違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

オリンピックは誰のもの?!

今朝の読売新聞にこんな記事が載っていた。

 

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オリンピックの開催の是非を巡る話題はたくさんあったが、それらのほとんどはアスリートの側からの目線で捉えられたものではなかった。

 

アスリートの側から見たコロナ禍とはどのようなものだったのかという視点は、分かってるようで分かってなかったのかもしれない。

 

ざっくりというと、環境の変化によるモチベーションの変化は、従来個人単位あるいはチーム単位で起きるものだったが、コロナ禍では競技単位でも起きていたのだ。

 

個人でタイムを競う競技には、短距離走のように無酸素でひたすら最大パワーを発揮するものと、全力の配分に駆け引きが介入する有酸素種目がある。

 

個人競技に関しての駆け引きに相当するのは、チームプレイだとフォーメーションプレイなのかもしれないが、これらの駆け引きやフォーメーションプレイは、感染対策という大義名分によって中途半端に終わっていたようなのだ。

 

通の観客だったら気付けるかもしれないが、駆け引きやフォーメーションプレイは数値化しにくいので比較し辛いから、結果的に変化に気付きにくい。

 

分かってるようで分かってないのが選手の気持ちなのだ。

 

 

コロナさえ無ければ、オリンピックは誰のものかと問われたら選手のものであり観客のものだと思われていただろうが、コロナ禍で明らかになったのは、オリンピックは政治でありスポンサー企業のためのものだと。

 

私たちのような一般人は、オリンピックに出るようなアスリートの気持ちが分からないように、スポンサー企業の気持ちも分からない。

 

こんな記事が出ていた。

 

 

 

 

読売新聞グループ本社「当社は『安全な大会の実現に万全を尽くすことが大切だ』と社説で繰り返し述べています。ただ、観客の有無については東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の結論が出ていない段階で、お答えしかねます」

朝日新聞社「お答えをいたしかねます」

毎日新聞社「新型コロナウイルス変異株による感染が拡大する中での東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催につきましては、選手やスタッフ、観客の安全が確保される一方で、医療体制に悪影響を与えることがあってはならないと考えており、5月1日付社説でも取りあげたところです」

日本経済新聞社「お答えはしません」

産業経済新聞社「回答は差し控えさせていただきたいと存じます」

北海道新聞社「ご回答を控えさせていただきます」

 

 

 

オリンピックは誰のものなのだろうか?

 

誰のものでもないという答えだけはナシでだ。

 

 

質問は簡単だけど、とても謎と不思議に満ちている。