違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

歴史は前にしか向かえない

日本でかつて「一億総中流」が成立していた頃と今の違いを「世帯」という観点で見てみたい。

 

一人暮らしの不思議

 

記憶があいまいだが、たぶん1980年頃のはなし。

 

NHKが、一人暮らしをする若者の生活の特集を放送したことがある。

 

大学入学や高校や大学を卒業して就職し、一人暮らしを始めた人の生活を長期取材するという番組だった。

 

それ以前の時期では、純粋な一人暮らしは意外と少なく、下宿や寮という集団生活をすることが多かった。

 

アパートに風呂がないというのが珍しくなかった時代であることも、集団生活を促進しただろう。

 

 

 

 

このNHKの番組では、純粋な一人暮らしをする若者を取り上げていた。

 

印象に残ってるのは、ほぼすべての若者が一人暮らしは寂しいと答え、その寂しさを紛らわせるためにテレビを点けっぱなしにすると答えていたことだ。

 

番組はなんでもよく、点いてるテレビを見るわけではない。

 

当時、私は母とこの番組を見ていて、私も母も「さびしいからテレビを点けっぱなしにする」という意味が全く理解できなかった。

 

それから数年後、大学に入学し一人暮らしをする際に、この番組の記憶があったのでわざとテレビは準備しなかった。

 

ラジオがあれば十分だと思っていた。

 

テレビは好きだったが、一日一時間とか家のルールがあった(当時こういう方針の家庭が多かった)からなくても大丈夫だと思っていた。

 

 

しかし、一人暮らしをして間もなくテレビを買った。

 

そして点けっぱなしにしていた。

 

寂しいというか間が持たないというか、ラジオではダメだった。

 

今でもこの時の気持ちをズバリ表現できる言葉を持ち合わせない。

 

おそらく大学生活に目標や目的を持っていたらこうはならなかった気もするが。

 

仕組まれていた世帯数の増加が導いたこと

 

大家族制が分散し、核家族化し、核家族が分散し、小規模核家族や二人暮らしと単身世帯に分散し世帯数がドンドン増えた。

 

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画像出典:http://www.garbagenews.net/archives/1953968.html

 

 

 

江崎道朗「GHQがもたらした〈神棚なき核家族〉」を読んで大いに驚いたこと

 

核家族化を推進した大本は、そのまた背後にあったGHQと日本人社会主義者たちだった

 

 

核家族化は良いことだと教科書にも書いてあったような気がするが定かでない。

 

しかしおそらく政策として推進されていたのであろう。

 

最初は、住宅産業を活性化するために。

 

世帯が増えると、それに連れて家財道具が増える。

 

最初はデパートが調達先だったかもしれないが、やがてホームセンターが主流になったのではないだろうか。

 

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出典:年間総売上高とホームセンター数の推移 社団法人 日本ドゥ・イット・ユアセルフ協会

 

 

政策という仕掛けられた戦略ではあるが、多くの国民にとっては、「見えざる手」に動かされていたということだろう。

 

 

一人暮らしに感じた寂しさは、幸せになるために良かれと思い取った行動が、実は「見えざる手」に動かされてることへの違和感だったのかもしれない。

 

 

 

核家族化の増加とそれに伴う単身世帯の増加は、経済成長のためだったのだ。

 

日本国内というドメスティックな環境で、成長拡大するための戦略だった。

 

ドメスティックな環境を狩り尽くした後は、活路を海外に求めグローバル化が加速した。

 

 

経済成長のために人の繋がりの末端の分散が拡大した。

 

人の繋がりの末端の分散の拡大は、先に成長をもたらすので、多くの人は「見えざる手」に動かされることに違和感は感じても不快感は少なかっただろう。

 

しかし「見えざる手」は、悪いことも動かす。

 

悪いというよりは、本来は一体なのだが顕在化するのに時間差が生じる。

 

成長の影で発生する負のコストがある。

 

物の生産につきまとう廃棄物であり、社会保障コストであり、インフラの維持管理だ。

 

これらの一部は、家族が機能してれば必要ないものもある。

 

介護や保育などがそれに当たる。

 

 

 

世の中は本来、「循環」が成立するならば、プラスマイナスゼロという世界観が成立する。

 

 

しかし人間社会は先に成長という恩恵を受けてしまったかもしれない。

 

だとすれば成長という恩恵を打ち消すベクトルが働くはずだ。

 

 

幸せな人が不幸になるという話ではなく、活路を見出すベクトルが変わることを意味する。

 

 「右肩上がり」の次の価値

 

現在のベクトルは、強大化する資本主義を支えているグローバル化だ。

 

グローバル化の究極で、資本主義の行き着く先には、1社あるいは1人によるすべて独占がある。

 

そうなってしまうと、敵という存在が無くなる、無くなるというより大きすぎて見えなくなる。

 

 

そもそも、「資本主義とは」と言えば「自由な競争」だ。

 

 

 

競争であるから、資本主義下では、勝つことを目指し、ナンバーワンを目指す。

 

 

最初は、同業界や同業種内での競争だが、やがてライバルが他業種や他業界にも及ぶ異業種間競争になっていく。

 

競争するのは、企業だけではない、都市間競争もあるし、国家間競争もある。

 

今、多くの分野でナンバーワンを築いてる企業や都市や国家はダントツのナンバーワンが多い。

 

独占までは行かないが。

 

 

上位8人の富豪、下位50%の合計と同等の資産保有

 

 

しかし、この勝ち抜けたナンバーワンが、ナンバーワンを維持できなくなりつつある。

 

最初に舵を切るのはナンバーワンで、金魚の糞が後に続くのは世の常。

 

ナンバーワンが、進路を邪魔する敵を探し始めているのが今だ。

 

昔は敵を見つけたら戦争だったのだろうが、先進国は戦争が解決にならないことを理解してるだろう。

 

戦争はテロの延長線では発生するかもしれないが。

 

ナンバーワンが敵対視してるのは、本当の敵ではない可能性が高いが、動き始めた。

 

 

 

新しい闘いはポピュリズムという形で表に出てきた。

 

ポピュリズムとは「敵」をつくること。

 

現在台頭するポピュリズムは、強大化しすぎた資本主義への反動だ。

 

ポピュリズムは、強固なヒエラルキー型社会が作り上げた「悪しき秩序」を崩壊するプロセスでのみ機能する。

 

役目は「悪しき秩序」の崩壊の支援であり、崩壊後の新秩序を作る段階ではポピュリズムは有害となる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ポピュリズム

「ポピュリズム」の用語は「ラテン語populus(民衆)」に由来し、

通常は「エリート主義」との対比で使用される。

 

 

つまりエリート優遇の政治の否定である。

 

ヒエラルキーの上位に位置する者が、独占することの否定である。

 

 

家族が分散しなければ大きな成長は無かったかもしれないが、循環社会が成立していたかもしれない。

 

しかし今更、分散した家族が集まっても大家族として機能しないだろう。

 

代わりにシェアという概念が生まれてきている。

 

シェアを成立させる要件は、「コストの低減や資源の有効活用」と「生き方の価値観の共有」だろう。

 

まだ試行錯誤の段階で、持続性が評価されるのはこれからだ。

 

 

 

政治が主導し、企業が活性化し発展し過ぎたことで問題が顕在化した。

 

企業の力が、政治力を超えているのかもしれない。

 

企業の理論は、いともたやすく国境の壁を越えるが、政治の理屈は簡単に国境を越えることはできない。

 

企業と政治と国境がせめぎあいを始めた。

 

 

歴史は、前に向かうことしかできない。