違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

消費者だらけの時代

得たいものを効率的に得る、得たいものは何でも構わない、モノであろうと知識であろうと能力であろうとお金であろうと、これが現代の消費者だ。

 

時には経験することなしに経験を手に入れたいとすら望むだろう。

 

では、消費者の対義語は何になるだろうか?

 

辞書的には生産者となる、クリエイターなんていうのも含まれるのだろう。

 

ちなみに消費の対義語はというと生産以外に貯蓄などもあるので、消費者の対義には得たものを自分一人で貯め込むという行為全般を行う人も含まれそう。

 

生産と貯め込むに似たニュアンスは感じないがきっと似てるのだろう。

 

 

生成AIがあらゆる分野で活用されるようになると不思議な逆転現象が感じられるようになった。

 

AIを活用して何かを生産してる人の一部は、生産者やクリエイターと言うよりもAIの消費者にしか見えない場合が増えた。

 

『だって、作ってるのはAIであってあんたじゃないだろう』としか思えないからだ。

 

もっとも生産の現場ではOEMという外注が昔からあったので、AIに外注してると言えば同列かもしれないが、なぜかそれをやってる人を生産者やクリエイターと呼ぶことには抵抗を感じる。

 

 

生成AIが作った音楽を、しかもボーカル付きで、そうだとは知らずに「なんて良い曲だ」と気に入ったのに、それがAIが作った曲だと分かると「こんなのを好きになるとキリがなくなる」と冷めた体験があるからだ。

 

もともと生産の現場につきものだったのがパクリやコピー。

 

昔だったら、それはそれなりに高度な能力が必要とされていたが、コピーがより簡単なコピペで可能になると、要求されるのは生産やクリエイトの能力ではなく盗みのそれになる。

 

つまり、現代からは生産者やクリエイターは消える一方で、さまざまなタイプの消費者に移っているのだ。

 

 

 

現代で生産者やクリエイターと呼べるのは、世界的に著名なイノベーター以外だと、小規模な愚直な生産に携わっている人だけだろう。

 

 

逆にいうと、実質的には何も作ってない人が生産者やクリエイターを自称できるし、また評価されることすら珍しくない。

 

 

昔だったら、誰かが何かを作ることから始まるのが当たり前だったが、現代は実質的には誰も何も作ってないのに世の中が回るようになっている。

 

改めて考えると不思議だが、これこそが進歩なのかもしれない。

 

 

さて、消費者ばかりになった現代だが、そんな消費者は次はどこに向かうのだろうか?

 

人は見た目がすべて

まともな人だったら誰もが思っているのがタイトル通りのこと。

 

そんなことは、まともではない側を客として扱うビジネスを展開してる人も感じてるようだ。

 

 

 

 

主は「タトゥー入れてる奴は全員バカです」と言いながらも、「1%はちゃんとしている」と言っていて、自分は1%の側だと思いたいとも語っている。

 

 

このツイートへのリプライにはタトゥー入れてる奴と同類としていろんな種類の人間が挙げられている。

 

どんな分野の人であろうと心の中ではバカだとは思われたくないはず、そんな流れはビートたけしさんの全盛時代に生まれたような気がする。

 

ビートたけしさんのおかげでバカほどみっともない者はない、そんな価値観が広まった。

 

しかし、バカが一朝一夕にバカから抜け出せるわけではない。

 

その結果身につくのは、屁理屈や揚げ足取りで論を展開する言葉の勢いだけの論破合戦。

 

こういう流れは漫才やお笑いの世界で大流行し、世間でも流行ったが、一旦飽きられると落ちていくばかりになる、教祖であるビートたけしさんはいち早くそういう場から逃げ出したが、いつまでもその流れにしがみついてビッグネームになったお笑い界の石橋貴明や松本人志が失脚したのは一周も二周も回って「こいつらただのバカだった」と気付かれたせいだと思っている。

 

 

タトゥー以外の見た目の代表格はヘアスタイルや髭や服装だが、重要なものに生き方が如実に現れるものとして目つきや表情や仕草がある、それらを総合すると見た目は人物判断において重要な指標となる。

 

 

外見で差別はいけないと言うが、その場合の外見とは好きでなったわけではないあるいは選んでなったわけではない障害によって生じたような特徴的な外見に関してだ。

 

 

外見で得を得られる人は羨ましい限りで誰にでもできることではないが、誰にでもできるのは外見で損をしないようにすることだ、少なくとも損をしないように意識して行動する、表面的な自由が拡大してる現代だからこそ大事になる。

 

 

『〇〇パ』の真実

費用対効果を意味するのがコスパ。

 

時間対効果を意味するのがタイパ。

 

末尾の『パ』はパフォーマンスを意味し、コストや時間をかけた結果としてどのようなパフォーマンスを得たかあるいは発揮できたかを問割れるということを示している。

 

コスパ、タイパに限らず、『〇〇パ』は基本的な心理状態が共通するので次から次に新しいものが生まれても何の不思議もない。

 

 

その共通する心理とは、失敗しないことであり試行錯誤を無駄だと評価する心理だ。

 

なぜそうなるか?

 

純粋に自分自身が求めてるわけではないという人が大半のはずだから。

 

家庭や学校や職場やチームその他あらゆる人間関係が生じてる自分が属する環境から受ける圧力(期待等も含む)やその圧力に対する忖度(勝手な自意識過剰や被害妄想を含む)が働くから、パフォーマンスに取り憑かれるのだ。

 

現代人には表面的には自由が与えられ保証されている、しかしながらそこに『〇〇パ』が介入すると心の余裕が奪われる。

 

心に余裕がなければ、自由は自由として機能しない。

 

 

概念としての自由を求めながらも、予定を詰め込むことに余念が無かったり、勝手に予定をどんどん詰め込まれるような環境にいる人が少なくないからかもしれない。

 

こういう風に書くと、ブラックと思われがちだが、決してブラックではなくても、いやむしろホワイトであっても心理的な余裕が奪われる環境は現代には少なくないのかもしれない。

 

それが『パ(パフォーマンス)』に対するプレッシャーの魔力。

 

 

努力や頑張りで他を圧倒できればベストだが、その選択肢は最初から放棄してる人がほぼ全てになると、周りの人と遜色がないことを良しとするようになるはず。

 

そうなると生成AIはとても役に立つ。

 

生成AIを活用してより高みを目指すわけではなく、生成AIを使ってれば大きな差はつかないと思い込めることで安心が得られる、という消極的な意味で役に立つのだ。

 

 

賢いつもりでコスパやタイパを常に意識してる人は、実はかなり精神的に追い詰められてると言えるかもしれない。

 

 

曖昧になるツキとツケの境界

次の話はアメリカでの話。

 

しかし、日本にだって当てはまるはず。

 

 

株式投資、若年男性の自信喪失の原因に-6割超が「人生の敗者」自認

 

 

この記事に書いてある、キーワードとなりそうなのが次の一文だと思う、たぶん年齢は関係ない。

 

 

ギャンブルと投資の境界は曖昧になっている。

 

 

 

大谷翔平さんの通訳だった水原一平さんの転落劇を思い出す。

 

 

やってることは世間一般では投資と呼ばれる行為でも取り組むスタンスはまさにギャンブルそのもの、あるいはやってることは世間一般ではギャンブルと呼ばれる行為でも取り組むスタンスはまさに投資そのもの、どちらであっても他人は結果でしか評価しない。

 

ギャンブルと投資の境界が曖昧になる理由でもある。

 

 

新しい手口の登場に加えて新しいプレイヤーの参入、新しいということには過去の教訓を踏まえたものと、過去の失敗の手口をそのまま踏襲するものの二種類がある。

 

教訓を知らない人あるいは理解できない人にとっては、新しく感じられれば新しいということになる。

 

 

過去の教訓を知ってる人あるいは得てる人からすると、繰り返される歴史は不思議にしか思えないものが多いはず。

 

 

不動産ファンド「みんなで大家さん」が約2881億円の債務超過 分配金の支払い停止めぐり出資者約2500人が集団訴訟中 運営会社を監督する大阪府が調査

年利7%の分配金を出資者に払うとうたい、3万7000人以上から2000億円を超える出資を集めました。

 

 

 

ギャンブルと投資の境界が曖昧になったことは、ツキが回って来ることとツケが回って来ることの境界も曖昧にしてるように感じる。

 

 

 

 

 

猛暑は好感度も破壊する

誰もが何となく思っているだろう事が記事になっていた。

 

 

熊本地震「現地入り」批判、藤井貴彦アナだけがなぜ…好感度が負債に変わる時、「知られざる熊本愛」も免罪符にならなかった

 

 

この記事に印象的な記述があった。

 

 

好感度は、資産のように見えて資産ではない。積み上げるのに何年もかかる一方、「その人らしくない」と受け取られた瞬間に一気に目減りする。貯金は、使い方を誤れば負債に転じる。

 

 

 

 

 

 

藤井アナだけに限った話ではない。

 

 



 

 

 

多分これまでの被災地報道でも同じことが繰り返されてるはずだが、今回の熊本地震に関連してはトーンが違う気がする。

 

 

振り返ると、たまたまに過ぎないのだろうが、現代人が認知してる地震関連の災害は冬が多かった、少なくとも被災者は寒さとも戦わなければいけないことが多かった。

 

そういう状況では、怒りや不満は身体を発熱させる正のエネルギーとして機能していたのかもしれない。

 

しかし、猛暑酷暑の環境下で、しかも水や電気すらままならない環境下では、怒りや不満の発熱要素は身心を激しく消耗させる負のエネルギーにしかならない、そういうことが明らかになった。

 

 

人類の歴史を振り返ると、生き抜くためには飢えと寒さが最大の敵と言われていたが、この2〜3年で暑さの方が寧ろ悪い意味で上のようだと思い知らされている。

 

 

猛暑酷暑の環境下では好感度なんて鬱陶しいだけなのかもしれない。

 

 

もちろん好感度が低い方が歓迎されるという意味ではない、念の為。

 

 

 

清潔格差

格差の話をしてみたい。

 

と言っても、貧富の格差や経済格差のような話ではない。

 

 

それは清潔の格差だ。

 

全くタダではできないこともあるので経済的な要素は少し絡む、しかし少しに過ぎない。

 

 

キッカケはお掃除ロボットのルンバのことを考えていてだった。

 

独自の画期的な存在だったルンバは、よってたかって他の家電メーカーも真似し始めてあっという間に陳腐化した。

 

 

我が家でもルンバを使ったことがある、ジャパネットたかたが扱ってる一番安いやつを。

 

家族曰く、結構埃の類がたくさん取れると評価していたが3年くらいで壊れた。

 

その後ルンバが欲しいかというとそうはならず、むしろコードレスのハンディタイプの掃除機の方が便利だと思い購入した、これもまたジャパネットたかたで。

 

もちろん、普通の掃除機もあるのだが出番は大きく減った。

 

 

どこかの誰かが言っているのを聞いたことがある、「ルンバで綺麗になったと感じる家はもともと汚れてはいない」と。

 

学生時代などの一人暮らしの自分の生活を思い出して、「そりゃそうだ」と思った、掃除のしようがないほどの部屋だと掃除の前に片付けが必要になる、それもかなり本腰を入れての。

 

そもそもの片付けができないから掃除のしようがない人にとっては、部屋はルンバが走るスペースすらないはず、結果的に掃除をすることに価値を感じなくなる、来客があるときに慌てるが押し入れの中に全て放り込むだけだ。

 

 

そういうことを思っていると、これまた思い出したのがホームセンターや百均には多種多様な片付けグッズやお掃除グッズがあるなということ。

 

売れない商品なんてすぐに廃番になる世界だから、ラインナップされてるということは売れてるということだ。

 

大してコストをかけることなく日常的に片付けやお掃除にエネルギーを注いでいる人とそうではない人の間に生じている格差なんて誰も意識しないかもしれないが、実はびっくりするほどの格差だと思う。

 

 

これらはただの片付けや掃除の格差にとどまらず清潔格差につながる。

 

 

自分で自分を不潔だと自覚してる人は論外として、自分のことを普通だと信じてるが、周りから不潔寄りの人だと思われてる人は実は多いのかもしれない。

 

 

猛暑でエアコンだけが頼りなのに、フィルターすら掃除しないそしてその程度の理由でエアコンをおかしくしてしまう人が少なくないという話すら聞こえてくると、清潔格差は命の問題にすらなるのだ。

 

 

なお、ここで言ってる清潔とは、ごく普通の片付けや掃除のレベルのことであって病的な不潔恐怖症のようなことではない。

 

 

掃除や片付けのことを考えるだけでストレスを感じる人は、実は不潔寄りかもしれない。

 

 

資産はストレス

断捨離というワードが流行ったのは2009年、その名を冠した本がヒットしたから。

 

 

 

 

断捨離とはヨガの用語でウィキペディアには次のように載っている。

 

断:新たに手に入りそうな不要なものを断る

 

捨:家にずっとある不要な物を捨てる。

 

離:物への執着から離れる。

 

 

 

先日、『徹子の部屋』に出ていた磯野貴理子さんを見た。

 

脳梗塞の経験者でもある磯野貴理子さんは、60歳を迎えて終活を意識するようになり、洗濯機を使わない生活を始めたらしい、きっかけは洗濯機が壊れたからだが、一人暮らしだと手洗いで十分だと気づいたからで、大物の洗濯が必要ならばコインランドリーを使えば良いと気づいたから、と言っていた。

 

さらに、直接の関係は無いのだが、終活を意識するようになった頃から鳥を愛でることを覚えて、囀りを楽しんだり、鳥を探すための旅行や写真撮影を楽しむようになり、結果として山歩きも好きになり、人生で今が一番楽しいとも言っていた。

 

 

 

歴史家の中には人類の歴史は蒐集の歴史という人もいる。

 

そのせいか、モノに執着する人は多い。

 

モノを資産と呼ぶといかにも現代風になる。

 

資産家には二種類ある、一つは現金もしくは換金流動性の高い資産しか評価しない人と、もう一つは高価であればあるいは世間の評価が高ければ何にでも関心をそそられるタイプ。

 

賢い資産家はもちろん前者で、そういう人はお世辞やおべんしゃらを嫌う、一方で後者は褒められたり持ち上げられることが大好き。

 

 

様々な分野で転売やオークションが盛んなのは、世間にモノという資産が溢れていてかつそれらを欲しがる人が次々と湧いてくるからこそなのは言うまでもない。

 

 

断捨離というワードが世間に浸透して15年を超え、静かにしかし確実にモノとしての資産に対する評価が大きく分かれ始めたように感じる。

 

 

ただ単に所有するのはストレスだと気付く人が増えている。

 

欲しいという気持ちだけで飛びつくことは愚かだと気付いた人は、本当に必要かというハードルを自らに課す。

 

現代の投資ブームの背景には、お金以外あるいは換金流動性の高い資産以外は価値がないと気付いた人が多いという事情があるはず。

 

ただ、投資で成功した人の中にはモノとしての資産に目覚める人が少なくないのは、ある意味歴史は繰り返すでもあるだろう。

 

 

蒐集欲は煩悩の中でも強力なのだろう、だから取り憑かれるとなかなか抜け出せない、抜け出せる人には少しばかり不幸なあるいは残念な現実が必要かもしれないが、新しい価値観に目覚めるときには必ず必要になるプロセスでもある。

 

 

猛暑だから余計にそう感じる。