はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」
はてなのお題に乗ってみた、初体験だ。
インターネットに対する思いは年齢や世代によって違うだろう。
特にマニアックな人でもなければ1995年のWindows95とセットでインターネットは名を知られたはずで、いきなり登場したのでインターネットが何なのかもよく分からずにPCショップや家電量販店で『インターネット下さい』という人が後を絶たなかったと話題になっていた。
また、当時のインターネットは従量課金が基本で、わたしは最も安い契約をしていたので基本料金で接続できるのは月に60分あるいは90分だったと記憶している。
だから、この時間内で終えるように事前に何を調べたいかをメモに書き、情報はその場で読まずにフロッピーにダウンロードして内容に目を通すのは回線を切断した後だったが、当時の回線速度では文字しかダウンロードできず、写真やグラフや図などは見れないことが多かった。
基本時間を越えないように慌ただしく使っていたことを覚えている。
この程度でも、趣味の分野に関する限りは、市販の雑誌よりも内容が濃いと感じられるものが多かった、濃いというよりも本音が感じられたと言ったほうが相応しいかもしれない。
雑誌が売れなくなるかもと感じていて、事実そうなったし、生き残った雑誌もずいぶんページが薄くなった。
はてなが登場した20年前というのは、従量課金から常時接続に移り始めた頃だろう、わたしが常時接続に移行したのはもう少し後。
常時接続が当たり前になると無料の動画サイトが登場してきた。
改めて検索すると、YouTubeの誕生は2005年だったが、私を含めて周りでYouTubeをおもしろいと感じてる人は皆無だった。
それよりも同じタイミングで誕生したGYAOの方が話題になっていた、B級C級の映画やドラマをPCで見ることが、テレビで最新作や名作を見るよりもよっぽどワクワクするということに気が付いた。
PCで見てワクワクした作品をたまたまテレビで見かけても全然おもしろいと感じなかった。
うまく説明できないが、テレビはみんなのもので、PCは自分だけのものという世界観が感じられていたような気がする。
このことが不思議なのは、テレビはみんなのものだからつまらないと感じた意識は、最近言うところの共有意識に対する否定かもしれないと思うと、わたしは共有には馴染めないかもしれない。
ここまでは概ね2010年以前の話。
さて、それ以降となるとインターネットというよりもスマホであり、ブラウザよりもアプリが主要な舞台に移ったように感じられる。
できることややってることに大した違いがあるわけではないが、受ける印象はかなり違ってくるので、やってて楽しいか、気持ち良いかの差は結構あるはずだ。
もはやインターネットは裏方のインフラであり、日常生活では無意識に近い存在感で、あることのありがたさや好都合よりも、ない場合の不便や不都合を思い知らされることの方が印象に残りやすくなった。
最近のインターネットは、双方向のコミュニケーションとして機能することが中心になり、その双方向性が両極端化し、不特定多数を対象にする場合と特定の層だけを意識するものに分かれてるように感じる。
双方向性があるというのは受信もすれば発信もするということ。
インターネットが無かった頃、ほとんどの人にとって情報とは受け取るだけのものであり、発信するとしても手紙や電話を除けば特別な環境にいる場合以外は一対一での伝達の繰り返ししか無かったのだ。
特定であれ不特定であれ、一人で多数に向けての情報発信が可能になったことが最近10年のインターネットの大きな変化だという気がしてくる。
発信する人は同時に受信する人でもあるのだが、おそらく注ぐエネルギーは圧倒的に発信する方に向けられるはず。
インターネット以前は、世間には情報を受け取ることしかできない人がほとんどだったのに、現在では受け取るよりも発信したい人が大幅に増えてるとすれば、池の周りに鯉に餌をやろうとする人が鯉の数よりも多くいる状態に似てるだろう。
つまり、食べてもらえない。
今インターネットの世界では、そのことが課題になってるように感じられる。
無限の情報があるということが魅力に感じられた当初のインターネットはどこに行ったのだろうか?
思えば遠くに来たもんだ!