違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

純と鈍

紙と向かい合ってきちんと字を書くことが極端に減ったので、『あの漢字はどう書くんだったっけ?』と思うことがしばしばある。

 

今日も突然わたしの脳内で鈍器や愚鈍の『鈍』と純粋の『純』がごちゃ混ぜになってることに気付いた。

 

ゲシュタルト崩壊の一種なのか、老化なのか、それよりも昔から何事も中途半端だったからかもしれないとも感じる。

 

 

使われ方から鈍にはにぶいという意味や角が丸いという意味があることはよく分かるが、純もピュアの意味合いで騙されやすいというニュアンスを感じると愚鈍に通じるなと思えることから、わたしの脳内ではこの二つの漢字はごっちゃになってしまったのだろう。

 

 

今さらながら純の意味を調べると、混じり気がないと出る、まさにピュアだ。

 

由来としては、蚕の繭から糸を作る作業が糸の純粋さを高める作業でありかつ糸をより合わせる作業だからで、屯にたむろするという意味があることとの合わせ技のようだ。

 

では鈍はというと、刃物の切れ味が悪いや、反応が悪いという意味、由来としては鋭さが薄れ丸みを帯びた状態を指すようだ。

 

鋭い刃物も集めて重ねると鈍器状になると解釈すると、優秀な人を集めた集団なのに大して機能しない集団がいることに通じるなと感じる。

 

 

本来の意味とは違うのに、取り違えて使っても実害はほぼ無い漢字はたくさんありそう。

 

世代が異なるとあるいは同じ人でも年月を経ると、同じことばでも意味が変わることなんて何の不思議もないと気付く。