変地異もある。

 

前提条件が変われば持ってることが重荷になることもありうる。

 

 

日常の関心事のベクトルの反対側をセットで意識しておくことは新鮮な刺激になるだろう。

 

持ってないと思っていたが、持っていたと気づけるかもしれない。

 

持ってるけどそのことにありがたさを感じてない中にはきっとお宝の一つや二つはあるかもしれない。

マウント合戦から下りるという選択

人間は比較する生き物。

 

絶対性よりも相対性を気にしてばかり。

 

比較して相対的に上に位置してると分かれば優越感を感じ、下だと分かれば劣等感を感じる、という人が多い。

 

それがモチベーションになるという場合もあるが、結局達観できないと同じことばかりを繰り返す。

 

自分が持ってる良い部分には目を向けず、他人より上回ってることを求めたがる。

 

だからマウント合戦に夢中になる。

 

マウント合戦に夢中になると、勝っても負けても『楽しい』が遠ざかる。

 

他人からは分かりづらいかもしれないが、勝った負けたに夢中な人の心は結構虚しいものだ。

 

しかし、これは達観できないと卒業できない。

 

あの大谷翔平ですら自身の成績やパフォーマンスよりも優勝を求めていると言われるくらいだ。

 

 

 

楽しめてる場合の競争相手は自分自身。

 

自分が属する環境や人間関係に対する処世術としてマウント合戦に参加せざるを得ない場合もあるだろうが、だからこそ心の中に達観が必要になる。

 

他人と競争してるのはあくまでもフリで、競争は自分としかしないと。

 

 

だからこそ大谷翔平が来年どのチームでプレーするかには注目している。

 

一部では根強くエンゼルスに残るのではといまだに言われているが。

 

正義を振りかざすという娯楽

『正しいことをやりたければ偉くなれ』、某刑事ドラマで有名になったセリフであり、多くの人の納得と共感を得た、21世紀が目前の20世紀の話だ。

 

2010年代に入り、一般大衆が情報発信の術を手に入れると、『正義を振りかざす』というのは娯楽のジャンルに成り下がった。

 

正しいことをやりたいが偉くなれない人や、偉くなることを諦めたり偉くなることから脱落した人ほど正義を振りかざすことに魅了されるようになった。

 

虎の威を借る狐の虎とは一般的には強者のことだが、強者を抽象化すると正義になる、個人が情報発信の術を得たことで、剣より強いペンを振り回しているのだ。

 

 

つまり、正義の威を借る人間界の狐がデジタルのペンを駆使して娯楽を楽しむ姿が、偉くなれない現代人の正体なのかもしれない。

 

正義の裏付けは法律が担保する。

 

一般的に法律家は偉い人に分類されるが、その大元となる法律は全ての人がタダで使えるインフラでもある。

 

つまり、正義の振りかざしはタダで使える法律を駆使してるかのような錯覚の上に成り立つ娯楽になり得る。

 

 

正義を振りかざす人は法律家になりたかったけどなれなかった人と分かると、正義を振りかざすことをやめようと思えるかもしれない。

 

だって恥ずかしいから。