電通での自殺問題に端を発したブラック企業論争は一段落したと思っていたが、政治経済を論じる専門誌では12月に入っても特集を組んでいたりする。
その記事を読んでいて、もう一度ブラックを考えて見ようと思った。
ブラックは、過度な長時間労働が体や心に悪影響を及ぼすから悪だと捉えられた。
しかし、長時間労働自体は以前から多かったはず。
最近になって問題になったのはなぜだろうか?
今も昔も、残業代を稼ぐための残業というのがあるがこれは除く。
そして以前は会社への忠誠心を示すための残業というのがあった。
この忠誠心とやらは、今の時代は生きているのだろうか?
「他の人より先に帰りづらい」や「帰ることを咎める無言の圧力」を感じることはあっても忠誠心というアピールは無いような気がするがどうなんだろう。
忠誠心は、年功序列で勝手に昇給する仕組みに対する後ろめたさもあったのでは。
業績を上げて頑張ってる人より勤続年数が長いと言うだけで業績も上げないのに高い給料をもらってるということへの後ろめたさだ。
しかし、この後ろめたさは高い給料をくれる会社への感謝とも結びついただろう。
少々体がきつくても、嫌々ながらであっても、自分のため、家族のためと割り切れたら許容する余地もあっただろう。
しかし、最近の長時間労働は少し違ってきてるように感じる
残業代のため、自分のため、家族のためと割り切ることが難しくなってるのでは。
あらゆる業種、業界で長時間化、24時間化が珍しくなくなり、いつでもどこでもを可能にしている。
遅れたり、不備があるとすぐクレームになる。
クレームが生まれやすい背景もあるが、企業側以外の理由も多いので、クレームについては取り上げない。
そう、すべてがサービス産業化しているのだ。
残業は、どこまでやれば終わるかが見えれば、やる気になるが、「サービスが悪い」と言われないために頑張るのはツライ。
サービス産業化が悪いのではなく、誰が得するのか分からないサービスが展開されていることが悪いのだ。
サービス産業が「サービスの押しつけ産業」になっているのではないだろうか。
日本人の半分以上が、モノゴトに悲観的な傾向を持つ人であるとも
言えるわけだ。
あくまで仮説だけど。
ただ、悲観的な傾向を持つ、確実性を重視する性向が強い集団は、
同質性を好む方向に行きやすい。
みんなが真面目にコツコツやるのが前提の集団で、
一人だけズルしてサボったらその人だけが得をしてしまう。
一人二人なら良いが、その人たちを見てみんながサボリ始めたら、
集団全体に被害が及ぶ。なので、
悲観的な傾向を持つ人たちは、そうなる前に
「裏切り者」を探し出して排除する仕組みを発達させる。
サービスの良さを評価された企業があれば、それを安易に取り入れる。
そして、心が伴わないサービスに、する側もされる側もうんざりしてしまうが、サービス合戦は終わらない。
サービスを「ホスピタリティ」に格上げしようとすらしている。
ホスピタリティとは接客・接遇の場面だけで発揮されるものではなく、
人と人、人とモノ、人と社会、人と自然などの関わりにおいて具現化さ
れるものである。
サービスに「する人」も「される人」も疲弊してる
この動きは、サービス産業が、提供すべきサービスが何かわからなくなってきてるように見えないだろうか?
ブラック問題は、長時間労働だけがクローズアップされるが、人件費削減とセットで問題は起きている。
長時間労働の根本的解決は人を増やして役割分担することだが、その選択肢は無い。
だとすると、簡単には解決しない。
解決するには、サービス産業化から抜け出すしかない。
抜け出すと言っても撤退ではなく、次の価値を作る必要がある。
日本に関する限り、「便利や快適」は一定の水準に達している。
今は、「より便利、より快適」を求めて行き詰まってるのではないだろうか?
「より」を求める間で、便利や快適を求める人間自身が疲弊してるという皮肉な現象が起きている。
望まれないサービスを、したくないのに続けてるうちにホワイト状態がブラックになっているかもしれない。
現場で事件が起きるのは、現場にいない人や現場に来ない人が間違った仕切り方を現場に押し付けてるからだとすれば、問題なのは現場ではない。
仕切る側の間違った方針がすべての原因である可能性が高い。
方針の前提になってるコンセプトを疑う必要がある。
だとすると今まで敬遠してた何かにヒントが見いだせるかもしれない。