違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

指標は誤解や勘違いの元

現代の病気は症状が先にあるのではなく、病名が先に命名されることで患者がわらわらと湧いてくるという仕組みになっているものが多い。

 

同様なことはあらゆる分野にある。

 

病名に相当するのが指標

 

指標のほとんどは業界の専門用語で狭い意味合いしか持たないが、指標の虜になる人は多い。

 

偏差値なんていうのは指標の代表格だ。

 

指標が一旦共通項として認識されると、価値観の共有が成立するようになる。

 

価値観の共有が成り立つと同調圧力も成り立ちやすくなる。

 

 

つまり、指標あるところに同調圧力ありとなりがち。

 

 

自分に課される同調圧力が重苦しい場合は、その背後にあるはずの指標が何かを理解しよう。

 

指標が何かが分かると、打つ手や逃げ道も見えるかもしれない。

 

また、その指標の由来などもついでに理解できると、どうでもいいことに振り回されていることも理解できるだろう。

定義が曖昧なことは自分で定義するしかない

元々は、そんなに大層な意味ではなかったはずのことが今ではとんでもなく高いハードルになってるということがある。

 

1948年に発効されたWHO憲章では、前文において「健康」は次のように定義されている。

 

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」

 

 

日本国憲法では次のように定められている。

 

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

 

これは日本国民の権利であり日本国が国民に負う義務だが、文化的に最低限度の生活はきちんと定義されてない。

 

だから解釈の幅が大きくなる。

 

WHO憲章が定める健康を満たす人はどの位いるのだろうか?

 

WHO憲章が発効されたのは1948年、日本国憲法の施行は1947年。

 

健康が寿命の長さを尺度にできるならば、健康は向上したことになるが、定義に照らし合わせると果たしてどうなのか。

 

 

定義されてることが有効性を発揮するためには必要な細部項目が体系付けられることがセットで必要になる。

 

しかし、細部項目の体系付けなんて統一的な解釈が成り立たない以上個人個人で対処するしかないのだ。

 

ある意味達観と同じだ。

 

現実社会で達観を手に入れるためには諦めるのは何かを理解することであるとともに、引き際の鮮やかさの実現とセットになる。

 

健康で最低限度の生活をクリアできてる人は、何もかも満たされてる人では決してない。

 

 

欲しがってばかりの人は最低限度のハードルを上げてるだけかもしれない、そしてその結果最低限のラインを満たせてないとすれば滑稽な本末転倒だ。

 

 

しかし、現実社会ではそう思いながら達観から遠ざかるという選択をする人が後を絶たない。

寂しさゾンビが愛国者になる

まさにタイトル通りのことをTwitterに教えてもらった。

 

朝起きて次のツイートを見て百聞は一見にしかずだなと思った。

 

 

 

 

このツイートのリプライにはさまざまな表情の愛国者と括られる人たちの写真が出てくる。

 

主義主張を文言にして読むよりも100倍インパクトがある。

 

まさに百聞は一見にしかずだ。

 

 

 

 

改めて『愛国』をキーワードにTwitterを検索すると、目から鱗の名言が見つかった。

 

 

 

「愛国はパンツのようなものでみんな履いているが、もし頭にかぶって注目されようとする人が現れると、その人は必ず問題がある」

 

 

複雑に見える事象の多くがこの簡単な文章によって見事に解き明かされている。

 

上記で紹介したツイートのリプライを見てるとさらに分かるのが愛国とは、することがない人が何かをキッカケに感化されるものだということ。

 

 

度が過ぎると暴力的で破壊的な振る舞いにつながるが、その根底にあるのは寂しさや虚しさで祖国を愛する気持ちはほぼ無関係。

 

しかし、自分は愛国者だという自意識だけは増幅する一方。

 

寂しさゾンビなのだ。

 

噛まれると噛まれた人もゾンビになる。

 

日本だけではない現象らしい。

 

どっしり構えて動かないというガラパゴス

新しいものが登場しては消えて行くを繰り返す。

 

新しいものは、好きで飛びつく人以外にとっては違和感がある。

 

それゆえに、普及の推移を見守りながら自分が参入するタイミングを図る。

 

パソコンなんか嫌だ、携帯電話(ガラケー)なんか嫌だと逃げてた人もスマホだけは受け容れざるを得なくなってる人が多いだろう。

 

スマホが特別な存在になったのは便利だからというだけではなく、いろいろな社会との接点が紐づけられるからだ。

 

マイナンバーカードの普及もマイナポイントという餌に釣られてと言われるが、それ以上にマイナポイントが撒かれてる時期を過ぎて持ってないと、社会から取り残された人種になるという危機感の方が大きかったことだろう。

 

人が行動する際の動機には見せかけの動機と真の動機があり、人それぞれに使い分けているはず。

 

資本主義&自由経済が中心の現代では、新しいものを出すことでしか世の中は回らない。

 

新しいものは前のものより良いあるいは素晴らしいという前提が必要になる。

 

つまり前提条件も新しく変化やシフトする。

 

 

 

インターネットはコミュニティの定義(=前提)を大変化させた。

 

その変化は良い面もあれば悪い面もあったはず。

 

一言で言うと出会いの質が変貌したこと。

 

それは、従来のコミュニティしかない時代だと決して出会わない人や出会えない人との接点が容易にできるようになったことだ。

 

 

悪い面で言うと、トラブルや犯罪の質が大きく変化した。

 

 

これから出てくる新しいものの中のごく一部だけが世の中を大きく変化させるはず。

 

 

もうすでに変化は起きているのかもしれない。

 

変化には、自分の変化と自分以外の変化がある。

 

変化が楽しめない場合の変化の多くは自分以外の変化だ、自分ではどうしようもないから。

 

 

動かざること山の如し、日本ではこういう表現が有り難がられることも変化を受け容れたくない心理に影響するのかもしれない。

 

 

どっしり構えて動かない人とは、最後まで取り残される人かもしれない。

 

大谷翔平さんの妻の好感度が高い理由

今日になって大谷翔平さんの奥さんの写真が公式に公開された。

 

さまざまな意見があるがどれも好感度の高さで彩られたものばかりだ。

 

妬みや僻みや嫉妬を持ってる人がいたとしても今回ばかりは恥ずかしくdisることはできないだろう。

 

他人の評価は外見から始まるのは当然。

 

顔立ちスタイルファッション、これらが渾然一体となって印象を決定づける。

 

 

女子アナ風でもなければ港区女子とも全く違う、ジャージにスニーカーという姿は一歩間違うと街のチンピラ感が漂うが、スポーティな爽やかさだけを感じさせるものだったことがすべての人に好感を与えただろう。

 

苦々しく思うとすれば、今回の写真公開を儲けのネタにできない人種だけだろう。

 

今後コラージュ写真など出るかもしれないが、それらは世間の興醒めしか誘えないことは間違いない。

 

コンプレックスなどと無縁な生き方をしてる人には承認欲求など無いという証明でもあるだろう。

 

普通であることが何よりも特別感を感じさせる、そんなところが予想に違わぬ好感度の高さなのだ。

 

上がるか暴落か?

そもそもの原点としてとしての由来に遡ると結構いい加減なのがバレンタインデー。

 

そのバレンタインデーと対をなす存在とされるのがホワイトデーで、こちらの由来はバレンタインデー以上にいい加減だ。

 

 

そして、日本人が語るバレンタインデーもホワイトデーも横文字だけど世界に通用しないガラパゴス。

 

 

今日はホワイトデー。

 

 

Twitterでおもしろい画像を拾った。

 

 

今日の出来事ではなさそうだが。

 

 

どう考えてもバレンタインデーのついでに生まれたのがホワイトデーだと思うが、検索レベルだとGoogleが誕生して以降はホワイトデーの方が活発だった。

 

 



 

バレンタインデーの義理チョコが女性にストレスを与えているのはどうでも良い相手むしろ嫌いな相手にすらプレゼントしなければいけないことなのに対して、ホワイトデーの検索が多いのは、バレンタインデーでチョコを受け取った男性がお返しをどうすれば良いのかをプレッシャーに感じてるからかもしれない。

 

バレンタインデーには義理チョコでも欲しがるくせに、そのお返しはたぶんしたくないのだろう

 

今日の振る舞い方で大きく株を上げるのか、はたまた大暴落するのか、どうでも良いことだが男性にとっては悲喜交々だ。

静かな下剋上が起きてる?

鳥山明さんの訃報を嘆く声の中に、

 

『改めてマンガを読み直して唸るのは説明的なセリフやナレーションは僅かで、ほぼキャラ同士の自然な会話と絵だけで物語が進行している事。これこそが世界中で受け入れられているシンプルな理由なんでしょうね』

 

というものがあった。

 

マンガを描くという世界にもAIは進出するのだろうが、絵の上手さや描くスピードの速さの向上は容易に想像がつくが、それが上記のようなマンガトータルでのおもしろさにつながるかはもう少し遠そうな気がする。

 

同じことはブログにだって当てはまるはず。

 

どのような目的であれ書く人にとっては意義があるだろうが、AIが書くのに比べてより価値がある、あるいはおもしろいということが問われるようになると読み手にとってブログというジャンルは需要はあってもジャンクになるだけかもしれない。

 

最近の生活の身近にあるAIは生成AI。

 

元々は裏方のバックグラウンドで動作するのがAIだったが、生成AIになったことで従来の検索に置き換わる存在として個性はおとなしいが自己主張するようになっている。

 

従来の検索では、検索の前に興味ある対象を理解し、何を知りたいかを自分なりに言語化しなければそもそも検索に辿り着けない。

 

そしてさらに検索結果の内容も自分で吟味し、求めていたものかを判断しなければいけない。

 

検索の中にはSNSも含まれる。

 

ここまでやっても検索結果が期待に応えてくれないことは少なくない。

 

生成AIは従来の検索の不満やストレスを低減させると感じてる人はもはや検索は基本や基礎的な疑問か趣味の領域かゴシップ探しにしか使えないと感じるだろうし、生成AIを使わない人はそのような変化が起きていることにも気付かないだけかもしれない。

 

 

『次』を模索する時は現状の理解が必要になる。

 

現状の理解と『次』の間にあるギャップを埋めるために必要になるのが分析。

 

分析というジャンルはさまざまな呼び名でもてはやされる傾向が強いが、情報やデータの意味合いが変化している現代では同じ情報やデータを入手していても正しく的を射るように解釈できているとは限らない。

 

なんとなく静かな下剋上が起きてるような気がすると思うと自分には関係ないけどワクワクする。