違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

一人より二人を求めるアメリカ、二人より一人を求める日本

なんだかわけの分からないニュースが出てた。

 

従業員を転籍、元の職場に派遣 リンクトブレイン
2017/8/5 1:00日本経済新聞 電子版

人材派遣のリンクトブレイン(東京・千代田)は顧客企業の従業員を部門やプロジェクト単位で転籍させ、派遣社員として元の職場に送り込むサービスを始める。従業員には転籍前と同額の給与を保証する。利用企業は人件費を変動費にできるほか、派遣人材の質に悩まされなくなる。事業再編のペースが速いIT(情報技術)業界やゲーム業界での利用を見込む。

正社員や契約社員、アルバイトの同意を取ることが前提で、1社につき最大100人規模の転籍を想定。従業員は派遣社員として従来通りの仕事内容、給与で働く。

リンクトブレインは派遣社員を募集して探す手間が省ける利点があるため、派遣料金内のマージンは通常の派遣サービスよりも10~15%安くできる見込みという。

派遣社員はリンクトブレインが加入する関東ITソフトウェア健康保険組合を利用でき、一定の要件を満たせば、厚生年金の受給資格も得る。

 

 

 

この記事はまとめサイトでも話題になっている。

 

派遣会社が従業員を転籍で受け入れて、元の職場に派遣するサービスを開始!!

 

どうやらこれはアメリカで30年位前から広まりだしたPEO(共同雇用)と言われる雇用にまつわる労務管理費や関連して発生する業務の効率化を図る仕組みの日本版らしい。

 

アメリカでは、人件費を削減するためのものではないが、日本ではどこかにカラクリが隠されてるはずだ。

 

日本版PEO(共同雇用)制度と労働者派遣法第35条の5・第40条の9(追記あり)

人材業界の有識者たちが、「これって法的に大丈夫なの?」とざわついているのがこのニュース。

 

 

アメリカの人材派遣はどういうものだろうかと思い検索すると、ピンからキリで様々な情報が出る。

 

日本とほぼ同様の仕組みが伺える人材派遣の情報も多いが、少し勘ぐって見ると、情報の多くは派遣する側の情報で、アメリカで働きたい日本人向けに日本語で発されてる情報なので、馬鹿な日本人をカモにするための情報にも見える。

 

またアウトソーシングと派遣を区別しないで同じ扱いで取り上げてるサイトもあった。

 

そんな中でひとつ面白い情報を見つけた。

 

アメリカの派遣社員は即戦力の精鋭集団なんですか?

そもそもアメリカの派遣社員制度は日本の派遣会社の契約社員とは100%別物です。

 

アメリカの派遣業とは日本で言えばリクルートのようなもので、人材を必要としている企業と就職を希望する人とをの仲介を行うだけで、労働者は派遣会社とは関係がありません。

 

ですからアメリカでは日本の派遣社員のようなものは見当たりません。

 

 

アメリカの企業では社員全てが派遣社員だとも言えますから、給料の悪い企業には人は集まりません。

 

 

この回答は、アメリカの防衛産業に従事していて、日本から視察に来る企業の通訳をしてる方が2009年にしたものなので、それ以降の派遣のあり方が変化した可能性はあるが、そもそも派遣という形態は人件費を削減するための仕組みではないということはわかる。

 

そもそも論として、日本とアメリカでは「人」に対する意識が違うから、無意識レベルの行動や発想にも違いが出る。

 

ビジネスにおける人の捉え方だけでなく、恋愛や人間関係においても大きく違いそうだ。

 

 

 

独り身女へのプレッシャーinアメリカ

アメリカは個人主義だけど、一方で強固なカップル文化/パートナー文化が存在する。

 

アメリカ人の友達から聞いた話で、印象的なものがある。

「先週友達の結婚式のパーティに出たら、新婦の親戚らしき女性がいたんだけど、その人の夫は海軍で、『彼は今艦に乗ってるから今日は来れない』と言ったの。そうしたら、みんな口々に“Thank you for your service.(兵役お疲れ様です、国のためにありがとう)”ってその奥さんに言いながら握手しだしたの。めっちゃアメリカっぽくない?!」

 

 

レディファーストというマナーがあるかと思えば、大統領夫人をファーストレディと大統領以上に持ち上げたり、女性を立てる文化があるが、日本人にはチップと同じでわかりづらく、それっぽくやっときゃ良いんだろうと言う目で見てしまう。

 

しかし実際には、もっと根本的な違いがあるかもしれないと感じ始めた。

 

 

連載第41回「個人主義=夫婦主義」というアメリカ社会の夢

「社会で大成功することと素晴らしい結婚とでは、どちらがより大切なのか?

と問えば、アメリカ社会は間違いなく、素晴らしい結婚に軍配を上げます。それこそが、「アメリカ社会=個人主義社会=夫婦主義社会」の根底をなす考え方と言える、と国際弁護士ユアサは確信しています。

 

 

最近では結婚しない人は珍しい存在ではないが、日本では結婚して一人前と言われたり、結婚したら「家を建てて一人前」と言われたり、他人からどう見えるかが大切で、それに振り回されてるように見える。

 

現代の日本人男女の結婚への意識の違いとは?

男性も女性も1人でいる自由を大切にする人は3人に1人。

現在はまさに「お一人様」の時代といえそうです。

 

 

独身者が増える一方で、近年全国各地で婚活が盛んに行われています。

婚活で相手を選ぶ際のポイントですが、年収を気にしている方も少なくないのではないでしょうか?

 

実は多くの婚活サイトの年収項目は自己申告でありその信憑性は「???」なのです。特に年収600万円以上の男性は3人に1人が嘘なのでは。

 

 

 

日本では、「個人を尊重」=「自分だけ大事」=「一人でいたい」。

 

アメリカでは、「個人を尊重」=「相手も尊重」=「皆で楽しむ」。

 

大元の価値観に大した違いは無さそうなのに、結果は大違いとなる。

 

この違いはどこから来るのだろうか?

 

今始まったのではなく脈々と続いたものの違いのように感じる。

 

だとすれば、日本の「個人を尊重」は脈々と続いたものではない気がする。

 

日本では長いこと、年上を敬えと教えられ、その延長線上で立場が上の人を立てろと教えられてきた。

 

そこが崩れて、個人の尊重だけが一人歩きをしたら、一人を楽しみたいというのは仕方ないかもしれないし、相手を求めるよりお金を求める傾向がまだ強そうだ。

 

そう考えると、日本人の多くが一人より二人のほうが良いと思えるようになるまでもう少し時間がかかりそう。

真面目なコピペは悪いことではない

最近こういう記事を目にした。

 

そこから教えなきゃいけないの…

今の子を育てるには、コピーには時と場合がある、そして今回はダメ場合だよってところから教えなきゃならんのだろうか。

 

いわゆるコピペを嘆く記事なのだが、PCテクニックとしてコピペが普及し定着して以来折りに触れ似たような指摘が繰り返される。

 

「コピー&ペーストは本当に悪いのか? 学生の「コピペレポート」に憤慨する大学教員に異議あり!」に異議あり!

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コピペにはお作法があり、普通は”引用”という形態を取る。

 

検索するとコピペが問題として顕在化したのは2009年頃からのようで、教育の現場で目立ち始めた。

 

教育が問われるネットのコピペ問題

秋田県在住の中学3年生が応募した詩の作品が、第19回「詩と思想」(土曜美術社出版販売)の新人賞に選ばれたが、この作品はインターネットからコピー・アンド・ペースト(以下、コピペ)した盗作だったという。

 

このニュースを見た多くの教育関係者は、おそらく「いつかは起こると思っていた」と感じたのではないか。

 

 

このコピペ問題をややこしくしてるのは2つの点がごちゃごちゃになるからだと感じてる。

 

一つは、作法を守らないコピペが著作権を侵害することになるということと、二つ目は作法を守ったとしても引用部分が占める割合が多すぎると新たな著作物とはいえないのではという点だろう。

 

コピペが普及する前だって、文献から丸写しなんてレポートや論文の至る所にあっただろうが、手書き部分が多いとオリジナリティが出たり、少し言い回しを変えればチェックのしようがなかったかもしれない。

 

 

ビジネスの世界では、商品やサービスの差別化が難しくなっている、同様のことが著作や研究の分野でも起きているのかもしれない。

 

根本的な差別化が難しいから、重箱の隅にオリジナリティを求めてしまう。

 

だから、先に差別化に成功するとその手柄を権利として確定させたくなるのだろう

 

言い換えると、誰でもできるであろうことを競い合ってるので早い者勝ちという価値に囚われるからだ。

 

一方、コンピューターを取り巻く世界では一部だがオープンソースという考え方がある。

 

これは、先を目指すためには競争よりも協力・協調の方が成果が得られやすいという考えに基づいている。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/オープンソース

1.自由な再頒布ができること

2.ソースコードを入手できること

3.派生物が存在でき、派生物に同じライセンスを適用できること

4.差分情報の配布を認める場合には、同一性の保持を要求してもかまわない

5.個人やグループを差別しないこと

6.適用領域に基づいた差別をしないこと

7.再配布において追加ライセンスを必要としないこと

8.特定製品に依存しないこと

9.同じ媒体で配布される他のソフトウェアを制限しないこと

10.技術的な中立を保っていること

 

 

先を目指すためにコピペを推奨するという考えは成立しないのだろうか。

 

かつてコピーライターという職業がもてはやされた時期がある。

 

広告業界の人やコピーライターに憧れてる人がしきりに口にしてたのが、「模倣はダメでクリエイト(創造)が大事」というセリフだった。

 

しかし、言論界では「創造は模倣のアレンジであり、要素の組み換えである」というのは定説だ。

 

絶対にバレないコピペレポートの作成方法

比喩的表現は違う言葉に直し、裏づけとなるデータは独自に引っ張り、引用文献には必要ならば図書館で直接アクセスし、別の同義文からの引用に差し替えたりした。300字程度の元ネタから4000字程度の文章を起こすことぐらいは、余裕で出来るようになった。

これぐらいやれば、まずコピペレポだとバレることはない。なぜなら、ここまでの作業を通じて引用文献は自分なりの咀嚼が加えられ、大げさな表現をすれば“血肉”となっているから。

 

 

上記のようにコピペでも、自分なりの咀嚼が加えられ、自分の血肉のレベルになれば、おそらく外野からコピペだと揶揄されることはないだろう。

 

コピペは、やり方が問題視されることは多いが、その動機を巡って取り上げられることは無いように感じる。

 

自分なりの咀嚼を加えてなおコピペする時は、コピペ元の著者の価値観や表現力に共鳴・共感があるはずだ。

 

だから、脳というか自分自身の中枢が影響を受けてる。

 

脳科学で解説!運のいい人になる5つの方法

「ですから、成功している人や、この人みたいになりたいと思う人の真似をすべきです。持ち物や使う言葉、企画書の書き方、食べ物、何でもいいのです。そのうちに脳の回路も似てきて、『あの人なら、この場面でどう決断するだろう』ということまでわかるようになってきます。ただし、脳の使い方は1日では変わりません。新しい回路ができるのには少なくとも3週間かかるとされていますから、意識して3週間続けるといいでしょう」

大事なのは、なりたい自分に近づいていくことだ。

 

 

自分がコピペ(引用)する場合の気持ちには2つの種類がある。

 

「自分の言葉で表現するより中立性があると考えられるから」と考えウィキペディアや他のブログや記事を引用する場合がひとつ。

 

もう1つは、「自分の表現より上手に表現してると感じられるから」と言う気持ちで、今回は引用するが次は自分のことばで表現したいという思いを込めて引用する場合。

 

あまり意識してなかったが、なりたい自分がいるのかもしれない。

有料アドバイスしたがる人には要注意!

砂金を採るより、砂金を採りに来た人にツルハシを売るほうが儲かるという古典がある。

 

同様に、商品を売るよりも、商品を売る場所を探してる人に売り場を売ったり貸したりする方が儲かるという考えがある。

 

これらに共通するのは、儲かるとは思われてないけど、実は儲かるという点であり、あなたが儲かることをお手伝いしますと思わせる点だ。

 

表向きは、困ってる人を助けるというビジネスだ。

 

インターネットや投資ビジネスの普及で、多くの人が目先の砂金を求めている。

 

では、ツルハシに相当するのは何なのだろうか?

 

まあこういうことを考える人間は儲かってないのが世の常。

 

今更ながら考えてみようと思ったのは、考えを整理するため。

 

砂金に人々が夢を求めたゴールドラッシュはウィキペディアによると1848年アメリカのカリフォルニアで始まったとされている。

 

1848年と言えば日本は江戸時代でほぼ幕末の時期。

 

幕末のビジネスマンを分析

幕末、呉服業、両替業が不振に陥り危機的状況にあった三井家は、出入りしていた小両替商・三野村利左衛門を支配人に抜擢する。三野村は三井の事業を政府御用担当の銀行業を中心に再構築。発足した三井銀行は三井財閥躍進の原動力になっていく。

 

ベンチャー企業家の1人が松本重太郎。大阪・船場の一等地に店舗を構えると、断髪令を見越して帽子や襟巻きを、台湾出兵や西南戦争の際に毛布、羅紗を買い占めるなど、時代のニーズを巧みにつかんで巨利を得る。その後も銀行、鉄道、保険など多くの事業に関係し、「東の渋沢(栄一)、西の松本」と呼ばれる企業家となった。

 

 

幕末のビジネスの要は場所にあるような気がするし、この状態は今も続いているような気がするが、トレンドとしては弱くなってると感じる。

 

場所が重要だったのは、移動や輸送そしてそれにかかる時間が関係していただろう。

 

つまり場所が重要視される理由は、今も昔も大して違わない。

 

移動や輸送の多様化と高速化は、時間を掛けて都市部への人口集中を加速させた。

 

一方、情報伝達の多様化と高速化は、都市と地方の差をなくした。

 

取引ですら情報化され始め、対面での取引が減っている。

 

取引の情報化は、犯罪の助長を促進しそうだが、とんでもない事件は対面取引の場で起きている。

 

積水ハウスから63億円をだまし取った「地面師」の恐るべき手口

ここでは、添付コピーのように所有権者の知らない間に、本人確認用の印鑑登録証明証、パスポートなどが偽造され、それを利用した「成りすまし犯」が手付金を受け取っていた。

 

最近話題になった金塊盗難。

 

金塊密輸事件と日本の裏社会~地下経済の玄関口「九州」でいま起きていること

日本の銀行は、組織犯罪グループのメンバーによって運営されている口座に対する規制を冷酷に実施している」と述べ、「金(ゴールド)は銀行口座を持っていない場合に非常に有用な通貨として機能しており、さまざまな大きさに分割して持ち運びができるため、犯罪組織にとってはなくてはならないものになりつつある」

 

さらに金(ゴールド)が狙われやすい理由として、購入が対面で行う現金取引のみという特徴が挙げられる。

 

地金・コインのご購入について  田中貴金属工業株式会社

200万円を超える購入の際は「犯罪収益移転防止法」によりご本人様の確認が必要となります。

「本人確認書類」をお持ちの上、ご来店ください。

 

 

直営店GINZA TANAKA及び、田中貴金属特約店では地金・コインの購入代金のお支払いは現金のみとなります。クレジットカードや小切手で購入することはできません。

 

 

だから高額取引が行われることはキーマンをマークしてれば容易にわかるのだ。

 

ヤクザや犯罪組織にとってのツルハシは、対面での現金取引に関する情報と言えるだろう。

 

しかし、このことをヤクザはどうやって知ったのだろうか?

 

独学だろうか?

 

バブル景気の頃から、東大や京大を出たインテリヤクザの存在が目につくようになっているが、実際には指南役がいると考えるほうがしっくりくる。

 

指南役は法律に詳しい事情通だ。

 

 

砂金を採りに来た人にツルハシを売ってる人を見て、なぜ砂金を採らないのかと疑問を持った人がどのくらいいただろうか。

 

ツルハシを売ってた人は、砂金を採ることが難しいことを知っていた事情通だったのだ、割に合わない砂金採掘よりツルハシを売ったほうが儲かることを知っていたのは、以前砂金を採掘しようとしたからかもしれない。

 

指南役はリスクを取らない、しかし嘘もつかない(基本は)。

 

ツルハシ売りがアドバイスしていたのはどこで砂金が採れるかではなく、砂金の採り方であり、正しいツルハシの使いかただったのだろう。

 

 

最近のビジネス界が求めるのは儲け一辺倒になって来ている。

 

それが本音でも、以前はもっとオブラートに包んでいた。

 

オブラートに包めなくなったのは、商品やサービスの差別化ができなくなったからだろう。

 

 

そうして、なんでも良いから儲けたいという現代版ゴールドラッシュが始まった。

 

一足早く儲け合戦に参入して負けた人々が、新規参入者にアドバイスをする指南役に転じている。

 

ネット上にはこういう人が溢れている。

 

 

ツルハシは今も昔も有料のアドバイスというおせっかいに過ぎない。

 

忘れてはいけないのは、指南役はリスクは取らないが、嘘もつかない(たぶん)。

 

だからカモにされてしまう。

煙たがられる声の大きい人達

声が大きいというのは、大事なことだと言われて育った。

 

小さな声だと伝わらないからだ。

 

人の上に立ち、部下を統率するのにも大きな声は必要だし、エンタメの世界でも声が大きく出せない人は人気も存在感も無かった。

 

だからビジネスや子供教育の世界では大きな声を出すということは良いことだと思っている上司や先生は多いかもしれない。

 

仕事ができる人は、声が大きい。

声が大きいだけで、存在感も説得力が出て、自分の意見が通りやすくなります。

存在感も説得力があると、社内では仕事のできる人という印象が強くなります。

 

 

しかし、Googleで「声が大きい」で検索すると、上位にヒットするのはネガティブなものばかりだった。

 

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もともとは声が大きいということは、自分の考えや意見をはっきり言えるという解釈が一般的だったが、現在ではその意味も残っているが、新たに「空気を読まずに意見を押し付ける」という意味合いが加わってきてるようだ。

 

その場合、声が大きいとは本来の意味であるボリュウムが大きいとは少しニュアンスが違ってくる。

 

わざわざ「フジロック行ってきた」と報告される問題
無干渉社会を望みたい 山本一郎

この時期になると、身の回りで「フジロックに行ってきた」ってわざわざ私に自慢する親父がたくさん出るんですよね。あっ、はい。いや、興味ないんですよね。ギターとか楽器はやってましたけど、忌野清志郎も死んだしパソコン作業中に音楽聞く習慣もなくなったので。いまはもっぱらホワイトノイズ聞きながら原稿書いたり調べものしたりしています。

 

大きな声が嫌がられる現象は、メジャーな存在がマイナーな地位に転落してあがいてる姿を見苦しく感じるのに似てる気がする。

 

声が大きいことの背景に、存在としてメジャーな側にいるという自信と強みがあるように感じられた時代が確かにあった。

 

男性の喫煙率、82.3%!どこでもタバコが吸えた「昭和の喫煙事情」

JR(昭和62年以前は「国鉄」)の中距離電車(東海道線など)には車内に灰皿がついていて、飛行機も国際線・国内線ともに、喫煙席が設けられていました。

小学校でも教室でタバコを吸っている教師がいましたし、学校によってでしょうが、職員室はタバコで煙っていたものです。

 

 

子供の頃からずっとタバコが嫌いだった私は、自分もいつか喫煙するかもと想像することがあったが、全くイメージできなかった。

 

だから友人が未成年にも関わらず、一人また一人と喫煙者になっていくのが全く理解できなかった。

 

「タバコって美味しいのか?」と質問すると、一様に「不味い」と返事、でもやめない。

 

自分がずっとマイナーな側にいることで、大きな声を上げづらい感じを味わっていた。

 

しかし、時代は変わった。

 

 喫煙率が初めて2割以下に!成人の比率が19.8%

特に20代の減少幅が目立っており、男女ともに若者はタバコを吸わない傾向が顕著になっていました。

 

 

大人数が集まるイベントがある。

 

そういうイベントの周りには、行きたくても行けない人が、行ける人の10倍も100倍もいるだろうということが容易に想像できた時代が昔はあった。

 

例えばプロ野球。

 

最近は球場に野球を見に行く人は相変わらず多いが、テレビ中継が少なくなった。

 

球場に行ける人の10倍も100倍もいたテレビで野球を見ていた人が、いなくなったのだ。

 

メジャーな存在であることが自信の源だという人は意外に多いだろう。

 

そういう人達は、ふと気がつくと、自分がマイナーな存在になってると気付いた時、夏だと思っていたのに秋風を感じたときのような寂しさを感じるだろう。

 

 

一方逆のパターンもある。

 

その昔、存在を示す言葉すら無かった「おたく」という存在。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/おたく

辞書的には、ある趣味・事物には深い関心をもつが、他分野の知識や社会性に欠けている人物として説明される。1990年代頃からは否定的な意味は薄れ、肯定的に用いられるようにもなったという。なにかの趣味に強いこだわりをもつ人物という意味でも使われる。

 

その存在が地下に潜っていた”おたく”は、その存在を一般に認識されるまでは、気持ち悪い人というくくりで語られていた。

 

野球ファンの隣に野球ファンがいるのは当たり前だったが、”おたく”の隣に”おたく”がいることはイベント以外ではあり得なかった。

 

そして気がついたら、趣味に強いこだわりを持つ人を肯定的に表現することばとして、超マイナーな存在からメジャーな存在へ移ることができていた。

 

メジャーな存在である”おたく”は、自信に満ちて声が大きくなってるだろう。

 

マイナーな存在がメジャーな存在になる時は、内輪でしか通じなかった言葉に汎用性が出てきたりする。

 

「やばい」という言葉に侵食されてゆく日本語コミュニケーション

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一方でメジャーな地位を追われ、マイナーな地位に追いやられた人達は悲痛な叫びを上げている。

 

通じてた言葉が通じなくなる、そんなイメージが叫びを上げさせるのだろう。

 

メジャーになったりマイナーになったり、地位が上がったり下がったりすると人は声が大きくなるが、仲間内でしか通じない言葉を用いるため、普通の人は煙たく感じる。

裸の王様のような、迷える子羊

最近ネット上で話題になった話を元にした雑談。

 

「自分が苦労していたんだから他人にも同じ苦労させたい症候群」にどう立ち向かうべきなのか

まあ、字面から言わんとしているところは了解していただけると思います。

例えばPTAとか。例えば町内会とか。例えばマンションの自治会とか。

もしかすると企業や学校でもそうなのかも知れませんが、「ある程度長く続いていて、硬直化した組織」では、しばしば下記のような状態が見受けられることがあります。

 

・どう考えても不要かつ無駄な作業が、何故か改善・撤廃されない

 

・改善しようとすると、そこに長くいた人から何故かよく分からない抵抗や圧力がかかり、改善することが出来ない

 

・現在の作業者も全員無駄な苦労だということを認識しているが、嫌々その作業を継続している

 

・本来なら改善を指示するべき上位の人間も、何故か見て見ぬ振りをしている

 

 

 

この話は、学生の部活に関してもよく言われる。

 

間違った(未熟な)仕組みや判断に基いての行動が、改められること無く継続することが日本には多いと感じる、勝手なイメージで外国では少ない気がしてる。

 

根底にあるのが”成仏”に対する間違った考えのような気がしてる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/成仏

成仏(じょうぶつ)は、仏教用語で、無上の悟りを開くこと、死んでこの世に未練を残さずとなること、または死ぬことを指す。

 

日本語の日常会話や文学作品などでしばしば用いられている「成仏」という表現は、「さとりを開いて仏陀になること」ではなく、死後に極楽あるいは天国といった安楽な世界に生まれ変わることを指し、「成仏」ができない、ということは、死後もその人の霊魂が現世をさまよっていることを指していることがある。

 

 

成仏という概念は建前と実際の間に乖離があるように感じる。

 

建前は亡くなった人の霊魂が安らかであることを願っているが、実際の現実社会では死者からの復讐を恐れる気持ちを和らげることを意図してるように感じる。

 

自分が感じた理不尽さに対する恨み辛みの感情を成仏させるために、新しく加入した人に同じ思いをさせようとして上記記事のようなことが改められないまま続いているように見える。

 

理不尽さを経験して、嫌な思いをした人の中には、これ以上嫌な思いをする人を増やさないために改めようと考えた人はいたのだろうが改まらないということは少数派だったからだろう。

 

間違いを改め損なうということが、間違った伝言ゲームを生み出し、この理不尽は全員が味わうのだから我慢しろ、そうすればやがて理不尽を押し付ける側に回れて成仏できるぞとメッセージが伝わったように見える。

 

間違いを改め損なったのは、自信の無さが原因だろう。

 

自信がないから「No」が言えない、村八分が怖いから「No」が言えない、でも「No」が言えないから成仏できない。

 

間違ったポジショントークを正当化させるために、負のループを繰り返す間違った伝言が繰り返された。

 

 

 

 

【格差社会】『貧乏な家』がどうなっているか知らない人が多くなっている?「貧乏な家の友達なんていなかった」

 

高度経済成長の前の日本は、一億総貧乏と言われた時代があったらしいが、意味するニュアンスは近いかもしれないが、受取るイメージは全然違う。

 

一億総貧乏には、絶望のような悲観や嘆きを感じない(これ自体が間違った理解かも知れないが)、だって皆いっしょだから(赤信号皆で渡れば怖くない)というニュアンスが感じられる。

 

貧乏が普通だったが、格差が拡大すると、絶対性ではなく相対性で全てが位置づけられるようになる。

 

最近の日本は貧困化しているとよく言われるが、これは相対的な位置関係を示し、昔の貧乏とは意味が違う、金はなくてもモノはあるしインフラだって整っている。

 

昔と違い、所属や帰属が社会の中の接点の中心になったので、色んな意味で似てる人(価値観、収入、住んでる場所など)としか付き合いがなくなる。

 

そうなると隣は見えるが、隣の隣はもう見えなくなる。

 

 

話題になったニュースから感じられることは、情報は増えたが視野は広がってないかもしれないし、間違ったことを間違ってるとわかりながら信じているかのような行動を取り続けるという意味で、人間というのはつくづく裸の王様的な迷える子羊だなと思った。

流動性を身に付け、溺れないように生きよう

流動の反対は固定。

 

一番多い使いかたは”資産”についてだろう。

 

流動資産と固定資産、換金のし易さで使い分けをしてるがざっくりいうと流動資産とは現金や株など現在価値がわかりやすく、現在価値で評価してもらえる資産で、固定資産とは土地や建物のように、現在価値がわかりにくくかつ取引が完了するまでに時間がかかる資産だ。

 

最近は、人に対しても用いるようになり、人材の流動化を図るなんて使いかたが出てきた。

 

人材の流動化の反対の人材の固定化は、終身雇用のような1社で働く、あるいは1部署、1分野だけで働くことを意味するだろう。

 

固定状態が、変化しないことを意味するのに対し、流動化とは変化する(し続ける)ことを意味する。

 

価値の変動が大きいのが流動性の特徴で、固定性はその反対だと思われている。

 

ついつい安定してることを良しと捉える我々は、固定に魅力を感じ、変化を嫌悪しがちとなる。

 

 

 

堀江貴文氏 儲け話のリスクを最小限に抑える工夫とは?

私が他の起業家よりも、資金集めがうまかったり、多少は世間的に発言力を持てるようになったりしたのは、「裏社会とは絶対に関わらない」など、小さな決め事をいくつも守り、リスクを避ける工夫を不断に積み重ねているからだ。運や勢いだけで、やっているわけではない。

 

価値が目まぐるしく変動する世界にいる人には、要の部分は変化させないという特徴があったりする。

 

好き勝手にやってるようにみえるホリエモンだが、自分の心のなかの流行り廃りという流動性に乗っているだけではなく、動かず固定させてるものも持っているようだ。

 

だから溺れないのかもしれない。

 

 

当然だと思われてる価値観は固定観念となり、その価値観に変化が出てもすぐに反応できない。

 

マンションの駐車場は、入居者の利便のためとその収益を修繕積立金に充当するという欠かせない目的のために設置される。

 

バブル景気の頃は、駐車場の確保は社会問題化し、新築マンションは戸数分の駐車場が敷地内に確保できなければ売れないと言われるようになった、しかしそれから10年後には駐車場の利用率低下が一部で顕在化し始めた。

 

住宅ねっと相談室 あらかると 「高齢化でマンション駐車場の利用率が下がってきた」 2005/7/27 掲載

今までは、駐車場の数が不足して、住民間の調整に頭を悩ませることがほとんどだったのですが、最近、駐車場の利用率の低下という新たな問題が現実化してきました。まさに、少子高齢化社会現象が実感できますね。

 

当初は、少子高齢化のせいだと思われていた駐車場利用率の低下は、今ではほぼすべてのマンション共通の問題になった。

 

エコが表す、駐車場と駐輪場の変化 2017年07月28日

最近、マンションである異変が起きています。それは、今まで満杯だった駐車場の枠に余りが出る一方、駐輪場に入りきらないほど、自転車が増えているという事態です。どうしてこのような異変が起きたのでしょうか。

 

駐車場に対する強烈な固定観念は20年も持続しなかった。

 

 

実生活の場では安定や固定は好まれるが、エンタメの世界では変化や多様性が求められる。

 

「シーマン人工知能研究所」の斎藤由多加さんにインタビュー。『シーマン』が次世代会話エンジンのヒントになる!?

斎藤今までもっていた名詞や動詞といった決まりごとを取っ払ったら、まったく違う文法体系が浮かび上がってきて、僕たちはそれで会話しているんじゃないか?と思ったんです。

調べてみると日本語の文法は半分以上が戦後に作られたもので、かなり後付けでした。その文法で何かが組み立てられたのか? あるいは組み立てられるのか?って頭の良い人が今みんな困っちゃってるんですよね。ゆえに日本語は遅れに遅れていると思うんですけど、それを壊すだけではなくて、もっと上手い形にできたらいいなと思いました。

 

 

 

 

斎藤:これはよく聞かれる質問なんですけど、今の会話エンジンができるまでは作る気がないです

なぜかというと、固定長の会話……、つまりあらかじめ用意されたシナリオの会話にのっとってシナリオが分岐して会話が変わっていっても、結局のところ分量を変えただけの固定長会話なんですよね。お決まりの会話だけこなしてしゃべらなくなるロボットみたいなのは、もうやりたくないんです。

順番が無ければ長さも固定されない、シナリオが無くてもしゃべる自立型の会話を僕は勝手に“AI”と呼んでいるんですけど、それが完成しない限りは作りませんね。

 

 

 

 

斎藤:究極かどうかはわからないですけど、当面僕が重要だと思っているのは言葉と言葉の間(ま)です。

 

間というのは白い間だけでなく、ため息なども含むもので、「疲れたぁー……」って言ったら「疲れた時には○○がオススメです」みたいに返すのではなく、「どうしたの?」って慰めてくれるような、そんな機能はいわゆる昨今の音声アシスタントには入っていないと思うんです。人の気持ちを汲み取ってくれるようなことが『シーマン』の役割なんじゃないかなと思っています。

 

 

固定長の会話が意味するのは予定調和だ。

 

言葉の場合、固定の反対は流動になるかどうかはよくわからないが、予定調和の反対には自由な伸び伸びした自然な反応を感じる。

 

だとすれば言葉の流動性は個性に通じるかもしれない。

 

と思ってるところにこんな記事が出てきた。

 

チャットボットのボブとアリスが突然英語での会話をやめて、2体だけに通じる独自言語で話し始めたため、フェイスブックが機能を停止した。

チャットボットは最初、機械学習アルゴリズムに接続されていた。ボットには、会話スキルを高めるためにメッセージを送り合うよう命令されていた。ボットは独自言語を開発するだけでなく、話し合い改善のための戦略も策定した。

 

想像だが、汎用性を身に付け高めるために機械学習アルゴリズムに接続されていた2体のボットは、汎用性を身に付けるより、2体の間で通じる言葉を見つけるほうが簡単で合理的と判断したのだろう。

 

2体の間で通じる言葉とは、まさに固定長の会話だろう。

 

 

一般的に用いられる流動性があるとかないというのは、今や経済用語になった。

 

そこで流れているのは貨幣的な価値だ。

 

動かない人間の周りで、いろいろなものが流れることで世の中が成り立っている。

 

地球温暖化で水の循環が変化している。

 

豪雨や洪水の被害はすぐにニュースになるが、水が無くなったというニュースは伝えられない。

 

総量は変化してないのに、増えた減ったと一喜一憂する。

 

 

時代は、固定された状態を解除し、動けるように仕向けている。

 

 

溺れないように流される術が求められているような気がする。

 

どっしり構えていればよかった時代とは、求められる能力が全く違うだろう。

一番怖いのはやはり人間かもしれない

幻肢という症状がある。

 

無いものがあると感じる、しかもそこに確かさも存在するという不思議な感覚らしい。

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/幻肢

事故や病気が原因で手や足を失ったり、生まれながらにして持たない患者が、存在しない手足が依然そこに存在するかのように感じること。

 

かつては、「切断面に近い神経の末端部の神経腫が刺激を発してるためである」「脊髄の感覚ニューロンが自発的に活動しているためである」と考えがあった。しかし、元々持っていた手や足を事故で失った患者の例では神経腫を取り除いても幻肢は消えず、脊髄の脳に近い部分まで損傷を受けている患者でも幻肢が起きる。このことから、そういった脳外の神経が原因ではなく、脳内の神経回路網が自発的に活動することで幻肢が生まれている、という考えが有力である。

 

 

 

この幻肢症状は、亡くなった人を忘れられない残された人の想いに似ている。

 

故人のために行うとされる葬儀は、残された人の故人に対する幻肢に似た想いを癒やすためと考えるほうがしっくり来る。

 

失っているのに、あった時の想いだけが生きつづけるという現象は、人間活動の全てに当てはまるかもしれない。

 

"油断"か"あきらめ"か、失い続ける日本

精神分析の勉強のためにアメリカに行くと、その度に発見がある(私が気付くのだって少し遅れるが、日本の多くの人は気付いていないはずだ)。

今回の発見は、トイレとラジオとカーナビだ。

 

公衆便所の男性用トイレが、かなりの割合で「ウォーターフリーテクノロジー」というものになっている。水で流さないのに臭くならないし、汚れもつかないという便器である。水が少ない国が多い中、資源の有効利用という点では高く評価できるし、恐らく小便器の分野では日本製より世界的にずっと売れることだろう。

 

水が豊富な日本では、水を活用することはお手軽でコストも安いが、その強みは弱さになることもあるという意味では、あったはずの戦う土俵が気がついたら無くなりかけてるという状態かもしれない。

 

続いてラジオについてだが、私のお気に入りの局があるのだが、半径80キロくらいがエリアのようで、ちょっと遠出をすると聞こえなくなってしまうのが難点だった。

今回借りた車ではFM局の受信機能がなかったので、仕方がなく「SAT Radio」というのを聞いてみた。

ジャズだけでも5、6局あり、その中から好きなものを選べる。衛星放送だけあって、今回は500キロくらい遠出をしたのだが、まったく同じ音質でどこでも聞ける(トンネルに入ると聞こえないが)。途中で聞こえなくなって局を変える必要がないのだ。これなら、広大なアメリカのドライバーにも受けるだろう。

 

 

このラジオの受信状況は、国土のの広大さは関係ない。日本でも全く同じだ。むしろすぐに山間部にさしかかる日本のほうが電波状況は良くないかもしれない。

 

強みを活かすのは鉄則だが、弱みを強みに変えるという発想は必要だろう。

 

そうしないと、簡単にあったはずの強みをなくしてしまう。

 

数年前は、アメリカのカーナビには渋滞情報がなかった(今でもレンタカーのカーナビは渋滞情報がついていない)ので、都市部では不便だった。高速道路はタダとは言え混むことが多いのだが、カーナビでは早く着ける一般道も教えてくれない。アメリカはダメだなと思っていたら、ITの時代になるとGPSによる位置情報の精度の良さを活かし、SNSと連携してリアルタイムの投稿を渋滞情報に反映する機能を持つアプリが登場した。

日本ではGoogleが似たような機能を提供するアプリを提供しているが、まだ情報提供者が少ないのか、普及が遅れているのか、日本では既存のカーナビを使う人が多いように見える。私の経験では、Googleのアプリの到着予測時刻はそんなにあてにならないと感じるが、それでも日本の旧来のカーナビよりはるかに使い勝手がいい。日本のカーナビは世界一とされていたが、地元の日本でも、アメリカの会社に駆逐されるのは時間の問題だろう。

 

 

日本が勝っていると思って油断していると、いろいろな分野で知らないうちに抜かれていることが多いことをまさに痛感した。

勝っていると思って油断していたら、もう世界で勝負できなくなったものはいくらでもある。

勝っているという油断以上に怖いのは、勝っていないのに勝っているという誤解から、もっと負けることだ。

 

 

あるはずのもの(あったはずのもの)が無いという状態を見てみたが逆もある。

 

無かったものが現れるということも起きている。

 

 

「包茎を作った男」高須院長が整形産業について語る

西原: だってこの人ですよ? 包茎を作ったの。で、日本中の男を恐怖のどん底に陥れて。おもしろいほどお金が入ったんだって。

 

高須: うん。だってね、産業は作らなきゃなんないんですよ。ほっといたらいつまでたっても美容整形って同じことばかりやってるんですよ。AV女優との対談になって、「どういう男性が好きなの?」「どういう人でもいいけど、包茎だけはいやです」って答えて。それからどんどんブームになって、1日300人くらい手術してましたね。

 

 

薬の売上げは名前で決まる!?

実は、医薬品の名前は、薬の効果をなぞらえたり、ターゲットを狙ってつけられているのだとか。

 

上手いネーミングや広告宣伝で、需要を新規に作ったり、潜在需要はあるけど買いづらい商品のネーミングをなんだかわからない名前にして、買いやすくしたりということで需要の顕在化を図るというのは言われたら気付く戦略だ。

 

幻肢にヒントを得て夏の怪談でも語りたかったのについつい脱線してビジネスに絡めてしまった。

 

幻肢は謎も多いが、脳内に原因がありそうという意味では、実は幻ではない。

 

症状は違うが、似たイメージがあるのが”金縛り”だ。

 

高校時代の友人で金縛りに頻繁に会う人物がいた。

 

聞かされる体験話はとてもリアリティがあり、本人は心霊現象と捉えていたし、当時は金縛りは心霊現象以外の解釈が存在してなかったと思うが、今や睡眠中の金縛りは医学的に解明されてるらしい。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/金縛り

医学的には睡眠麻痺と呼ばれる、睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態。不規則な生活、寝不足、過労時差ぼけストレスなどから起こるとされる。

 

覚醒状態においての「金縛り」というものについては科学的にはほぼ未解明であり、精神的なものに起因するとされることも多い。

 

良いことも悪いことも、人間が起こすことの大元は脳内で作られている。

 

最近人工知能(AI)の議論が盛んだが、AIも幻肢や金縛りのような現象を起こすのだろうか?

 

「AIが人間の仕事を奪う」ことより、もっと深刻な問題があった! :田原総一朗

たとえば、もし戦争で自律型兵器が使用されたら、どうなるのか。そして、もし人間による歯止めが効かなくなったら、どうなるのか。

 

マーク・ザッカーバーグとイーロン・マスク、AIをめぐって対立

しかし、もしもコンピューターが人間と同等の知性を持った場合、そこからさらに進化した「超知性(スーパーインテリジェンス)」になるのは、あっという間だと多くの専門家は考えている。

 

AIに関しては、専門家でも楽観的な考えと悲観的な考えが存在するが、指示(プログラム)通りに動くことが前提だ。

 

1968年に公開された映画「2001年宇宙の旅」では、人工知能搭載コンピューターHAL9000がノイローゼを起こす。

 

HAL 9000

探査ミッション遂行のため、HAL 9000は乗員と話し合い協力するよう命令されていた。しかし一方で、密かに与えられたモノリス探査の任務について、ディスカバリー号の乗員に話さず隠せという命令も受けていた。『2001年宇宙の旅』では、これら二つの指示の矛盾に耐えきれず異常をきたし、ユニットの間違った故障予知をはじめるなど奇妙な言動が起こり、最後には自分を停止させようとする乗員を排除しようとしたと考えられている。乗員が(死んで)いなくなれば永遠に話さずに済む。ミッションは自分だけで遂行すればいいとHAL 9000は考えたことから、「コンピュータの反乱」の象徴ともなっている。

 

 

映画では、AIは指示の矛盾に耐えきれずに異常をきたした。

 

これは、AIに幻肢や金縛りが起きたということかもしれないが、そもそもは人間が施したプログラムの欠陥が原因だとすると、人間の脳が起こすことになる。

 

AIよりも怖いのは人間ということになりそうだ。