https://ja.wikipedia.org/wiki/生産性
生産性'はより少ない労力と投入物(インプット)でより多くの価値(アウトプット)を産みたいという人間の考えから生まれてきた概念である。リソースとリターンの関係性とも理解される。
- 生産性=アウトプット/インプット
生産性が低い状態から高生産性は自然にシフトが起きる
手作業の場合は、①器用さ②道具の活用③材料の工夫④デザインがポイントになる。
ここで発揮される人間の能力は、専門分野を作るだろうが、分野が違っても応用が効くという汎用性や多様性が生じる。
人間の熟練が機械化され、更に自動化されることで生産性が上がるが機械化の場合は、機械の操作やメンテナンスという管理部門に重きがシフトする。
ここでは人間の能力は、狭い領域に特化することで発揮されるので、その機械やその現場でしか通用しないということに繋がり、汎用性が弱くなる。
汎用性が弱いということは、関わる人間の代わりが容易に準備できないことを意味する。
現場における熟練度が評価されるが、その現場でしか通用しないというジレンマを生む。
この汎用性の弱点を克服したのが自動化だ。
この流れは現場から人間を排除する流れでもあるし、関わる人が誰でも構わないと言うことを目指す。
熟練度の高い人が必要な現場が、簡単な教育を受けた人でも務まる現場になり、自動化で誰でも務まる現場になった。
生産性という概念は、分業のマネージメントということとして生まれ発展した。
機械化が部分的な頃に生まれた概念で、歩留まりを上げると言う意味で使われ始めたのではないだろうか?
「高い生産性=高度な制御」という意味で使われてるような気がする。
機械化やコンピュータ化による自動化と教育を受けた人間のリテラシーの高まりが飛躍的に生産性を高めてきた。
生産性は高めるのは限界がある
しかし、人工知能が出現し、先進国の少子高齢化(少産多死化)が進み、新しい仕組みと陳腐化・老朽化する既存の仕組みの混在が露呈させたのは、人間そのものが不安定な存在だということだ。
どんなに能力を高めても、肉体と感情がある以上、集中力を持続させることに限界があり、バイオリズムのように周期的なムラが人間の行動には付き物だということが無視できない状態になってきてるのではないだろうか?
おまけに長寿社会では、老化という負の側面もクローズアップし始めてる。
そもそも生産性とは
工業化が促進する機械化や自動化が意味する生産性は、読んで字のごとくわかりやすい。
たぶん誤解も少ないであろう。
タイトルが女性となってるが、男性にも当てはまる。
ややこしいのは、人対人の現場にも生産性という概念が持ち込まれたことだ。
ここでは、根拠の乏しい売上や利益の目標が掲げられる。
その数字を、社員に割り振りノルマにする。
日本では、その目標の達成率が高いことを生産性が高いと表現する傾向がある。
時間をかければ達成できる可能性が高ければ、長時間稼働が促進される。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」が成り立つ場合に当てはまるのが長時間稼働だ。
こうして、「出来る奴は長時間働く」というセオリーが出来上がる。
時代が進むと、下手な鉄砲では当たらなくなってくる。
そうすると考えられる方法は、
- 上手な人を探す
- 鉄砲を良くする
- 鉄砲以外の道具(方法)を探す
そうして導入された考え方が、誰でもできるようにするというマニュアルに基づく方法だ。
ここで要求されるのは、マニュアルを理解し、マニュアル通りに行動する能力だ。
そして、現場を側面支援するように機械化と自動化が進み、マニュアルを実践するハードルがドンドン下がり、誰でも出来る化が加速した。
結果、設備投資というイニシャルコストは発生するが、人件費というランニングコストが減少することで利益を確保でき、人という資産の重要度を下げることで生産性を上げてきた。
そして今、新たな生産性が求められ始め出した
人という資産の重要度を下げることで生産性を上げた社会では、当然のように人の能力が下がってしまっている。
下がった能力は、自ら考え答えを見つける能力であり、答えが不明なことに取り組む能力だ。
この下がった能力は鍛えることは可能だ。
今後要求される生産性の高さを考えると、最も注目されるのは「個人が持つリソース」になる。
ベースになるのは、「発想力やアイデア」で、それを上手に表現する能力だ。
また、嫌でも長生きするかもしれない時代の幕が開いたように見える最近では、生産性の概念も変わりつつあるのではないだろうか。
1企業や国家単位で計測されていた各種指標があまり意味のないものになりつつあるのではないだろうか。
勝つことを目標にするのが、民主主義下の資本主義だ。
なぜ勝ちを目指すのか?
勝てば幸せになれると思うからではないのか。
じゃあ、勝って幸せになってるのだろうか?
そういう疑問が、数年前から「勝ち」を目指す最先端でも生まれてるようだ。
ハーバード大学の調査。老年期の健康と幸福、温かな人間関係が
「素晴らしい人生」と強い相関関係を持つ (2013年)
これまで目指したのは、幸せに結びつかない「勝ち」が多かったのではないだろうか?
生産性という見方で捉えると、負の側面を多く作り出したのではないだろうか。
戦争は直接「死者や怪我人や病人」を作り出した。
そのことが、技術を発展させ、医療を発展させたかもしれない。
戦争が経済競争になり、地球環境や生態系を変化させながら、間接的に自然災害や人的災害や心の病で苦しむ人を作り出している。
このベクトルは、生産性の高さに結びついてるのだろうか?
昆虫が好きで、昆虫の生態に人間が学ぶことが多いと感じる養老孟司さんは、「文明とは秩序であり、秩序とは変化しないものを作り出すことであり、それには変化するものをコントロールするか、人間の社会そのものをコントロールして自然との折り合いをつけるかの二通りの方法がある。」と語っている。
一般に語られる「生産性を高める」ということは、「時間の短縮」で実現されている。
高生産性が「時間の短縮」を求めるのは効率が良いと考えられてるからだろうが、今求められるのは更なる「時間の短縮」だろうか?
「時間の短縮」が生んだ高生産性を実現した現代社会は本当に生産性が高いのだろうか?
見えてない、いや見ようとしない負の側面も含めると生産性は極端に低いのではないだろうか。
化石燃料を枯渇させるほどエネルギーを使いながらその代替の準備もできてない。
核廃棄物の処理もできないのに、核開発をしている。
地球資源や環境の有限性がわかっているのに、まだ貪ろうとしている。
今使われてる「生産性」は持続可能性を無視して語られている。
これからの生産性は持続可能性を備える必要がある。
今求められる効率の良さは、「リソースの有効活用」にシフトしなければいけない。
リソースの有効活用というと、エネルギーや資源や環境の事という、人間の外部にあるものという印象が強いが、それにとどまらず個々人の内側にあるものも含まれる。
変化の時代を迎えてる今、多くの人は持ってたものを失ってる事に気づき始めてる。
安全や安心は当たり前で、努力は報われると思われていた時代がなつかしい。
この数十年で、大学進学は珍しいことではなくなり、インターネットや各種デバイスの発達もあり多くの人にとって知識のインプット量はすごく多いはずだが溜め込まれてるだけかもしれない。
これも立派なリソースではないだろうか?
インプットされたリソースをアウトプットすることを考える際に、ビジネスの習慣でマネタイズすることを第一に考えてないだろうか。
そしてマネタイズのイメージが浮かばないとそこで終わりにしてないだろうか?
これは非常にもったいないことだと思う。
人が持つリソースには人間関係があるが、一般に語られる人間関係は、友人知人を始めとするリアルな接点を持つ人間関係であり、また俗にコネと言われる既得権益者とのリアルな繋がりを意味する関係がある。
生産性が高いと評される人の中には、ただ単にコネがあるだけの人も多い。
プロセスではなく結果のみが重視される社会では仕方ないが。
人間関係というリソースが生産性の切り札になる
多くの人にとってリアルな人間関係は新たな武器にならない。
そんな人にとってアウトプットを通じて新たな人間関係が出来るとしたら、おもしろいのではないだろうか。
この場合のアウトプットとは何でも構わない。
そこに自分自身の身体性や価値観が表現されてさえいれば、伝わる相手には伝わる。
リアルな知り合い以外と共感を感じられる関係が築けることが、何かをスタートさせるのではないだろうか。
こういう結びつきも、生産性を高めると言う中に含めても良いのではないだろうか。
ヒエラルキーを作るような結びつきではなく、脳細胞のシナプスが繋がるような人間関係を多くの人が作れれば「リソースの有効活用」ができ生産性が高まると言える。
ニューロンとシナプスの働きと構造とは。発火や結合を脳内で効率的に起こすには
こういうことが可能になれば、従来型のビジネスはヤクザな仕事と言われるだろう。