あんなに好きだったのに今は何とも思ってない、場合によっては嫌いにすらなっている、そんなことは誰にでもあるかもしれない。
思い当たる人はすでに具体的な何かを思い出してるはず。
該当するのは人間関係だけではない、趣味や遊びなど極めて個人的なものまである。
きっかけは何だったのか?
脳裏をよぎる一般的なことばは飽きただ。
飽きたを広く解釈すると、必要が無くなったも含められるし、優先順位が下がって割り当てる時間が無くなったも含まれるし、予定調和ばかりで新鮮な感動が無くなったとも言える。
大事なのは飽きた理由だが、それは人それぞれだから単純化は難しい、だから飽きもせず続けてるものを考えたい。
誰にでも当てはまるのが自分自身だ。
自分自身に飽きないために続けてることがあるから人は生き続けてるのだ。
いろいろな理由や理屈や大義名分をつけるから生き続けられるのだ。
しかしそんな理由の数々は実は真の理由ではない。
だから自分探しがやめられなくなる。
自分探しという表現はバカにされがちだが、自己実現を追求すると置き換えても意味はまったく同じ。
人間社会も弱肉強食だと言われるが、本当に弱肉強食だったら自分探しや自己実現なんて概念が出てくるわけはない。
自分自身を続けるためには、自分が納得できる理由が必要になる。
自分が納得できる理由を、自分自身を相手にプレゼンを繰り返し続けるのが生きるということで、それが死ぬまで続くのだ。
この作業を楽しめる人が幸せなのは言うまでもない、他人からどう見えてるかはあまり関係ないのだ。