警察ドラマや小説でよく出てくるのがプロファイリング。
心理学も含めた科学的な行動分析がプロファイリングだが、プロファイリングを行うためには必要な情報の収集が必要になる。
聞き込みや尾行によって得られるアナログ情報から始まって、現在ではさまざまなデジタル的に捕捉されている膨大な情報ともリンクするようになっている。
そんなデジタルデータの収集に必要な技術は最初は軍事活用されることで技術の進歩が起き、それが民間にも活用されるようになると少し遅れてカバーする範囲が広がると警察に提供されるようになる、一定の手続きは必要になるが。
プロファイリングという観点で捉える情報は、無色透明無味無臭であるはずだ。
だからこそ証拠になる。
しかし、私たちが日常接する情報は、決して無色透明無味無臭ではないように感じられる。
むしろ日常接する情報には、色がついたり透明度が変化したり匂いや味が付いたりしてることの方が当たり前で、さらに言うと実際の食事のように味付けの濃淡や彩りの演出を気分で求め方を変えているとすら言えるだろう。
つまり、日常に溢れる情報にはむしろ無色透明無味無臭なものの方が圧倒的に少ないのだ。
そのように思い当たると、情報と広告宣伝がほとんど同じだと気付く。
情報はそれ単体では無色透明無味無臭でも、発されて伝えられると、どういう気持ちや意図で発されてるかという色が付く。
色や匂いが付いた情報を受取り、自分の中で咀嚼する段階で食事のように味付けを加えることだってあるだろう。
受け取る段階での味の変化とは、独り善がりや誤解となる。
味が変化した情報を誰かに伝えれば、そのたびに同様な変化が加わってもおかしくない。
気持ちや意図がどのような種類であるかによって受ける印象はまるで違うが、全部引っくるめて広告宣伝と括れるのではないかと今更ながら気付いた。
本来は無色透明無味無臭な情報が、広告宣伝になる際に必要とされるプロセスがプレゼンテーション。
プレゼンテーションといっても大袈裟に考える必要はない。
どういう意図に基づきどのように切り取るかが決定されることによってプレゼンテーションが決定し色を帯びる、色だけでなく匂いも発するし味も付くのだ。
現代に生きる者としては、そんな過剰な演出が多様に施されて出回ってる情報の中から不必要な成分を濾過する能力やフィルターが必要なのかもしれない、無色透明無味無臭まで濾過できなくても良くて、自分に必要な状態になってれば構わない。
一見コンセプトが同じように感じられるものにフィルターバブルがある。
フィルターバブル (filter bubble) とは、「インターネットの検索サイトが提供するアルゴリズムが、各ユーザーが見たくないような情報を遮断する機能」(フィルター)のせいで、まるで「泡」(バブル)の中に包まれたように、自分が見たい情報しか見えなくなること。
このフィルターバブルを通して得られた情報は、偏りが生じるという変則的な色の付き方を見せるようになる。
広告宣伝というジャンルは世間一般では嫌われてる存在だが、需要は増えこそすれ減りそうにはない。
それは、情報が広告宣伝化されないと、多くの人にとっては最初の動機が形成されないからかもしれない。
大事なことは自分の意思で決めてるという人は多いかもしれないが、そのことを大事なことだと判断したのは広告宣伝化された情報のせいだったかもしれない。
誰だって正しい情報を知りたいと思っているだろう。
正しい情報とは、無色透明無味無臭の情報なのか、それとも自分好みに味付けされている情報なのか?
人間以外の生き物の世界では、実際に起きたことに正しいも間違いもないはずだ。
実際に起きてることに論評を加えるのは人間だけだろう。
意味なんかないものに意味を求めたくなる、僕の悪い癖。