『集中と分散』、キーワード的に語られることばで、最近だと都市部に人もお金もビジネスも物流も全てが集中し過ぎた中央集権に対する懸念から、もっと地方に分散した方が良いのではという論調で語られるようになった、わたしもそうかもとこれまで思うことが多かったが、『集中と分散』の捉え方はそういうことではないのかもしれないと思い始めた。
さよならGAFAM:5社一気にブロック→地獄です https://t.co/LnFqN9tVVO pic.twitter.com/B4COs0O19r
— ギズモード・ジャパン (@gizmodojapan) February 25, 2019
私は2カ月ほど前、5大テック企業なしで生活できるか?という疑問に答えるべく、行動を開始しました。5週間にわたってAmazon、Facebook、Google、Microsoft、そしてAppleを1週間にひとつずつ順番にブロックして、彼らの製品やサービスを使わなくても健康で文化的な生活ができるかどうかを実験してみたんです。
この実験のシメとして、私はGAFAM5社全部をいっぺんにブロックしてみました。
長い文章が続くことと、読み方次第で解釈が変わると思われるので是非読んで欲しいが、わたしが感じたことを記すと。
GAFAMは、あらゆるものをデータ化することで大きな便利を作り出したが、トレードオフとしての不都合も便利の拡大に合わせて大きくなっていると言うこと。
例えばニュース等の出来事やその解釈などを含めて、知識や知恵など過去から現在に至るあらゆるものの中で、ことばで表現できるものだけでなく、会話に基づく人間関係やつながり方やビジネスや趣味など何に関心を持っているかもデータ化されている。
そして、そんなデータはネット上では実際には分散していても実態は一元的集中管理がされているのと同じで、その窓口となるインターフェイスが個人のデバイスになってしまったことで、自分のデータですらデバイスに頼ることが増えている。
個人とそのデバイスは一体化してるので、デバイス経由で手元で接触しているデータは分散化された状態だと思いがちだが、インターネット接続されたデバイスを通じて得ている情報は高度に中央集権化されたものなのではないのか、そう思え始めるとわたしたちが日常得ている情報は元がどこから発されてようと全て中央から出たものとなるのではないかと、GAFAM断ちの記事を読んでいて思えてきた。
機械化自動化で肉体労働の質が変化したのが昭和のビジネスや生活だが、それを支えた技術はアナログのものがほとんどだったので人間が主役だったが、平成に入り少しずつデジタルが浸透し始めると、主役の座が人間から、人間や人間活動を記録分析して得られたデータにシフトしていき、取得され管理され始めたデータは、帰属先を持たずに独り歩きをするようになった。
なんだか難しいことを書いたが簡単に言うと、結果を出した人は頑張ろうが頑張るまいが高く評価され、すごく頑張ったのだが結果が出なかった人は頑張らなかった人としてデータ化されるのが現代だと言える。
便利の背後で、「それが俺の(わたしの)データなの?」という不都合が増えているのだ。
『集中と分散』について考える時、『中央と地方』を思い浮かべることが多いが、連想すべきはそこではないかもしれない。
中央があるから集中が起きると考えたら、活路を見出すためには中央を持たないと言うことを考えるべきかもしれない。
身体は脳を中心とする中央集権型ではなく、各臓器が同等な立場で連携して働く分散型だということか。脳は他の臓器と同様で特別な存在ではない。そうなると「脳死」についての定義も改め直す必要があるのではないか。
— 健緒 くみ (@takeo_kumi) February 21, 2019
中央があるから多数決的な決定がなされ、メジャーマイナーという線引きが生まれるが、それが心地良くなければ、中央から離れるというのも一つの手だろう。
中央から離れるというのは、世間で通りが良いお手本となる生き方から離れるということであり、依存ではない対等の関係に宿る関係性だが、言うのは簡単だが具体例は何になるのだろうか?
『対等』であるとは?
成功する共同研究:1)メンバー間の頻繁のコンタクト、2)対等で探求的な議論スタイル、3)
— 中原淳(なかはらじゅん) (@nakaharajun) July 15, 2010
研究目的や関心の共有、4)知識・技術・役割の分散(岡田先生のご発表)・・・「共有するべきものは目的・関心、分散するべきは知識・技術」というのが、自分の経験からしても、そうだよなーと思う。
『対等』の関係というのが難しそう。
口先番長はその内威勢が悪くなる。機能しているのは、行動や態度ではなく、影響力という無自覚の支配欲だから。チームやコミュニティは、基本的に対等なので、リーダーは固定化させない方が良い。権力の分散化。人として大切なこと。利害が全員一致なら独裁は機能するものの。。
— sawa3 (@sawa3) February 18, 2019
『集中と分散』が『対等』を遠ざけるような気がしてくる。
なぜゲリラが、官軍に対抗できたり、時には官軍を打ち破って、新しい官軍になったりするのか。
— -ぼうず-映像活用リストマーケッター@ツイッターベース2ヶ月で月収150万化レッスン実施 (@InterBridgeWW) March 12, 2012
なぜ、ベンチャー企業が、大企業と対等に渡り合うことも可能で、しばしばチャンピオン企業を零落させたりするのか。
キーワードは、フォーカス。
賢いゲリラはフォーカスし、阿保な官軍は分散させる。
『対等』だと集中力が出るが、集中力は持続せず分散化し、分散化すると『対等』が減り『格差』が増えると思えてくる。
どのように行動しようとひとつだけ確実に言えることがあるとすれば、ほとんどの人にとってテクノロジーと無縁ではいられないと言う事だ。
そして勘違いしてはいけないのは、テクノロジーはデジタルとは限らないこと。
『対等』でないことが『集中と分散』の結果だとしても、人間活動は『集中と分散』を繰り返し続けるだろう。
一般的に分散しているのが弱者なのだが、強者が拠り所にしている集中の賜物はGAFAMのように通信ネットワークとデジタルの融合が前提(=依存)してるという弱点があるのだ。
重要なことはアナログと通信ネットワークに依存しないオフラインでの環境も苦手にしないという能力や処世術は今後も絶対必要だと言うことで、そこにこそ弱者の強みが隠れている。