違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

扇状地の呪い

ずっと昔の話、記憶の中では小学生の頃の話だが、もしかしたら中学生の頃だったかもしれない。

 

社会の授業で教わった扇状地の話。

 

山間を抜けた急流の川が平地に入ると川沿いに扇状の地形が形成される、それが扇状地。

 

そういう地形では、川の氾濫がしばしば起きるので住宅には不向きで果樹園が向いていると教わった。

 

川が氾濫した年の収穫は落ちるが、氾濫によって上流の肥沃な土が運ばれるので翌年以降の収穫量は増えると教わった記憶がある。

 

子供心に共存共栄が感じられた。

 

この扇状地の話だけが妙に記憶に強く、一度じっくりと扇状地を見てみたいと思いながら数十年が経過したがいまだになるほどこれが扇状地かと思うような土地を目の当たりにしたことはない。

 

正確には、こういうところが本来は扇状地なんだろうなと思う地形には何度も出くわしたが、脳内イメージの扇状地と重なるものはなかった。

 

理由は簡単で、どこもかしこも川の拡幅改修と護岸工事が施され川沿いの地域にはどんどん住宅が増えるようになったからだ。

 

当然ながら川沿いの果樹園も小規模なものしか見たことはない。

 

 

記憶はいまだに鮮明なのに、それに合致する映像体験が伴ってないのだ。

 

 

それから数十年経って大雨による災害が各地で起きるようになって、扇状地の呪いを感じるようになった。

 

果樹園にするのは良いが住宅を作ってはいけない扇状地を征服しようとしたが、その作戦は失敗だったと感じるのだ。

 

狭い国土に核家族化や単身世帯の推進で起きた世帯数の激増のために宅地需要が急増したことや果樹園がそれほど必要とされない産業構造の変化なども大いに関係しての結果だが、住宅には不向きな土地に多数の住宅が存在してるのだ。

 

山形を中心とする東北で大雨被害が出てる、東北の人には大雨の被害なんて九州や西日本の話だと思っていたかもしれないが、わたしに言わせれば扇状地の呪いだ。

 

扇状地が怒っているように感じる。

 

共存共栄の契りを一方的に反故にされた扇状地が怒っているように感じる。

 

 

昔小学校や中学校で教えていた扇状地の話を覚えてる人はどのくらいいるのだろうか?

 

最近の子供はもはや扇状地なんて教わってないかもしれないし、教わってもピンと来なくて当然なのかもしれない。

タフさはカネで買えない

作家レイモンド・チャンドラーが主人公の私立探偵フィリップ・マーロウに言わせた名言が、

 

タフでなければ生きて行けない。

優しくなれなければ生きている資格がない。

 

レイモンド・チャンドラーは1959年に70歳で他界してるのでこのセリフは60年以上前のものになる。

 

1970年代の日本映画のキャッチコピーで有名だった『狼は生きろ豚は死ね』は1960年の石原慎太郎の戯曲に由来するらしい。

 

1989年の栄養ドリンクのCMで一世を風靡したキャッチコピーが『24時間戦えますか』。

 

 

これらのことばは主に男性に向けられたもので、日本でも世界でも男はタフで強いことが求められていたし、当時の人々はそのことに同意こそすれ違和感を感じることなどなかった。

 

その一方で映画『男はつらいよ』も大ヒットシリーズだったことを考えると、タフでありたいと思いながらもそうではない自分自身とのギャップも大きな隠れテーマだったのだ。

 

タフであることを露骨に要求されるとそれはハラスメントだが、タフでないことが歓迎されないのはいつの時代でも同じだ。

 

現在プロ野球界ではタフではないある選手が虚弱体質と話題になっている。

 

悩ましいのは虚弱体質なのに実力は超一級なのだ。

 

そしてこともあろうかタフさの極みが要求されるメジャーリーグを目指している。

 

これらのことが相まって野球が好きな人もそうでない人も含めて世間がざわついている。

 

 

『狼は生きろ豚は死ね』と書いた石原慎太郎の弟裕次郎は映画俳優としてさまざまな作品でタフガイを演じていたが、残念ながらその人生はタフガイとは言えなかった。

 

タフな人は間違いなく健康だろうが、健康であればタフなわけではない。

 

健康というだけでは虚弱体質も含むからだ。

 

夏真っ盛りの日本だが、日本の夏は大きく変わった。

 

今の日本の夏をやり過ごすためには強靭なタフさが必要になった、タフさに自信がなければ冷房に縋れというくらい夏が変化した。

 

タフな生き方のために必要なことはと考えて、その答えが筋トレに行き着くような人はきっとタフな生き方はできないだろう。

 

タフに生きるとは何か?

 

カネでタフさは買えないなと思うと、一人ひとりが自分なりに定義する必要があるテーマのはず。

 

 

誤字や変換ミスという撒き餌

SNSやチャットアプリでのコミュニケーションが増えた結果、誤字や変換ミスなのかそれとも深い意味を秘めてるのか、余計なことを考える必要が増えている。

 

面白い記事があった、いや記事そのものは全く面白くないのだが。

 

ドラマは降ろされ、役所辞めろと言われ…窓辺に腰掛け、月を見ながら「俺は情けねえな」と呟いた(石田純一)  7/24(水)

 

 

見出しに含まれる役所が妙に気になって読んでしまった。

 

読むと役所は役者の誤変換だと分かり「ああ、やられたな」と思いながら、コメント欄に目を通すと、コメントを書いてる人の多くが役所に惹かれて記事を読んで怒りを感じていることが伝わった。

 

役所に惹かれた人は若い頃の石田純一さんを知る人で、「役所っていつの話だろう」と惹かれたのだ、石田純一さんへの興味や関心ではなく、自分の知識に無いことに対する興味や関心だったのだ、若くはない人に向けられた記事なのは明らか。

 

 

記事自体には何の新鮮味もなく、逆に最初から役者と書いてればおそらく記事を読む人は皆無に近かったのは間違いないはず。

 

デジタルメディアとはいえ一応既存メディアの端くれとして、校正意識は本来はきちんと持ってると思うのだが、そんなものにこだわっていたら誰にも読んでもらえない、それは困るのだ。

 

誤字や変換ミスを装った確信犯という需要はもはや隠しきれないのだ。

 

それでも新聞等の大きな看板を背負ってるところは露骨な誤字や変換ミスは許されない、その代わり意味不明な文の羅列が続くことが増えたなと感じる。

 

ことばや文が持つ意味は、字面を追うだけでは不十分な時代だ。

 

書いたことに責任を持つつもりのある人はほんの一握りしかいないのが現代だとすると、そのことばや文をどのように読み解き解釈するかは読者の責任だと覚悟する必要があるのだ。

 

昭和から平成の嘘というのはオバケや幽霊のようなものが大半だったのに対し、現代では詐欺のように信憑性を演出するのだ、その信憑性は何らの意図もない誤字や変換ミスも含まれるが、ほとんどが誤字や変換ミスを装って仕掛けているのだ。

 

まるで釣りの撒き餌のようだと感じるが、それは人間が魚のレベルに低下してることでもありそうだ。

 

 

ざまあみろ

人間は絶対性より相対性を重視すると言われる、あくまでも一般論だが。

 

テストで100点を目指すよりも、点数よりも偏差値が高いことの方を重視するように。

 

つまり、他人やライバルと思ってる人との位置関係や順位関係に一喜一憂する人が多い。

 

こういう価値観の延長線上には『ざまあみろ』が出てくる。

 

『ざまあみろ』が芽生えると、もはや相手は誰でも構わなくなる。

 

 

相手やライバルを上回るために頑張ることよりも、相手やライバルの失敗やミスを望む気持ちの方が強くなったり、さらにこの気持ちが高じると知らない人や有名人のミスや失敗にも喜びを感じるようになる。

 

自分を取り巻く環境は何も変化しないのに、失敗やミスやスキャンダルで堕ちてる人を見ると『ざまあみろ』と溜飲が下がる人が日本人にはなんと多いことか。

 

喫煙による女子体操選手のオリンピック辞退のニュースに対する賛否の反応にはどちらにも『ざまあみろ』が感じられる。

 

未成年のくせにタバコなんか喫うからだ『ざまあみろ』のほかに、オリンピック自体はこれからだがそんなことで辞退に追い込むからきっと金メダルは取れない、辞退に追い込んだ体操協会『ざまあみろ』のように。

 

相対性ばかり意識してる人は、自分が頑張って結果を掴むよりも相手やライバルが堕ちることに快感を覚える。

 

 

『ざまあみろ』と感じて気持ちがスーっとするような自分に気付いたら要注意だ。

 

そんなことで気持ちがスーっとしてるようでは他人から『ざまあみろ』と思われるような生き方しかしてないはずだ。

 

暑い

暑いということを伝えようとすると説明を始めてしまう。

 

説明するのは野暮なので、他の方法は無いかと考えるが温度計の写真を撮るなど結局説明と同じことをしようとする。

 

あまり考えずに何枚か写真を撮ってしばらく放置した後で改めて見ると、西の方向を窓から撮ったものが暑いというか夏を伝えているなと感じられた。

 

 

 

 

普通だったらジャマに感じる電線が暑さを強調するようで悪くないなと思えた。

 

 

あるようで無いのがオリジナリティ

オリジナルには二つの意味がある。

 

①独自の、自分だけの

 

②(作られた当時の)原型を保っている

 

どちらを意味するかは文脈や文化的な背景次第で変化するので、独自のと言う意味でオリジナルを主張すると、原型から外れてると言う意味でオリジナル性を否定されるような場合もある。

 

つまりオリジナルを主張しても意味は正反対になることがありうる。

 

 

モノに重きを置く場合には、買った当時、作られた当時の原型を忠実に保ってることが重要だろう。

 

一方、所有してる自分の意識や気持ちが重要ならば、自分らしさがそのモノに表現されてる方が重要だろう、たとえ原型から離れても。

 

 

そんなことを考えていたら、20年くらい前の話を思い出した。

 

下火になりつつあるとはいえまだまだ日本では車の改造やチューニングによってオリジナリティを主張するという行為は勢いが残っていた頃の話。

 

改造やチューニングを施すことを良しとする層は、買った時のまま手を加えず交換パーツも全て純正部品の状態で乗ることを『ノーマル』と少し小馬鹿にしていた。

 

知人を介して知人と共に日本のフェラーリ界では知る人ぞ知る大御所の方と会って話をする機会があった、なにぶん古い話なのと簡単に個人情報を晒すのは憚られる現代なので少し曖昧に表現してるが、イタリアのフェラーリ本社がオーソライズしてる方。

 

話のテーマはフェラーリの改造について。

 

教えてもらったのはイタリアのフェラーリ本社は改造されることをとても嫌い、目立つようだとあらゆる法的手段を使って圧力をかけるらしいとのこと、繰り返すが20年少し前の話。

 

それに加え市場での評価もオリジナル(新車販売当時のまま)である場合に最大化するというのが世界共通の事情でもあったのでフェラーリを改造するというモチベーションは低いというのが世界の共通認識だった。

 

この世界共通には例外が二カ国ある、それがドイツと日本だと教えてくれた、つまりその当時の日本だとフェラーリを改造するという市場は展開次第ではおもしろいかもと教えてくれた。

 

ちなみに改造されることが嫌なイタリア本社が法的に勝ち得た対策は、フェラーリ本社がフェラーリだと認めないフェラーリベースの改造車はあの有名な跳ね馬のエンブレムを使用禁止にすることができるというもの。

 

したがってイタリア本社から睨まれた改造を施されたフェラーリはオリジナルのエンブレムを作る必要に迫られるのだが、オリジナリティのために改造をしたがる層の人にとってはネガティブなことではなくむしろ武勇伝が追加されるようなものだった。

 

 

マイナーな例を上げたが、オリジナルとかオリジナリティというのは深く突っ込んで話をしないとどちらの意味で使っているのかが分かりにくい場合があるし、場合によっては二つがごちゃ混ぜになってるようなことも少なくない。

 

そういう時は、オリジナリティを主張する人ほど、主張するほどのオリジナルは持っていないと判断することにしている。

 

 

右手が使えない生活

正確には原因不明な理由で現在右手が不自由。

 

手首から下が機能しない。

 

右手の甲が腫れ上がり指の関節が動かないし、ちょっとした動きで痛みもでる。

 

ざっと時系列で振り返ると、先週の土曜日に庭木の剪定をしたが、水分は補給してたつもりだが脱水をおこしていたかもしれない。

 

これがきっかけであることはほぼ明らかだと感じてる。

 

症状は一気には進まなかったが、手の甲の血管が徐々に腫れに埋もれるようになった。

 

水曜日には3ヶ月毎に受けてる検診があったが、この時には人差し指が完全に腫れで動かせなくなっていた、痛みもあるのだがこの時点では今が症状のピークだろうなと感じていた。

 

検診では毎回血液検査と尿検査をしてるが白血球だけがいつもよりすごく増えていた。

 

先生に右手のことを伝えると白血球の増加には合点がいったようだが、私が右手の酷使を疑っていたのに対して、「虫にでも刺されたんですかね?」と言っていた。

 

もし脱水が関係してるとすれば私の中にはもう一つの可能性が浮かんでいた。

 

 

通常足に出る痛風が手の酷使と相まって右手に出たのかもとも。

 

木曜日になると一層悪化し右手の甲はパンパンに腫れ上がり、手首も動かなくなった。

 

これは痛風だなと思うようになった。

 

20年くらい前に足に患った痛風と同じなら思ったより長期戦になるかもしれない。

 

金曜になっても症状は全く同じ。

 

そして今日、すっかりブログを書いてないことすら忘れていた。

 

普段だったら世間のお騒がせネタは好きなのだが、今はまるで興味がない。

 

とりあえず何か書こうとするなら、最近の自分のことを振り返るだけだと思い書いている。

 

パソコンで書いていて、右手はキー操作程度であれば使えるが、すぐにブルブルと震え出す。

 

右手が不調になっただけと思うなかれ、ポジティブな気持ちもすごく薄くなるのだ、普通に身体が機能することがいかにありがたいか、こう思うのは一度や二度ではないはずだが今また改めて痛感してる。

 

今は時間の問題で回復できることに疑問を持ってないが、そう思えるうちは幸せだなと感じてる。