人間がやることは時代とともにどんどん高度化し、その高度化の背景にはその分野なりの戦略や戦術の巧みさが見えてくる。
この高度化が全員に幸せをもたらすならば何も問題はない。
しかし、高度化が進めば進むほど格差が生じる。
高度化がもたらす恩恵には、直接もたらされるものと、間接的にもたらされるものがある。
この両者の間に格差が生じるのだ。
俗に言う勝ち組とは直接の側で、間接の側が負け組だ。
どちらも高度化の恩恵を受けているのだが、恩恵の度合いの差が大きいと、間接的な恩恵を受けてる側はまるで恩恵を受けてないかのようにすら見えてくる。
このような格差に付き纏う不満を心の問題として対処する場合には、『足るを知る』は一つの方法となる。
では、格差に付き纏う不満を物質的な問題として感じた場合はどうすれば良いのだろうか?
高度化の恩恵という果実は、規則正しい緻密な仕組みの上に成り立つ。
そのような仕組みが完成に近づくためには、不規則やイレギュラーを徹底的に排除するための試行錯誤が必要になるので、長い時間が必要になる。
逆に言うと、今ある程度完成の域に達してる仕組みは、思ってるよりもかなり前に生まれてるはずだし、その原点は思ってるものとは全然違うものかもしれないので、デジタルやITですら由来はアナログに遡ってもなんの不思議もないはずだ。
強者が展開する緻密なプログラムで組まれた仕組みに、プログラムで対抗するのは弱者には不利なだけだ。
これは個人や小さな組織が強大な組織と闘う場合にも当て嵌まりそうだと気付くと、有効な闘い方としてテロやゲリラ戦に持ち込むというものがあることにも気付ける。
テロやゲリラが狙うのは不意打ち。
不意打ちとは別の言い方をすると想定外。
これって自然災害にも当て嵌まるし、コロナなんて当初は武漢で発生した非常に小さなローカルの脅威に過ぎなかったがあっという間に世界中に蔓延した背景には、ウイルスとしての強さよりも想定外の不意打ちで油断が生じていたからと言った方が相応しいようにも感じられる。
最近だと、超高速の戦闘機よりも悪意を持ったドローンの方が、忍び寄る恐怖としては遥かに恐ろしい時代になっている。
テロやゲリラが不意打ちを狙って成功する場合には、長期にわたって持ち続けてる復讐心に負うところが大きいだろう。
不意打ちが不意打ちとして機能するためには、時間をかけて相手を油断させると言うことも大事なポイントとなる。
長崎の原爆追悼のラジオを聴きながらこのブログを書いてるが、人間vs人間のように見えることの中には実は人間vs自然という図式も多いのかもしれないと感じられる。
自然を制したつもりの人間に対して、人間を油断させてる自然に見えないこともない。