今朝見た記事にこれがあった。
【au「povoは集客装置」、店に不適切販売指示の罪】 景表法、独禁法、電気通信法に違反のおそれも#東洋経済オンラインhttps://t.co/LEukLlVOOE
— 東洋経済オンライン (@Toyokeizai) 2021年4月8日
記事ではauにフォーカスしてるが、ドコモやソフトバンクも同様のはず。
論調としては、リーズナブルを売りにした新商品の話を聞きに来た客に、高額の高付加価値商品を営業するという、日本古来の松竹梅商法を、さも悪いことのように記事にしてるが、昔からある古典的な手法で今更めくじら立てるようなことではないような気がする。
それよりも、改めて考えると、松竹梅商法の変化が感じられておもしろかった。
最上級が松で、次が竹で、その下が梅。
※余談だが、個人的には梅の花はこの三つの中で一番好きなので、この扱いには違和感がある。
古いドラマや小説では、定食や会食のランクに使われたり、旅館の部屋のランクに使われていたのを思い出す。
不動産屋が客を捌く時の定番の手法としても懐かしい。
客の予算に合いそうな物件と、とても無理な高額な物件と、安いが粗末で劣悪な物件を見せ、予算に合いそうな物件で決めさせるという手法で、昔は引っ越しを考える時期が皆同じだったので、自分が欲しい物件は他人も欲しがるから、時間をかけて選ぶことはできないという強迫観念もあり、リーズナブルな竹で決めることが多かった。
わたしの記憶では、松竹梅の3種を選択肢に提示された場合に竹を選ばなくなった時期が80年代後半から90年代初頭にかけてのバブル景気の頃で、この時期は多くの人が松を選ぶようになっていた。
松竹梅だったら松を選ぶようになった人がバブル景気で増えたが、そんな時期は長くは続かなかった。
バブル崩壊後、気が付いたら多くの人が梅を選ぶようになっていた。
思えば、ユニクロの台頭も購買者層としては梅を選択する人が多かったことで発展していったのだ。
その当時のユニクロと同様の存在にダイソーがある。
日本はバブル崩壊後、失われた30年と言われているが、当初は梅扱いだったユニクロには今や高付加価値のイメージがあるし、価格的にももはや梅ではない。
だからと言って、竹なのか松なのかはよく分からない。
ダイソーだって、100円以外の価格帯の商品が増えてるし、わたしは1000円のモバイルバッテリー(10000mAh)を買ったが、家電量販店で売ってる4〜5000円クラスに匹敵する出来だったし、冬用の手袋を300円で買ったが、これまた大満足で、手袋の場合バブル期の最上級の松クラス以上の出来だと思えた、しかし松なのか竹なのかは良く分からない。
しかし、確実に高付加価値はそれなりに評価を得るようになってると感じられる。
高付加価値というのは、売る側にとっては価格を上げるためだが、買う側にとってはお得感が得られることでもある。
ここには大きなギャップがあるように感じる。
買う側にとっては、価格が高いと付加価値は相対的に低くなるのだ。
だからと言って、安かろう悪かろうは論外。
このように考えていると、もうひとつおもしろいことに気付く。
松竹梅は、人件費や給料にも及んでいるということだ。
コロナ禍で少し目立たなくなったが、海外から割安な労働力を求めるようになったが、その前段階では、優秀な日本人の海外や外資への流出という動きがあったはずで、それは企業が人件費や給料を梅化させたことと無縁ではないはず。
これらを総合すると、日本の労働市場では松や竹の市場はほとんどないのだろうということが想像できる。
ただし、募集に当たっては大は小を兼ねるとばかりに高付加価値人材を求めるので雇用のミスマッチは増えるばかりだろう。
と同時に、人材として梅ランクの人物が、竹や松に偽装することも増えているはずだ、まるで一昔前の学歴詐称や経歴詐称のように、事実に反するような嘘ではなく解釈の違いを誘導するようにして。
付加価値を高めることは重要だろうが、価格を上げるためだけの薄っぺらい理屈を展開してもイマイチだろう。
求められてるのは、梅のような松なのだ。
しかし、世の中は、松のふりをしたがる梅で溢れている。