最近こういう記事を目にした。
今の子を育てるには、コピーには時と場合がある、そして今回はダメな場合だよってところから教えなきゃならんのだろうか。
いわゆるコピペを嘆く記事なのだが、PCテクニックとしてコピペが普及し定着して以来折りに触れ似たような指摘が繰り返される。
「コピー&ペーストは本当に悪いのか? 学生の「コピペレポート」に憤慨する大学教員に異議あり!」に異議あり!
コピペにはお作法があり、普通は”引用”という形態を取る。
検索するとコピペが問題として顕在化したのは2009年頃からのようで、教育の現場で目立ち始めた。
秋田県在住の中学3年生が応募した詩の作品が、第19回「詩と思想」(土曜美術社出版販売)の新人賞に選ばれたが、この作品はインターネットからコピー・アンド・ペースト(以下、コピペ)した盗作だったという。
このニュースを見た多くの教育関係者は、おそらく「いつかは起こると思っていた」と感じたのではないか。
このコピペ問題をややこしくしてるのは2つの点がごちゃごちゃになるからだと感じてる。
一つは、作法を守らないコピペが著作権を侵害することになるということと、二つ目は作法を守ったとしても引用部分が占める割合が多すぎると新たな著作物とはいえないのではという点だろう。
コピペが普及する前だって、文献から丸写しなんてレポートや論文の至る所にあっただろうが、手書き部分が多いとオリジナリティが出たり、少し言い回しを変えればチェックのしようがなかったかもしれない。
ビジネスの世界では、商品やサービスの差別化が難しくなっている、同様のことが著作や研究の分野でも起きているのかもしれない。
根本的な差別化が難しいから、重箱の隅にオリジナリティを求めてしまう。
だから、先に差別化に成功するとその手柄を権利として確定させたくなるのだろう
言い換えると、誰でもできるであろうことを競い合ってるので早い者勝ちという価値に囚われるからだ。
一方、コンピューターを取り巻く世界では一部だがオープンソースという考え方がある。
これは、先を目指すためには競争よりも協力・協調の方が成果が得られやすいという考えに基づいている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/オープンソース
1.自由な再頒布ができること
2.ソースコードを入手できること
3.派生物が存在でき、派生物に同じライセンスを適用できること
4.差分情報の配布を認める場合には、同一性の保持を要求してもかまわない
5.個人やグループを差別しないこと
6.適用領域に基づいた差別をしないこと
7.再配布において追加ライセンスを必要としないこと
8.特定製品に依存しないこと
9.同じ媒体で配布される他のソフトウェアを制限しないこと
10.技術的な中立を保っていること
先を目指すためにコピペを推奨するという考えは成立しないのだろうか。
かつてコピーライターという職業がもてはやされた時期がある。
広告業界の人やコピーライターに憧れてる人がしきりに口にしてたのが、「模倣はダメでクリエイト(創造)が大事」というセリフだった。
しかし、言論界では「創造は模倣のアレンジであり、要素の組み換えである」というのは定説だ。
比喩的表現は違う言葉に直し、裏づけとなるデータは独自に引っ張り、引用文献には必要ならば図書館で直接アクセスし、別の同義文からの引用に差し替えたりした。300字程度の元ネタから4000字程度の文章を起こすことぐらいは、余裕で出来るようになった。
これぐらいやれば、まずコピペレポだとバレることはない。なぜなら、ここまでの作業を通じて引用文献は自分なりの咀嚼が加えられ、大げさな表現をすれば“血肉”となっているから。
上記のようにコピペでも、自分なりの咀嚼が加えられ、自分の血肉のレベルになれば、おそらく外野からコピペだと揶揄されることはないだろう。
コピペは、やり方が問題視されることは多いが、その動機を巡って取り上げられることは無いように感じる。
自分なりの咀嚼を加えてなおコピペする時は、コピペ元の著者の価値観や表現力に共鳴・共感があるはずだ。
だから、脳というか自分自身の中枢が影響を受けてる。
「ですから、成功している人や、この人みたいになりたいと思う人の真似をすべきです。持ち物や使う言葉、企画書の書き方、食べ物、何でもいいのです。そのうちに脳の回路も似てきて、『あの人なら、この場面でどう決断するだろう』ということまでわかるようになってきます。ただし、脳の使い方は1日では変わりません。新しい回路ができるのには少なくとも3週間かかるとされていますから、意識して3週間続けるといいでしょう」
大事なのは、なりたい自分に近づいていくことだ。
自分がコピペ(引用)する場合の気持ちには2つの種類がある。
「自分の言葉で表現するより中立性があると考えられるから」と考えウィキペディアや他のブログや記事を引用する場合がひとつ。
もう1つは、「自分の表現より上手に表現してると感じられるから」と言う気持ちで、今回は引用するが次は自分のことばで表現したいという思いを込めて引用する場合。
あまり意識してなかったが、なりたい自分がいるのかもしれない。