違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

日本人は脳を過大評価しすぎ

海外で出版された本の翻訳バージョンを出す時に、原題に""という単語が入って無くても、内容が少しでも脳に関連しそうな要素があれば、例えば心を扱ったり不思議な体験を扱ったりする場合には、タイトルに""を入れると売れ行きが良くなるというジンクスが出版業界にあるという話を聞いたことがある。

 

そう言われてみれば、テレビを見ると脳科学者を名乗る人はけっこう出ている。

 

雑学やクロスワードやパズルのような暇つぶしジャンルは、こぞって"脳トレ"とタイトルに入っていたりする。

 

脳が過大評価される時代はいつから始まったのだろうか。

 

「足で稼げ」、仕事は楽じゃないという意味で「学問に王道なし」のように言われていた頃がある。

 

毛色の違う仕事としては刑事なんかにも使われる言葉だ。

 

足が重視されていたのが、気がついたら脳を重視するようになっていた。

 

今になって振り返るとインターネットの普及が影響してる気がする。

 

そう思い、有名な脳科学者をウィキペディアで見てみると、インターネットも影響してるが、それ以上にゲームが関係してるように見える。

 

ゲーム好きの人が夢中になるように、つまりゲーム中毒を起こすように作られたゲームの背後に脳科学者のアドバイスがあったのだ。

 

またオウム真理教事件などの影響もあり、宗教が引き起こす洗脳やマインドコントロールという社会悪をビジネスに応用しようという動きも現れだした時期が重なったのが2000年前後。

 

こうして脳が注目されだした事に反比例するように、足で稼ぐという文化が衰退しだした。

 

足で稼ぐビジネスの衰退に繋がったのは、個人情報の保護が求められるようになったからであり、そうなった理由は申し込んでもいないのに家族情報を知りつくしたようなダイレクトメールが多数届くようになり気持ち悪いという声が上がり出し、既知の関係でない人と情報の交換を拒否する人が増えたからだ。

 

足で稼ぐビジネスは、最近では訪問販売というジャンルを形成し、いかがわしさと紙一重になっている。

 

ビジネス面で脳を重視するということは主に広告宣伝に関して用いられる手法で、あくまでも主従関係で言えば従だ。

 

主はビジネスの現場になる。

 

こんな話がある。

 

アマゾンではなかった…… アメリカの小売業を低迷させた2つの元凶

コネチカット大学不動産センター(Center for Real Estate)のジョン・クラップ(John Clapp)教授によると「現在、アメリカの1人あたりの小売面積は、必要量の2倍もしくは3倍にのぼる」

 

 

「何を買い、どこでお金を落とし、どのように消費するのか。消費者は、以前よりも厳しい目で判断している」特筆すべきは、消費者が「モノ」よりも「体験」を購入している点だ。

 

 

小売の世界は3つに分かれていると感じる。

 

1.都心のデパートや大規模小売店を中心とした街が形成する商圏

 

2.郊外のモールやチェーン店

 

3.地域のコンビニやスーパー

 

 

ごく一部のセレクトショップ的な存在を除けば、規模で勝負している。

 

一方、商品による差別化はあまりできないので、昔のダイエーのようになる、「何でもあるけど、欲しいものだけがない」と。

 

だから、上記はアメリカの話だが、日本にも当てはまる点は多いと感じてる。

 

誰が百貨店を殺すのか 閉店続き、市場規模36年ぶり6兆円割れ

百貨店の不振は、全体の売上高の3割を占めるアパレルの不振と表裏一体だ。「婦人服を中心としたアパレル部門は大変厳しい状況にある」(高島屋の木本茂社長)ことで、百貨店の屋台骨が揺らいでいる。

 

商習慣の代表例が「消化仕入れ」だ。百貨店はアパレル企業に売り場だけを提供し、商品も販売員もアパレル企業側の所有・契約として準備させる。その店で実際に商品が売れて初めて、後から「その商品を百貨店が仕入れた」とみなして売り上げに計上する。

 

しかし、日本では表面的な分析に留まっているようだ。

 

上記の仕入れにまつわる百貨店の特殊性は確かにあり、そのせいで販売価格が高くなるが、そういうセグメントの顧客を対象にしてるので、そのことが売れない理由ではない。

 

真の理由は、大金持ちからすると物足りない中途半端な存在で、小金持ちしか顧客にならず、それなりの客単価の新規顧客が増えなくて売上が下がるのだ。

 

〜〜〜〜余談〜〜〜〜

一旦ブログを書いた後下書き保存してる最中に上記記事の批判記事が出てるのを知り、余談として追加。

 

百貨店は「殺される」のではなく「自死」しているだけ

「百貨店で買うことが時代の最先端だった」のではなく、これまでに存在しなかった商品が百貨店に大量供給されたから、百貨店へ買いに行っただけのことである。

たしかに最先端だった部分はあるだろう。それ以外の商業施設がほとんどなかったのだから。

ここを記者も尾原氏も事実誤認しているのではないか。

 

 

実際に百貨店での催事で売り場に立っていると、意味のない名門意識を持ち、プライドだけがやたら高く、保守意識で固まった社員が数多くいることを身をもって体験できる。

あんな社員ばかりなら、そりゃ業績が低迷しても仕方がない。

 

 

この批判記事には概ね同意。

 

〜〜〜余談終わり〜〜〜

 

こう書きながら改めて気づくことがある、その昔足で販路を開拓していた時代は、客を呼び寄せる売り場がなかったからそうせざるを得なかったが、店舗という売り場に客を呼び寄せる時代になると、他の店舗との違いをアピールするために足に替わって脳が活用されるようになった。

 

そして時代が進んで今日に至った時に、日本と外国で脳の活用の仕方に違いがあることに気付く。

 

日本では、脳のエネルギーを顧客心理や売り場の展開に注いでいるように見える。

 

外国では、脳のエネルギーを新しい技術やイノベーションに注ぎ新商品や新サービスをつくることを目指しているように見える

 

この違いはどこから生じたのかを考えていて思い当たることがある。

 

勉強や研究を机の上でしてると壁にぶち当たることが発生する。

 

そんな時必要になるのが、実験やフィールドワークだ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/フィールドワーク

フィールドワークfield work)は、ある調査対象について学術研究をする際に、そのテーマに即した場所(現地)を実際に訪れ、その対象を直接観察し、関係者には聞き取り調査やアンケート調査を行い、そして現地での史料資料の採取を行うなど、学術的に客観的な成果を挙げるための調査技法である。

 

フィールドワークは、学問的に客観的な成果を求める活動であるため、自身の見聞を広めるだけのいわゆる旅行や、学問的な手法に拠らずに未開・未踏の土地の実態を明らかにするだけの冒険とは一線を画する。

 

しかし、どちらも日本の教育の中では重要視されてない。

 

してもレクリエーション的なレベルでお茶を濁して終わりだ。

 

日本で育つと、脳と足を両方活用することが身につかないかもしれない。

 

身についてる人は、自らの考えで行動したごく一部の人達だろうという気がする。

 

新規に何かを行う時、フィールドワークで得られる情報は大切な要の情報になる。

 

しかし、フィールドワークの必要がある時、日本ではおそらく外注することをためらわないケースが多いだろう(検索すると出て来る)し、そもそも得られた結果にエビデンスがあるのかという理由で行わないことも多いかもしれない。

 

フィールドワークを経験した脳と未経験の脳の違いは何だろうか?

 

AI(人工知能)を語る時、十把一絡げに同じに捉えるが、AIによってプログラムされてる内容が違うと得られる結果も違ってくるだろう。

 

フィールドワークの結果が反映されてるAIとそうでないAIの違いはどこに現れるかわからないが、脳を過大評価するとしっぺ返しを食らいそうだ。

 

人間という動物の特徴は①二足歩行②脳が発達してるだ。

 

大事なことは、脳が発達してるから二足歩行になったのではなく、二足歩行だから脳が発達したと言うことだ。

「とりあえず体を動かせ!」、そんな時代になってきた

日常生活ではあまり意識してないが、売られてる商品の多くが機械で作られている。

 

家電製品や工業製品になると原材料の入手の段階から人手の介入は最小限化されていて、手作り製品は趣味として存在するレベルだ。

 

農産物ですら機械化が視野に入れられてる時代になってきている。

 

機械が作るから、品質は安定していて、粗悪品の発生は少ない。

 

だからだろうか、そんな製品に対して感謝の気持ちはあまり起こらない。

 

だから求める価値が画一化してくる。

 

  • 最低限の質を満たしていれば安いもので良い

 

  • どんなに高価でも構わないが、相応しい希少性を持つこと

 

この2つの間には無数のグラデーションが存在するが、キーワードは価格だ。

 

いつの頃からか”オープン価格”というものが現れた。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/オープン価格

公正取引委員会によって、「15%以上の値引きが市場の 2/3以上で、20%以上の値引きが市場の 1/2以上で行われている場合は二重価格」という基準が設けられた(家電製品の二重価格問題)。

この基準に抵触しないよう、1990年頃から、電機メーカーが値崩れの激しい製品(主に生産を終了し、流通在庫のみが残る商品)に適用する事が多くなった。

 

 

 

最初に定価があるのに、安く買えることがあることを知ってしまうと、定価で買ったら”だまされた感”が強くなる。

 

価格というのは、原価を基準に介在する流通コストや人件費コストの影響を受けるという正当な理屈が働き決定されるように見えて、実は売る側と買う側の心理戦にも見えるので謎が多くなる。

 

 

落合陽一が語る、テクノロジーの進化とエンタメ市場の行方

落合:書籍の中でも“ブルーオーシャン(未開拓な市場)”の重要性を書きましたが、多様化社会が加速する今、各個人も違う方向へと進んでいくことが大切です。たとえば、液晶ディスプレイそのものを作るのはレッドオーシャン(競争の激しい市場)だけど、液晶ディスプレイを使って独自のブランド商品を展開していくことはブルーオーシャン戦略のひとつのやり方です。ひとつのパイを取り合うのではなく、パイを広げていくことを思考する。ジャンルの異なるクリエイター同士がコラボするのも、それと同じ意味を持つと思います。

 

落合陽一が語っているのは、モノは同じでも販売価格帯が変われば顧客セグメントが変わるので客の食い合いをしないということだろう。

 

そんな発言を受けるかのように下記のニュースが出た。

 

 

ドンキ4Kテレビ瞬速完売で家電メーカーが恐れるビジネスモデル崩壊

PBは小売りにとっては客寄せの目玉商品の扱いとなるため、メーカーとは全く異なる価格帯で製品を出すことができる。ようやく事業黒字化の糸口を探し当てた大手電機メーカーにとっては、先行き不安の材料が一つ増えたことは間違いない。

 

見出しの捉え方は、落合陽一の考えとは違い、市場の食い合いが発生してると捉えている。

 

どちらの見立てが正しいかは現時点では結果が出てない。

 

ドンキの4Kテレビを買った人は、セグメント的に4Kテレビを家電量販店で買う層ではないだろう。

 

問題は、家電量販店で4Kテレビを買う層の人の目にドンキの4Kテレビがどう映ってるかだ。

 

おそらく安かろう悪かろうを期待してるだろうが、残念ながら品質が悪いから価格差があるわけではない、いくつかの機能を除外し原価を下げ、流通の見直しで下げたコストが価格差なのだ。

 

除外された機能が必要な人やブランド名が気になる人以外は、自分の属するセグメントを変える可能性が大だ。

 

このように価格を気にしながら合理的な理由も求める価値観をコストパフォーマンスという。

 

コストパフォーマンスを求める人は、得やおまけを求めがちだ。

 

 

不正出品が相次ぐメルカリは「ソープランド型ビジネス」だ

「ソープランドで“本番行為”をしても違法にならないのは、たまたまお風呂に入りに行ったら、そこで女性と出会って恋をしてセックスをしたという“設定”になっているから。『そんな馬鹿な』と思うような無理矢理な設定が抜け道としてまかり通っていますよね」

 

ちなみに、ソープランドではソープ嬢は個人事業主という立場になっている。ソープ嬢が店側に雇われているとなると、管理売春となり店側が摘発されてしまうからだ。店側はあくまでも場所の提供だけで、一連のサービスは個人事業主である女性の判断により行われているという設定だ。

 

インターネットの普及が顕在化させたのは、以前は地下に潜っていた市場だ。

 

インターネットの普及前には見えなかった世界が見えるようになったので、ビジネスの多様性が拡大しているように見えるが、実際には落とし穴が増えているのだ。

 

今新たに顕在化している市場は、コストパフォーマンスを求める心にアピールすることを目指している。

 

一見間違っているようには思えないコストパフォーマンスを求める気持ちの行き場をどこに持っていけば良いのだろうか?

 

落合陽一はこんなことも言っている。

 

落合:機械との差別化という意味でも、今後は外れ値のような行動を取れる人が優秀とされていくでしょう。ただ、他人と違うことをするのは非常にリスキーなので、そのリスクを取れるだけのモチベーションを持っている人が、時代に求められるのではないでしょうか。

 

 

コストパフォーマンスを求めるというのは、積極的なように見えても受け身の行動だ。

 

機械との対比で人間を捉えると、人間の行き着く先は身体性になる。

 

合理性を求めると汗をかくことを嫌がるようになり、体を動かさなくなる。

 

一方、体を使った行動は、すべて能動的になる。

 

体を使うことに活路を見出す時代になってきた。

生きてるだけで複数のポジションを持ってる

生きてる人間は常にポジショントークをしている。

 

しかし、自分自身のポジションをはっきり理解しているわけではない。

 

多くの人にとって、今いるポジションは、そこに行こうと目指した場所と言うよりは、人生の波に揺られて辿り着いた場所であることが多いだろう。

 

 

 

お忍びで精神病棟に入院した医学生が見たものは…そして彼の選んだ道は?「怖い」「身につまされる」絶版本のツイートに反応多数

秘密裏に体験入院した医学生は、何故か日々しだいに元気を失い、六日目にはついに、柱にもたれてうなだれてしまう。著者は慌てて彼を退院させた。

そして数年後、再会した医学生は結核の医者になっていた。

「今なら話せます」と、彼はみずからの体験を語り始めた…。

彼は、偽患者として入院した病棟で、他の患者たちから思いもかけない暖かな歓迎を受けた。

食事、風呂、トイレ、果ては薬の副作用が辛い時、どうやってこっそり調整するまで、皆が親身に教えてくれた。

それに対して、看護師や医者の冷たさ、威圧感が際立って感じられたという。

それに加えて辛かったのは自分の正気を疑わずに入院したのに、次第にそれがあやふやになり、自分に「自分は正気だ」と言い聞かせなければならない心境になっていくことだった。

そしてそれは周りの患者も同じなのだ。彼らもまた、自分は狂ってはいない、と自分に言い聞かせ仲間にもそういうのだ。それなのに毎日“お前は狂っている”と言われる彼らはたまらないだろう…。あまりにも救いがなさすぎる…。

しかし、一番怖かったのは、ショックだったのは、退院してから、病棟を変えて医者として実習をした時だったと、彼は告白する。

彼は言うのだ。

“あれほど温かく、生き生きとしていた患者たちが、みるみるうちに薄汚れて、汚らしくグズに見えてきてしまったのです。”

患者自身は少しも変わっていないのに、立場が変わったら見え方が変わってしまった、そのことに彼は大きなショックを受ける。

“どちらの感じ方をするのが真の自分なのか。両方とも自分なのか。わからなくなってしまいました。ともかく、そのときは意味を考えるのもできず、怖さにうちひしがれ、逃げるように帰ってきたのです”

この体験を著者に語った後、彼は英国に留学し、公衆衛生を学んだそうです。以下、締めの文章の抜粋です。

“精神衛生のレポートに、このときの体験を書いて教官から絶賛されたという。

彼の体験は、患者が心を開く可能性と、そのために、我々がとるべきポジションを教えてくれたのである。”

 

このようなケースは教えてもらうまで気付かない事が多い。

 

しかし、教えられると「ああ、あるある、あるかも」となる。

 

聞いてすぐに理解することが出来るということは、難しいから気づかなかったからではなく、考えようとしなかったからであり、考えなかったのは”感じてない”ので気付かなかったからだ。

 

実社会では、ポジションが違うと対立したり無視したりが多い、だから企業が提携なんてするとニュースになる、珍しいことが起きたからだろう。

 

スポーツの世界では、異なるポジションの連携プレーというのがある。

 

トッププロが難なくこなす連携プレーは、アマチュアの領域では難易度が高くなる。

 

上記の精神病院の話は、患者側と病院側の連携がうまく行ってないと見るとおかしな話になる。

 

精神病院の話とスポーツの話をリンクさせようとすると、スポーツの世界では選手とファンの関係に置き換わるかもしれない。

 

スポーツの世界では、ファンは自らの意志でいつでもファンをやめることが出来るが、精神病院の世界では患者は自分の意志だけで患者をやめることができない、だからスポーツの世界では選手はプレーでファンをつなぎとめることが求められるが、精神病院では・・・・・・。

 

スポーツの世界では、選手とファンがともに気持ちいいスカッとポイントを一致させることが出来るが、精神病院では患者と病院の間に共通のスカッとポイントが存在するだろうか。

 

ポジションが違っても価値観を共有できる関係もあれば、ポジションが違えば価値観を共有できない関係もある。

 

夫婦関係は、スポーツの世界と精神病院の世界のどちらに似てるのだろうか?

 

うまく行ってる話は表に出ないが、トラブルが多いとすぐに表沙汰になりがちな夫婦関係には謎が多い。

 

 

「トンデモ」健康情報で家庭が崩壊した男性が語る、元妻の「変化」

「価値観が合う人と一緒にいることが大事。合わない人とは一緒にいない方がいい。彼女は仲間にそうやってマインドコントロールされていきました」

 

「トンデモを信じることで、仲間からは“真実に気づいた”と絶対的に肯定してもらえるんです。彼女はそれを求めていたのかもしれません」

「トンデモを信じる人たちは団結力がある。止めさせようとする力より、抜けさせまいとする力の方が強い。私はその前で無力でした」

 

「トンデモの実践、伝道により、承認欲求が満たされ、自己肯定感が得られてしまうのだと思います」

 

 

 

アメリカの心理学者マズローが提唱した、人間の5段階の欲求。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/自己実現理論

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  • 自己実現の欲求 (Self-actualization)
  • 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
  • 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
  • 安全の欲求 (Safety needs)
  • 生理的欲求 (Physiological needs)

 

 

承認(尊重)の欲求 (Esteem)

自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求。尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。マズローは、この低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしている。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じる。

 

 

 

最近良く使われるようになった承認欲求ということばだが、マズロー2種類あると指摘したのは約50年前だ。

 

2種類のうち低レベルとされる反応は一言で言うと”お手軽な評価に一喜一憂するな、そして求めるな”ということだろう。

 

50年前から、人間が心理学的に陥る古典的な落とし穴だということだ。

 

なんでもお手軽になったのは、技術の進歩が可能にしたことだが、目に見えないトレードオフが発生してるのは言うまでもない。

 

最初は潜在化してるから気付かないが、最近一部の人は顕在化し始めたことに気付き出したように見える。

 

 

アマゾン以降 モノとの出合い方が激変 映画監督・想田和弘

例えば以前は、古本を探すときには古本屋を一軒一軒回っていた。出合うまでに時間とプロセスがあり、それ自体に学びの過程があった。アマゾンでは出合いまでが一直線です。そういったことが我々の精神や文化にどんな影響を及ぼしていくのか。もしかしたら大した影響を及ぼさないのかもしれませんが、それはまだ誰にもわかりません。

 

顕在化した”お手軽な評価”という市場価値は独り歩きを始め、全ての人に関係することになる。

 

承認欲求の次は自己実現の欲求になる。

 

欲求の段階を急速に駆け上がる人類は、神様の目にはバベルの塔を築いているように見えるだろう。

 

築いているのがバベルの塔ならば、いずれ破壊される運命だ。

 

 

最近増えてる大地震や地球温暖化に起因する災害は、神が人類に”安全の欲求”程度で満足してろと警告を発しているように思える。

 

第3回国連防災世界会議・防災の主流化の実現に向けて :外務省 2015年2月19日

ここ20年の間に,世界的に大規模自然災害が多発しています。自然災害の犠牲者の90%は開発途上国の市民であり,最も脆弱な人々が災害の矢面に立たされているという現状があります。

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先進国や都市に住んでる人が無意識のうちに「大災害の犠牲になるのは途上国であり、地方である」と思ってるだろう。

 

不思議なくらい都市部で大災害が起きていないが、次はわからない。

 

地球の上で生きているという意味では皆同じポジションにいることを理解したほうが良い。

 

自己実現や承認という欲求レベルは、俺とお前の立ち位置(ポジション)は違うということが前提になるので競争意識・対立が芽生えるが、安全欲求に関しては、私とあなたは同じ立ち位置(ポジション)だということが前提になり協力・協調が芽生える。

 

日常生活を送っていると複数のポジションを持ってることを忘れてしまうことがある。

 

幸せは安全が満たされるくらいが丁度良いかもしれない。

”証拠”や”エビデンス”と”嘘”は紙一重、決断を急がせる人は敬遠した方が良い

真実や事実を補完するのは証拠やエビデンスと言われるが、それらは客観性や裏付けるデータを拠り所とするので提示することが案外難しい。

 

裁判とは真実追求を理想とするが、実際には法廷テクニックの競い合いの場であり、その前提は集められた証拠が示せる範囲に留まるので、真の真実ではない偽の真実を産み出すことがある。

 

だから証拠を取り巻くポジショントークとなり、真実や事実を別のカタチに歪めて、嘘、すり替え、捏造は、テクニックとして行われる。

 

こんなことを考えたのはこの番組を見たから(実際に見たのは後半のPM9時からのみ)。

 

「ひとり暮らしの40代が日本を滅ぼす」NHKが作ったAIの分析が冷たすぎる

ひとり暮らしの40代が増えると、日本は滅ぶ。そんなショッキングな分析がある。分析結果を導いたのは、研究所やシンクタンクでも、官公庁でもない。AI(人工知能)だ。しかも、そのAIを開発したのはなんと、公共放送・NHK――。

 

個人的にはおもしろかったこの番組を見ての世間の反応は、それはAIではないのではないかという点に焦点が集ってるように見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「AIに聞いてみた」番組の自称AI、日本の統計データをパターン認識で視覚化し、その相関性を見た人間が意味を考える「お告げ」に近いものと判明

 

 

 

 

 

AIを活用した現在より巧妙な詐欺が出てくるのは時間の問題だろう。

 

人間対人間の場合、問題の多くは感情(勘定)だ。

 

人間対AIでは、どうなるだろうか?

 

 

嘘を見破る4つの方法とその精度

心理学的な研究のリソースが多く割かれてきたテーマに、「嘘を検知できるか」というものがある。人の表情や手足の動きなど、行動を観察する方法は期待薄だとすでに分かっていると前回詳述したが、では「言語分析」「いわゆる嘘発見器」「脳波」「fMRI」はどうだろうというのが今回の話だ。

 

ぼくたちは、「嘘を見破るのが下手」な"poor lie detector"であり、機械を使うと嘘検知の割合は高くなるけれど、それでも、現実的にはたくさんの誤判定がある。「本当のことを言っている人を嘘つきと判定する」ことは、しばしば取り返しのつかないことにつながる。

 

 

嘘研究の大家の一人、エクマンの金言を村井さんは紹介してくれた。

〈われわれは嘘をつけるし、真実を語りもする。また、欺瞞を見抜き、見落としたりもする。ごまかされたり、真実を知りもするのである。われわれにはいろいろな側面がある。これこそが人間の真の姿なのである〉

 

 

夫婦関係破綻でも離婚に絶対応じない妻には「偽装復縁」が効く(上)

 

以下の引用部は(下)から。

 

最後は進さんの「これ以上、傷つけたくないんだ」という言葉が決め手になり、ようやく妻は離婚届に署名しました。

 

進さんのケースのように「離婚を切り出した方が不利」「離婚を切り出された方が有利」という上下関係で、離婚の難易度が引き上がるのは仕方がありません。妻が「心の準備」をできていないのに離婚をゴリ押ししても上手くはいきません。「離婚直前まで行った夫婦がやり直せるわけがない」という前提で、偽装復縁によって「修復不可能」という結論に持って行くことが大事です。

 

 

 

 

感情(時には勘定となる)は、どこに宿り、どのように現れるのか。

 

謝罪会見のはずが国民に説教?民進党・蓮舫さんが振りまく妙な違和感

妙な記者会見だった。

 

結果、少なくとも国籍法違反が確定。長年にわたってウソ、詐称、偽証を繰り返してきたことも明白に(注1)。さらには父親の国籍問題や書類の真偽など未解明な疑惑も残り、いまもって批判の声が止みそうにない。

 

 

テレビのワイドショーやニュースも同様だが、相手の立ち位置によって基準や対応がまったく違う。それこそ差別的であり、<ダブルスタンダード>という言葉以外では説明ができない態度だ。

 

 

すぐにバレる嘘とバレるまで時間がかかる嘘や、嘘だと思われてるが証明できない嘘がある。

 

 

 

 

 

『1.保険が効かない自由診療。』が意味するのは、自己責任

 

『2.がんが消えた、治ったとのうたい文句。』は、曖昧な証拠やエビデンス

 

『3.効果のあった患者さんの例が紹介されている。』は、曖昧さの補完

 

ここで挙げられたインチキの条件は、本物が本物であると認定される前段階の条件でもある。

 

条件だけで判断すると嘘と本当は見分けがつかない。

 

 

子供の頃から推理小説が好きだったので、いつか事件に巻き込まれんじゃないかと心の準備をしてる。

 

そういう目で世間を見てると気付くことがある。

 

全て嘘かもしれないという目で見ると、嘘は嘘以外に解釈の余地が無いと思えることがほとんどだが、本当のことは嘘とは思えない点が出て来る。

 

ただし判断に時間がかかるのが欠点。

 

考えても見抜きづらい詐欺やインチキと同様に最近のビジネスは、即断即決を要求する傾向にある。

 

判断を急がせるものは敬遠する賢明さが身を守る。

バベルの塔が壊れても、張られた伏線が奇跡を起こす

今回の人生は失敗だったなと思うことの多い今日この頃だが、なかでも最大の失敗は日本語しかできないことだ、中途半端に勉強することが数度あった英語だが、具体的な目標があるわけではなく結局身につかなかった。

 

もし世界の言語が1つになるような時代がこれから訪れるとするならば、英語になるのかなと思う。

 

日常会話では、英語人口は1番多いわけではないが、それにプラスでビジネス会話やプログラム言語まで含めると英語人口が1番になるだろうから。

 

世界の言語が1つになるということを考えていたら、思い出したのが”バベルの塔”だ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/バベルの塔

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バベルの塔の絵を見たことがある人は多いだろう、漫画なんかでも取り上げやすいし。

 

バベルの塔を拠点にした漫画で有名なのが横山光輝の”バビル2世”だ。

 

そんなバベルの塔は、神に逆らった人間が受けた罰の成れの果てだと伝えられてる。

 

当時世界中の人間は一つの言語を話していた。

 

世界中に散り散りになってる人を一箇所に集めて生活するのが良いのではないかと考え、世界中の人が集まって暮らせるように高い塔を作り始めた。

 

天高くそびえる塔が出来上がる様子を見ていた神は、これ以上人間を調子に乗せたらダメだと考え、塔を破壊し、地域ごとに違う言語を与え、世界の人が全員で統一された目標に向かえないようにしたと伝えられている。

 

 

英語ができないコンプレックスを考えていて、思い出したバベルの塔の話しが思い出させてくれたのが、数ある言語のなかの一つの言葉しか話せないというのはそんなに悪くないかもということだ。

 

これから世界で起ころうとしてることは、調子に乗りすぎた人間に対する神様の罰かもしれない。

 

「世界は閉じた地域帝国に再編、経済成長は終わる」水野和夫氏に聞く

──資本主義が行き詰まり、国民国家との関係も変わったということですか。

 

歴史的に位置づければ、国家というものの下で、民主主義と資本主義をベースに成り立っていた「近代」システムが制度疲労を起こし、次の段階に入り始めたということでしょう。

 

 

 

「定常経済」と言われる利潤や成長を求めない経済では、市場は、資本の利潤を生む場ではなく、単純に資本やモノを交換する機能だけでいいと思います。地域で得られる原材料や食材などをもとにした生産品や、地域の労働力を使ったサービスをその地域で提供して、それで得た所得を地域で消費する循環型の経済を目指すことが重要なのです。

 

 

また、リーダーと言われる人達が、明るい未来を提示できなくなっているように見えるし、リーダーもそのことを自覚している。

 

経済は選べるようになるか?個人が主役の『時間経済』の試み

経産省が作ったペーパーにこんな一文がありました。

 

みんなの人生にあてはまりみんなに共感してもらえる「共通の目標」を政府が示すことは難しくなっている。

 

昔はこの「共通の目標」を作ることが政府の役割でしたが、今は統一した価値観を形成することの意味は薄れてきています。むしろ反対に、多様化した世界をありのまま受け止めて、社会の多様性を失わないようにすることが行政の役割になってきているとすら感じています。そのために必要なテクノロジーは十分発達しています。

 

 

バベルの塔と言ったら個人的に絶対外せないのがドラマ相棒のseason5の11話。

 

http://www.tv-asahi.co.jp/aibou_05/contents/story/0011/

元日スペシャル「バベルの塔~史上最悪のカウントダウン!爆破予告ホテルの罠」

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ゲスト:大塚寧々 遠藤章造 寺島進 杉本哲太 冨家規政 中村綾 梨本謙次郎 佐々木麻緒 

 

脚本:古沢良太

監督:和泉聖治

 

 

 

まるで現代のバベルの塔のような超高層ビルを見上げた右京。楓親子に視線を移すと静かにつぶやいた。

「昔、世界の言語は一つだったそうです。人々は高い塔を作って住もうとしましたが、神の怒りに触れ、言葉を通じなくされました。お互いを理解できなかった人々は散り散りになったという話です。ところが今日、言葉をしゃべらない少女によって、バラバラだった人々の心があのように…」。

 

 

年末の夕方からの数時間のできごとを2時間半のドラマにおさめている。

 

幸せの頂点を迎えるはずの楓(大塚寧々)が、ほんの数時間で持ってた幸せを全て失い絶望するさまが、これからAI時代が始まり、資本主義がダメになり、どうしようかと焦ってる姿とダブる。

 

しかし、生きていると知らないところで伏線が張られていたことに後から気付くことがある。

 

このドラマにもさまざまな伏線が張られていて、すべてを失い絶望し死を選ぼうとする楓に奇跡を起こす。現象だけ見ると奇跡でも、起きるべくして起きる奇跡はごく自然な流れで起きる。

 

いや奇跡は起きるのではなく、張られた伏線が起こすのだ。

 

 

 

全てを失ったはずの楓が、全てを手に入れていた。

 

手に入れた幸せは、数時間前に夢見ていた幸せとは全く違うものだった。

 

手に入れた幸せは、数年前に諦めた幸せであり、捨てた幸せだった。

 

 

誰でも生きているだけで、張られている伏線を持っている、これは努力や頑張りとは違う種類のもので自分ではわからない。

 

張られた伏線が奇跡に繋がるかどうかは、神様次第だ。

 

念のため書くが、ここで言う神様は宗教が嫌いな神様だ。

 

そんな神様に好かれた人に、張られた伏線が奇跡を起こす。

 

 

 

冒頭で今回の人生は失敗だったかもと書いたが、そうでもないかもしれない!

AI時代は悩むことを楽しむ時代

AI時代を迎えるという危機感を語る記事やブログが増えている。

 

AI時代にまったく備えないその日暮らしの日本人たちよ

日米とも1000人以上に聞いてるのでかなりの精度なんですが、アメリカの就労者の8割近くがきたるAI時代に備えて知識を学んだり転職を考えたりいろいろしてるのに、日本は過半数が出たこと勝負・・・・・

 

1年くらい前からAI時代に備えるというキーワードが増えてきて、これまでの時代と何がどう変わるのか、どう対処すればよいかを語る記事が増えてきた。

 

AI時代に「勝ち残る子」を育てる

このコラムについて

AI(人口知能)が人間の仕事を代替する社会が現実のものになろうとしている。子供たちをAI時代でも求められる人材に育てるためには、どんな教育が必要なのだろう。親世代が受けてきた教育は、もはや時代遅れになっているかもしれない。このコラムでは、リクルート出身で「教育改革実践家」として活動を続けてきた藤原和博氏と、高校の英語教師で、アクティブ・ラーニングを授業で実践している山本崇雄氏の対談を通してこの問題について考える。企業や組織の人材教育にも必要な視点が見えてくるはずだ。

 

 

 

AI時代到来と言われ始める一足前からビジネス界ではプラットフォーム競争が顕在化している。

 

元々はベースとなる場を意味したプラットフォームだが、最近はそこから派生したベースとなるシステムなど、ビジネスや社会インフラの土台となる新しい仕組みを意味する使いかたが主流になっている。

 

一度定着すると長期に渡り運用されるので、木に例えるならば根や幹となる。

 

ごく普通の人がビジネスを語る時、暗黙のうちに枝葉のことを語っている。

 

 

AI時代が到来するとは、根や幹が変わることを意味する。

 

当然葉や枝もそっくり入れ替わる。

 

実際のAI時代がどうなるかはわからないが、プラットフォームの見え方が変わるという経験を我々は過去(と言っても最近)にしているので、そのことを思い出してみたい。

 

自由化や規制緩和で開放された事業のうち、立ち上げてしばらくは莫大な投資が継続的に必要となる事業があった、代表的なものを挙げると。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/規制緩和

 

日本電信電話公社民営化

国鉄民営化

電力自由化

 

 

利用者にとって規制緩和のメリットは料金が下がることで、それ以上のことに関心を持たないが、上記事業の根や幹にあたるのは、日本全国に網を巡らせるということだった。

 

しかし多くの利用者にとっては根や幹は日常意識しない。

 

 

この根や幹にあたる網の部分は、規制緩和されても競争対象にはならない、真の意味での公共財となるので、コストは無視できないが必要なスペックを備えるものが採用される。(安かろう悪かろうは基本ありえない)

 

競争原理に晒されるのは枝葉の部分となる。

 

とは言えJR北海道などでは必要なスペックの維持が困難になりだしたりしてるので例外は発生しうる。

 

規制緩和の促進は、網を巡らすという投資が終わったからとも言えるので、無料開放すると言いながら開放されない高速道路には闇を感じる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/高速道路無料化

 

 

来るAI時代を考えるのに、電力の自由化が参考になるような気がするので振り返ってみたい。

 

電力の自由化が真の意味で行われる時は、発送電の分離が行われる。

 

現在は自由化は表面上完了してるが、発送電は分離されてない。(2020年予定)

 

発送電が分離されてない状態では、電力は発電所という上流から、利用者という下流へ流れるイメージで捉えることが多い。

 

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図の引用:電気事業連合会ホームページより

 

この図で見ると、プラットフォームは、発電所や変電所であり送電網は意識されない。

 

 

しかし発送電分離が完了すると下図のように、実は根幹は送電網だということが見えて、発電所も変電所も利用者(需要家)もすべて送電網という根幹にぶら下がった枝葉に見えてくる。

 

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図は経済産業省が定義したスマートグリッドの構成要素

 

 

この100年間人間は、上下の序列を付け、上なのか下なのかばかりを気にして、少しでも上をと目指して生きてきたが、次世代プラットフォームは上下で位置づけるのではなく、上下のように見えていた位置関係が実はループ(輪)を描くようなものだったということに気付かされる時代になるような気がする。

 

これからAI時代を迎えると、人の居場所が無くなると言われるが、元いた場所がなくなるだけで、何も無いように見えていたところに開いてるスペースがあることに気付くような時代になるだろう。

 

正解や模範解答のような予め準備されたことが意味を持たなくなる。

 

正解が準備されてるということは、問題も予め準備されてるということを意味する。

 

だから予定調和が成立した。

 

AI時代には、正解がある問題の多くはAIが担当する。

 

人間が担当するのは、問題が何かは前もってわからないことや、正解がないことになりそうだ。

 

だから、生産性や効率を求める人にはツライ時代になり、試行錯誤を楽しめる人が強い時代になるだろう。

賢い人はコストパフォーマンスを求めない

コストパフォーマンスという考え方がある。

 

最近では略してコスパでも通じるくらい一般的な言葉になった。

 

いつ頃から使われたのか少し検索すると、

 

コスパ(コストパフォーマンス)という言葉はいつから

質問者が選んだベストアンサー

もともとは自動車業界で「価格性能比」という言葉があったのですが、自動車雑誌系、なかでもカタカナ名称の雑誌系が価格性能比をわざわざ言い直してコストパーフォーマンスと書いていたのを覚えております。二玄社という雑誌社に小林彰太郎さんという編集長がおりまして、この方は英語も堪能だった(である)方ですので、この小林さんあたりが流行らせたのではないかと想像しております。やはり1970年代前半です。

 

質問者はオーディオマニアのようで、オーディオ界では1970年台半ばにコストパフォーマンスという概念が生まれたと記憶してるようである。

 

自動車もオーディオ(家電)も、日本の成長とリンクし商品ラインナップが急拡大していた時期と重なっている。

 

そもそもコストパフォーマンスとはどういう意味かというと、

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/コストパフォーマンス

  • コストパフォーマンスが高い、コストパフォーマンスが良い(支払う金額よりも価値が高い)
  • コストパフォーマンスが低い、コストパフォーマンスが悪い(支払う金額よりも価値が低い)

 

商品ラインナプの急拡大と商品価格のバラつき幅に消費者が戸惑っている様が想像できる。

 

暗黙の了解で、高性能な製品やサイズが大きいものが高級で価格が高いとされていた時代だったので、選択肢が多い中から低価格帯商品を選ぶことにコンプレックスを感じさせる時代でもあった。

 

自動車やオーディオと言うジャンルは高所得者向けだったが、1970年台は庶民への普及を業界が意図し始めた転換の時期でもあった。

 

高級だから値段が高いと思われているジャンルの値段の安い商品を、見栄え良く演出するために用いられたのがコストパフォーマンスという概念だったのだ。

 

”この安い商品を選んだあなたは賢いんですよ、だって得してるんだから”という気持ちにさせるために用いられた。

 

そのためにカタログの充実が図られた。

 

美しく作られたカタログは収集の対象にもなり、商品の比較が容易にできるようになり、価格差を生み出す違いが何なのかが消費者にも見えるようになってきた。

 

スペックだけでは価格差を正当化出来なくなると、デザインの差別化が行われ、値段が高いものは美しくかっこ良く見えるようになっていった。

 

商品比較を行う事に慣れた消費者は、豊富な知識を持つようになり、メーカーはレベルの低い商品を作れなくなっていった。

 

このような流れを繰り返すうちに高級という価値観は、高性能というよりは希少性にその拠り所を求めるようになった。

 

希少な材料を用いたり、生産数を限定することで希少性を出したりすることで、もはや高級にはコストパフォーマンスという考えは全く当てはまらなくなった。

 

 

コストパフォーマンスという価値観は、つまるところ”得をしたい”となり、全てのジャンルで求められるようになった。

 

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9310984.html

質問

やたら大盛りを得意げにする店って有りますよね

 

そんなに食えね~し とか そんなに旨くもねーし

 

どうなんですかね 大盛りってそんなに嬉しいものですかね?

正直 味の自信の無さが現れているような

 

学生街の飯屋は勿論違いますよ

 

体が求めている20歳未満は回答除きが希望です

 

 

回答(3人の回答の一部抜粋)

結局彼らの「美味しい」という基準は美味なのではなく「いっぱい食べられる」「満腹になる」という意味だと分かりました。いくつになってもそういう人は確実にいて、それほど美味しくない料理をたくさん食べて満足なのです。

 

味に自信が無いに同意します。

 

もう50ですが、大盛り嬉しいです。

ハッキリ言って普通では全然足りない。

ほとんどの普通盛りが誰に合わせて言っているのか判らない。

 

 

 

商品でないものもコスパで判断されるようになっている。

 

「結婚ってコスパ悪いよね」論には、われわれ大人世代が反省すべきでしょう

○○をするのはコスパが悪い」はいつから定型句になっただろう?AERA 6月号で「結婚はコスパが悪い」と特集が組まれる前からネットでは似たような言説が出ていた。ざっくり纏めると、こんな論旨だ。

 

結婚はコスパが悪い。結婚しても離婚するかもしれないし、相手の隠れた悪癖が見つかるかもしれない。

子育てはコスパが悪い。学費は無尽蔵に増える課金ゲームだし、学歴を担保しても仕送りや介護をしてくれるとも限らない。

 

 

 

 

そして最近では、こんな話が増えてきている。

 

養老孟司 90万部『九十歳。何がめでたい』が売れる時代に危惧

「例えばこんなくだり。佐藤さんがテレビの不調でなじみの電気屋に連絡すると、頼んでもないのに出張修理の人が駆けつけてきて、リモコンをチョコチョコして直しただけで4500円も取られたというエピソードです。

 

これ、ぼくにも似たような経験があります。ぼくの家には、某通信会社と契約しているWi-Fiがあるんですが、ある日、その会社が『総務省のお達しにより、より安全なWi-Fiに取り替えます』と言ってきたんですよ。しかも、それが月々3000円かかるという。そこでぼくが『これまでは何が危険で、今後はどう安全になるんですか?』と聞くと、担当者は答えられない。

 

ある意味詐欺なのだが、それはユーザー目線で見るからかもしれない。

 

従来のコストパフォーマンスというのは、ユーザーにとっての話だったのだが、最近では、売る側もコストパフォーマンスを求めるようになり、その際にユーザー側への配慮が殆どなされない。

 

上記のエピソードのどこがコスパの高さに繋がってるかというと、営業経費が0円だという点だ。

 

ビジネス的な言い方をすると、既存顧客をリピーター顧客に仕立て上げようとしているのだ経費0円で。

 

コストパフォーマンスという価値観は、究極的にはすべての人を対立関係に導く。

 

コストパフォーマンスの追求の現れの一つが大盛りや大食いにつながってるとすれば、その数年後数十年後に大きなツケが回ってくる。

 

行き過ぎた現在のコスパは、得をしてるようで不幸せに向かうものに見える。

 

賢い人は、コストパフォーマンスという考えから離れているだろう。