勝負に関することわざや慣用表現は以下のようにさまざまある。
- 勝てば官軍負ければ賊軍
- 勝負は時の運
- 勝負は下駄を履くまで分からない(下駄を履くとは帰り支度をするという意味)
- 勝負は戦う前に決まってる(ついている)
- 負けて勝つ
- 負けるが勝ち
どれもが同時に成立することはないが、そのいずれもが状況次第では、いつ、どこで、誰が(に)、何に関して、どのように、起きてもちっとも不思議ではないことを私たちは知っているし感じている。
要になるのは5W1Hの残された一つであるなぜだ。
なぜに関して番狂せや想定外が起きる場合には、広い意味での盲点が隠れている。
このなぜに答えがありその答えに再現性があると期待すればこそ、そのなぜの答えは秘訣やノウハウとして珍重される。
しかし、その秘訣やノウハウはテクニックのようでもあり心理学の駆使のようでもある。
いろんなことが分かれば分かるほど状況の説明や解説はできても再現性があるとは思えない部分も感じられる。
勝ち負けというのは単純ではなく複雑だということだ。
勝ち負けがスポーツのようなものであっても奇跡や偶然のような要素が決め手になる場合は少なくない。
現実の人間社会ではスポーツの奇跡や偶然の代わりに騙しや暴力や脅しが機能することが多い、その場合の騙しや暴力や脅しはある意味では心理学の駆使でもある。
勝ちたいと思う人はいても負けたいと思う人はいない。
負けたいと思う人はいないが、負けても構わない、なんなら負けてあげる、そんな気持ちになることはあり得る。
勝負の世界にはさまざまな思惑が渦巻いている。
勝負などしていないという勝負の世界すら存在している。
つまり、すべての人が、生きている限り勝負をしているのだ。
いったい誰と戦っているのか、何と戦っているのか?
そのことに対する答えは持っておいた方が良いだろう。