勝つためには、敵(ライバル)より有利な条件や強力な武器をを得ることが大事だ。
また、有利な条件や強力な武器がない場合は、作戦(戦略、戦術)で工夫する。
そして最後は、一番有利な条件を得た人や企業、一番強力な武器を持ってる人や企業が、最も合理的な作戦も取るようになってきて、一人勝ちとなる。
二番手以降の人や企業は、一番手が合理的に判断した結果捨てた領域でしのぎを削ることになる。
そして合理的に考えれば考えるほど、人間の活躍の場が減っていく。
この点だけを捉えると、つくづくつまらない時代に向かい始めたと感じる。
しかし、こういう偏りが顕著になると、
反対側の価値観が脚光を浴びるようになる。
- 素の人間に何が出来るのか?
- 素の人間に何がどの程度まで出来るのか?
- 最低限の装備で何がどの程度まで出来るのか?
- 同じ道具と同じ環境のもとで自由に創作すると、どのくらいの違いがあるか?
人間が主人公であることを楽しむ活動や競技に関心が向かう。
生活の場では、高度に発達したシステムが完成度の高さを実現し普及してきたので、より上の生活を求めるという興味や関心は薄らいできてるはず。
人間の限界へのチャレンジに対する興味意外に、今日その場所でという一期一会も大事な要素になるだろう。
ルネサンス(仏: Renaissance)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。
また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸のみでなく広義に使われるため現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。
なぜルネサンスは生まれたか
http://www.uraken.net/rekishi/reki-eu30.html から一部引用
中世ヨーロッパを象徴する「封建社会」「カトリック教会」、この2つの存在は人々の生活、考えを束縛してきました。
しかし、これが崩壊するに伴い、人間性の自由と解放を求めるよ
うになります。
それが、14世紀から16世紀に起こったルネサンス(再生)です。イタリアから発生し、そのご西ヨーロッパ社会全体に波及しました。
キリスト教誕生以前のギリシャ・ローマ文化を見直すことで、自分の品性の向上と、人間らしい生き方の追求を図るヒューマニズム(人間主義)を目指し、宗教は否定しないが現世の楽しさも追求しようと言うのが目的です。
こうした考え方を持つ知識人をヒューマニストといいます。
人間は、良かれと思い進み始めた道が行き詰まりの兆候を見せ始めると「人間とは?」と問う生き物のような気がする。
ルネサンスは、「封建社会」「カトリック教会」が束縛した生活や考えから人間性を取り戻すためのものであり、そのきっかけは、支配的であった「封建社会」「カトリック教会」という価値観が崩れてきたことに端を発していると言われてる。
今行き詰まりを感じさせているのが、高度に発達した「資本主義」とそのトレードオフで顕在化してきた「地球温暖化」だ。
人間が、「人間とは?」と問い直す時期が来ているのでは。
ルネサンス期には、キリスト教誕生以前という過去に、この答を求めた。
しかし、今問われてる「人間とは?」の答は、たぶん過去にはない。
このような時に起きるシフトは意図された方に動くという種類のものではないだろう。
リーダーシップに基づく合意で形成されるものではないはず。
だとすると、兆しは自然発生的に生じるはず。
自然に生じる流れがあるはずだ。
その動きをオリンピックに感じる。
多くの人はまだ気付いてないかもしれないが、近い将来オリンピックは破綻すると思う。
もしくは、全く違う形で展開されるスポーツ祭典にシフトすると考える。
wikipediaでは、現行のオリンピックを近代オリンピックと表現。
この中から、ツッコミどころを探そうと思ったが、既に指摘してある。
そもそも運営の有り様が、矛盾をはらんでいるのだ。
根底にあるアマチュアリズムという思想が概念のみで実態が伴わないのだ。
元々、オリンピックは発足当初からアマ選手のみに参加資格を限って来たが、旧共産圏(ソ連やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回IOC総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除した。
さらに観客や視聴者の期待にも応える形で、
プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった(当初はテニスなど限られていたが、後にバスケットボール、サッカー、野球などに拡大)。
問題として上がっている項目を記すと、
- オリンピック冬の時代
オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになる
- 商業主義とプロ化
「オリンピックは儲かる」との認識が広まり立候補都市が激増し、各国のオリンピック委員会とスポーツ業界の競技レベル・政治力・経済力などが問われる総力戦の様相を呈する様になり、誘致運動だけですら途方もない金銭が投入される様になってゆく。
- スポンサー頼みの体質
- ボランティアという無料労働
東京オリンピックで政府がボランティア9万人募集へ!
交通費や宿泊費は自己負担、医療からドーピング検査まで担当!
「誰がやるのか」
- オリンピック不況
などが挙げられている。
詳しくは触れられてないが、ドーピングや国籍の問題も選手個人の問題でなく政治由来の問題として起きている。
スポーツ界に蔓延る「老害」
世界の問題でもあるが、わかりやすいので日本の事例で見てみると。
唖然とする“五輪専門家”の無責任な発言膨れ上がった競技場整備費
“箱もの至上主義”は捨て去ろう
川淵三郎会長は「ただ単に建築コストだけをみて、それをいかに縮小するかというだけで考えてもらいたくない」と述べた。
そして「有明アリーナ」の建設を見直して「横浜アリーナ」に会場を変更する案が検討されていることについて、川淵三郎会長は、「『有明アリーナ』の新設に関して本当に心から期待してるなかで、『横浜アリーナ』を整備してそこでバレーの大会をやればよという見直し案に対して我々としては納得できない」と建設費の削減には賛同したが、既存施設への変更は強く反対した。
また「元あった国立競技場で高校サッカー選手が決勝をあそこで戦いたいというのが子どもたちの夢だった。子どもたちに夢と希望と感動を与えられるアリーナがこの東京オリンピックを契機に出来たことでどれだけ素晴らしいレガシーとして残るかとういうことを考えてみた場合に、『横浜アリーナ』を整備してなんていう発想が出てくるが信じられない」と述べ、レガシーというのは“お金”の問題ではなく、“心”の問題で、世界に誇れるアリーナをつくることが今の日本のスポーツ界や文化団体にとって絶対必要だとした。
東京オリンピック(五輪)予算膨張(その2)
(スポーツ団体のワガママ、ボート「韓国開催」報道、
怪しくなった小池劇場の先行き、東京五輪反対論)
「コンパクト」とウソついた石原氏と猪瀬氏に重大責任
もっとも、現在、組織委会長を務める森喜朗元首相が、10年以上前に当時の石原慎太郎都知事に東京五輪招致を持ちかけた時の目的は、「1964年東京五輪当時の古くなったスポーツ施設を改築、新築するため」だった。
森会長と競技団体は事実上、一体化している。そう考えれば、2度目の東京五輪で施設整備費が巨額になるのは想像できたことだった。
それにもかかわらず、“コンパクト五輪”とウソをついて費用を少なく見せかけてきた石原氏と猪瀬直樹氏の歴代都知事の責任は重大だ。
完全に元凶は老害だ。
主人公であるはずの選手が弱者として存在し、強者である既得権者やスポンサーの意を代弁させられているのがよくわかる。
日本の話しだが、先進国には共通する話ではないだろうか。
そもそもオリンピックとは?
この単純な問にwikipediaでは明確に示す記述はない。
ただ、世界的なスポーツ大会と表現されてるだけ。
メダルの数を競うという意味では、国の競争だが。
メダルは選手(チーム)に与えられるという意味では、個人やチームの競争。
選手が使用する道具やウェアが決め手になる場合もあるという意味では、開発競争と言える。
侍ジャパンを苦しめた日米「ボールの違い」
誰が制球できる投手で、打てる打者なのか
https://ja.wikipedia.org/wiki/レーザー・レーサー
https://ja.wikipedia.org/wiki/ワンメイク
wikipediaではルネサンスに活躍した人のジャンルとして下記の6つが挙げられてる。
- 商業・経済
- 思想
- 文学
- 美術
- 音楽
- 建築
これにスポーツやダンスなど身体活動、身体表現の分野が加わるのではと感じてる。
ここでは、順位を競うようなことはされず、多様性を肯定し、求められるのは、「面白い、楽しい、気持ちいい」だ。
人間がどう行動しようが、地球や宇宙の手のひらの上で動いているだけ、それでも人間が進む方向に明るさがあるとすれば、順位や勝ち負けを競う競争ではない「新しい競争」にシフトしていくはず。
そういう動きを多くの国が取り始めれば、世界に取り残されてる本当に貧困故に苦しんでる国にも最低限の豊かさが行き渡ると思う。
第2のルネサンスに期待したい。