違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

「ブロックチェーン」は期待できるんじゃないだろうか(追記あり)

金の流れが見えない

 

トランプ大統領が訴える「アメリカ第一主義」が意味するのは貿易赤字の解消であり、海外に移転流出した雇用の取り戻しだ。

 

「米国第一主義」へ雇用創出 初議会演説 :毎日新聞

 

槍玉に上がるのは自動車産業が多いが、すべての産業が対象だろう。

 

 

 

ものごとは、どういう視点で見るかで全く変わる。

 

日本で普通に生活しながら、地上を基準にして考えるアメリカはとても遠い場所だ。

 

直接見えないので想像するしかない。

 

アメリカから入ってくる文化や製品は見えるが、どんな風に作られるかは見えない。

 

購入するために支払うお金は見えるが、支払ったお金がどうなるかは見えない。

 

 

もし日本が鎖国だったとしたら、日本人が日本国内で使ったお金は、どこに行くかはわからないが循環してるであろうことは想像できる。

 

どこかで誰かが大金をタンス預金してれば、その預金分だけ循環はしないが、日本の何処かにあることは想像できる。

 

世界経済がグローバル化したことで、見えなくなったのがお金の動きではないだろうか。

 

企業ごとに、国ごとに、決算作業を行うことで数字は出るが、その数字に実感が伴わない時代に入ったのかもしれない。

 

話をややこしくするのは、実体経済とは別の投資マネーも存在することだ。

 

 

タックス・ヘイヴンを活用し、課税回避を合法的に行うことも出来る。

タックス・ヘイヴンは、税制上の優遇措置を、域外の企業に対して戦略的に設けている国または地域のことである。

 

ただし悪質な場合は資本主義の構造に悪影響をもたらす存在となり得るため、タックスヘイヴン対策税制などの対策が取られている。

 

通常、国家は国内のすべてのお金の流れを把握して課税し、その再配分を行うことで国内の多様な活動を循環可能にする。

 

この循環に納得できることは幸せに繋がるだろう。

 

そしてこの循環が納得感を得ながら多くの人に共有される時、安全や安心も成立する。

 

しかし、鎖国ならばゼロサムが成立するお金の流れが、グローバル化で成立してないのではないだろうか?

 

これは、国という単位で把握しようとするからこそのジレンマだろう。

 

このジレンマに苛立ってるのがトランプ大統領だ。

 

このようなトランプ大統領の反応を経済オンチと揶揄する有識者もいるが、個人的には素朴な反応だと感じてる、反応の仕方は過激だが。

 

貿易収支をめぐる議論― トランプ大統領の貿易政策を考える

 

「国別シェア」という捉え方が厄介なようだ。

 

 

しかし視点を地球の外側に置くと、地球全体が1つの国のように見える。

 

国単位で考えると、わけの分からない動きも、総量においてはゼロサムが成立することはなんとなく想像できる。

 

だとすれば、地球全体を管理できるシステムが必要になる。

 

国家間の問題はさておき、全体の把握が可能なシステムが先に実用化したほうが良いだろう。

 

ブロックチェーン

 

そして、そんなシステムが実はあるのだ。

 

それはブロックチェーンと言われるシステムだ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブロックチェーン

ブロックチェーンは多数のノードに同一の記録を同期させる仕組みである。ノード間の記録に差異が生じた場合には、一定のルールに基づく多数決によって正統な記録を決定することにより、記録の同期を確保していく仕組みとなっている。

 

 

なぜビットコインは成功し、「ブロックチェーン業界」は失敗したのか

ブロックチェーンを本当に理解している人々は、「国家政府がブロックチェーンに置き換わる」「銀行がブロックチェーン・ペイメントを採用した」「ブロックチェーンは変更履歴を不変にする」のような言葉を聞くと怒りを露わにする。

 

 

経済最前線(2017年2月26日) :野口悠紀雄

AirbnbやUberはホテル業やタクシー業を破壊した。

しかし、彼らはブロックチェーンによって破壊される

 

 

 

ブロックチェーン革命 分散自律型社会の出現

ブロックチェーン革命 分散自律型社会の出現

 

 

 

 

次世代は、「分散自律」がキーワードかな。

 

すでにある技術であるところが期待できる。

 

改良点はあるだろうが、自動運転とともに要注目の技術なので今後も取り上げたい。

 

 

追記3月3日

 

上記記事を説明した話があった。

 

ビジネスモデルの破壊者AirbnbやUberも遠からず破壊される
野口悠紀雄:早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問

取引情報の仲介はブロックチェーンで代替できる

中央集権的な情報処理は不要に

賃貸と所有の区別が曖昧になってくる。

 

追記3月4日

 

ブロックチェーンを本当に理解してる人達が課題だと思ってること。

 

やっぱブロックチェーンダメっぽい

ここで言われてるのは

  • 金融機関の政治問題
  • 合意形成コスト

の2つが課題でブロックチェーンが実戦に不向き的なこと。

1個目は人の問題なので置いとくとして、2個目が散々。

 

 

 

ブロックチェーンが持ち味を発揮するのは、資本主義に変わる価値観と連動する時だ。

 

民間の商用利用のためでなく、グローバルに動くマネーの動きを把握することで、マネーの移動のもとになる取引も補足把握するためだ。

 

実現すると、現金取引以外は不正が不可能になる。

 

そしてそういう時代には、現金は少額の取引(日常の買い物程度)でしか使わないものになるだろう。

 

すべての国家が、1つの地球として機能することが前提になる。

 

その時には上記課題は小さな問題だろう。

大手弁護士事務所も次の手を模索している

弁護士の活躍分野の花形は、M&A(企業の合併・買収)だ。

 

誰でもこなせる案件ではなく、大手事務所が請け負う。

 

五大法律事務所と言われる5社が中心だ。

 

以下は大手弁護士事務所の事情だ。

 

M&A

 

2000年以降大手事務所は、大型案件に備え、中小事務所を吸収し、抱える弁護士数を増やした。

 

M&Aは、報酬も多いことと案件数も多かったので弁護士の報酬もドンドン増えた。

 

しかし、大手事務所ですら陰りが見えてきてるらしい。

 

M&Aが増えたことで、手法が一般化し、中小事務所でも手掛けられるようになり、大手が案件を独占できなくなった。

 

中小事務所の参入は、案件の報酬にも価格破壊を起こした。

 

また司法制度改革で大幅増員したされた弁護士の一部が証券会社や会計事務所に流れ、M&Aは弁護士事務所だけが手掛ける業務ではなくなっていった。

 

こうして価格破壊の連鎖は進み、M&Aだけに頼れないという事情が顕在化してきた。

 

次に目をつけたのは、「企業の不祥事」だ。

 

危機管理

 

「企業の不祥事」に絡んだ法律業務は、

 

  1. 第三者委員会の設置
  2. 事実関係の調査
  3. メディア対応
  4. 行政や機関投資家への説明
  5. 上記に伴う訴訟

 

と多岐に渡るので、弁護士には美味しい案件になる。

 

ちなみに、第三者委員会と言うのは日本独自の危機管理モデルで、最近は「不祥事と言えば第三者委員会」というような形骸化した印象がある。

 

また不祥事に慣れてきたことで、第三者委員会の不良委員会化が起きて、最初から経営者を擁護する人選が為されている。

 

 

 

これらの一連の業務は、危機管理と言われ、顧客企業は既に困っていて、かつ時間の猶予もないので「値引きの要求」が少ない。

 

また、危機管理は明確な終了が見えないので、長期の契約が見込めることも弁護士事務所にとってはおいしい話になる。

 

 

ブラック化する弁護士業界

 

新種の案件を創造することを目指しながら、従来型の業務をこなすことを強いられる弁護士には想像以上にストレスがかかっているらしい。

 

最近は、裁判件数は増えてない。

 

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出典:民事事件に関する活動 日弁連

 

弁護士の数は増えたから、抱えてる案件数が多いという意味での過重労働ではなく、年々下がる所得を何とかするため訴訟に勝とうと、長時間労働になってる可能性が高いだろう。

 

事実うつ病の弁護士は増加中らしい。

 

中小零細弁護士事務所では

 

最近、依頼者に経過を報告しないケースや依頼を受けながら放置する弁護士が懲戒処分を受けるケースが増えているが多くは「うつ病」を患っている、年代は関係ないらしい。

 

また弁護士の金銭トラブルも増えている。

 

弁護士は業務の中に、預り金(経理とは違う)の管理がある。

 

厳密に取り扱われなければいけないお金だが、取扱は弁護士の裁量に任されていて、この預り金を着服する弁護士が増えている。

 

この預り金の着服は昔からあるが、弁護士が儲かっていた頃は、発覚前に戻すことができてた。

 

資金繰りに困った弁護士が、最後に守ろうとするのが自身の弁護士資格だ。

 

弁護士は自己破産すると資格を失う(弁護士法7条5号)。

 

 

 

 

次の手は「数字」がキーワード

 

次のネタをどうするかという視点に欠かせないのは時代のトレンドだ。

 

現在、どの業種も儲けのネタに困っている。

 

しかし資本主義のツライところで成長させなければいけない。

 

つまり大義名分はさておき、数字の追求が時代のトレンドになる。

 

数字で表されてない世界に、数字を持ち込んだ方が早い。

 

弁護士業務も然りだ。

 

弁護士には、法律を前提として、減らず口を叩いているというイメージがあるが、この領域にも数字が持ち込まれてる。

 

数字を扱うのは、本来弁護士の得意領域ではない。

 

そうすると、ここに新たな競争が発生する。

 

弁護士が数字の能力を高めるのと、数字に強い人が法律の能力を高めるのは、どちらが強いかという競争が起きる。

 

最近、弁護士のライバルとして会計士が挙げられるようになって来たのは、「数字で争う」ことが増えているからだろう。

 

 

問題の顕在化は「待つもの」のではなく、問題は「掘り起こすもの」という方向にエネルギーが向かっている。

 

トラブルは生まれるものではなく、作られるものになる。

 

と言うか、もうなってるはずだ。

 

企業の不祥事に法律家が拠り所を求めてる。

 

企業の不祥事は、数字で隠蔽されている。

 

数字に隠された嘘には、宝がある。

 

東芝、前年に続き巨額赤字=原発損失7000億円弱-4~12月期決算、14日発表 時事通信社

 

きっとこの件でも弁護士や会計士が動き回ってるはずだ。

 

 

法律というのは、国家が作るインフラであると言えるにも関わらず、いざとなったら専門家を使わなければ何もできないことが多く、またその料金もガラス張りとは言えず且つ高額だ。

 

この領域は、破壊が進んでるとは言え、まだ既得権益層で構成されている。

 

 

 

 

次どうするかを考える際、法律家は法律を駆使して何が出来るかを考えるのが普通だろうが、こんな人もいる。

 

テレビでよく目にする過払い金返還訴訟に特化してる「アディーレ法律事務所」の代表で設立者の石丸幸人氏は、現在も代表だが実務から離れ、医者を目指して北里大学の医学部に通ってるらしい。

 

弁護士業界は所詮5000億円〜6000億円の市場、一方医療は70兆円市場。

 

これからは医療の時代だと語っている。

 

 

 

参考にしたのはこの2冊

 

 

 

週刊エコノミスト 2017年02月28日号 [雑誌]

週刊エコノミスト 2017年02月28日号 [雑誌]

 

 

 

発展する通販ビジネスが、新たなストレスを生み出す

以前下記を書いた。

 

http://www.chigau-mikata.club/entry/2017/01/11/191859

 

この中でアドバイスという詐欺が増えてると書いた。

 

リアル店舗と通販

 

通販が増えてることが示すのは、買い物をする際に商品選択に関係する「アドバイス」の有り様だ。

 

リアル店舗での買い物では、商品のパッケージを参考にしたり、類似商品を実際に見比べるということでかなり印象が決定される。

 

これは、動機に大きな影響を与える。

 

通販では、写真や動画を参考に判断するが、リアル店舗で手に触れることができることに比べると伝わる情報量に差がある。

 

通販が苦手な人には、この情報量の差が拭いきれない差になってる人も多いのではないだろうか。

 

通販には、テレビ通販やカタログ通販のようにライフスタイルの提案という形で、入り口の段階で趣味嗜好のフィルターをくぐり抜けた人が顧客となるタイプとインターネット上でのショッピングモール形式で不特定多数の商品を顧客に選んでもらうというタイプがある。

 

 

テレビ通販、カタログ通販

 

テレビ通販やカタログ通販は、リアル店舗のセレクトショップ的な存在となる。

 

ここでは、趣味嗜好、センス、品質に関して一定基準を満たしているという評価を下した人だけが顧客となる。

 

セレクトショップと同様で、買って良かったと感じた顧客はファンになる。

 

こうして人間関係のないところで擬似人間関係が出来上がる。

 

商品展開自体が、センスに基づくアドバイスになっている。 

 

ネット通販

 

ネット通販では、豊富な情報が特徴となる。

 

顧客には2通りのタイプがある。

 

1つは、自分で調べ、納得して買うと言うタイプ。

 

もう1つは、良いものであれば何でも構わない、お勧めを買いたいという受け身タイプ。

 

実際には、人の心にはこの2つのタイプが混在してるのではないだろうか。

 

このタイプは、「失敗したくない」という思いが強いので、他の購入者の評判を知りたがる。

 

ネット通販の最大の強みが、他の購入者の評判を知ることが出来る点だ。

 

レビューと言われる、購入者の購入体験を知ることで、セレクトショップの商品を買うのに近い体験ができる。

 

実際の購入体験者からのアドバイスが得られる。

 

セレクトショップでは、オーナーの個性やセンスに顧客が集まる。

 

通販を活用することは、多様なセレクトショップを身近に複数持ってるのに似た体験を可能にする。

 

通販は価格が安いことが普及のキッカケにはなっただろうが、生活の身近に定着すると、リアル店舗と棲み分けができ始めた。

 

商品選択に一目瞭然性があればリアル店舗の方がストレスが少ない。

 

しかし商品説明を必要とする場合、リアル店舗では店員の個人的資質にかなり左右される。

 

しかも多くの場合、店員はその商品の売り方は知っていても、所有してるわけではないので使い勝手に関しては知らないことがほとんどだ。

 

こういう状況では、アドバイスが欲しい時にストレスが増える。

 

通販というのは、安いから普及したが、定着した理由は、アドバイスが得られることで購入につきまとうストレスが少ないからだろう。

 

 

顧客のストレスが減り、通販業界が儲かりウィン・ウィンかと思えば、そうでもないのがこの世の面白い所。

 

通販の要は宅配

 

新たなストレス爆弾が、通販を支える宅配業界で炸裂し始めた。

 

 

佐川急便の配達員が荷物をブン投げる動画、同社が事実と認める

 

Amazon宅配急増の裏で疲弊する運送業界 圧倒的な物量にマンパワーが足りないという地獄絵図

 

ヤマトHDに迫る「異常事態」 「取扱量が過去最高」でも喜べない

 

宅配業界が悲鳴を上げている。

 

取扱荷物の量が急増したのに、配達スタッフを含めた配送環境が整わないことで、一部に過重な負担が発生しているからだ。

 

不在のための再配達が多いことも過重な負担に関係している。

 

この話題が最初顕在化した時は、宅配業界が伸びる業種になりつつあるのかと思ったが、求人募集に関しては伸びてるが、待遇が良いわけではないので、実際はブラック化する。

 

荷物量が増えるのに会社が儲からないから、現場スタッフの待遇向上に繋がらない。

 

結果、ただキツイだけの仕事になる。

 

だから求人をかけても人が集まらないということになる。

 

宅配が作り上げた文化が、「荷物は宅配で、手ぶらで行動」だ。

 

このライフスタイルが定着すると、荷物を持ち歩くという行動は苦役になり、喜んでやるのはトレーニングと感じられる人だけになる。

 

 

そして日常品まで通信販売で取り扱うようになると宅配は便利を通り過ぎて社会インフラとなった。

 

インフラになったら公共的な位置づけになるので、料金もそれなりにしか取れなくなる。

 

宅配業界のジレンマは正にココだろう。

 

 

今後も成長が予想される宅配便市場 - 富国生命.pdf

データは2013年までだが業界を知るにはわかりやすい。

 

 

通販業界に人も物も情報も集まってる 

 

また、商品販売に興味がある人がリアル店舗を出店するのはコスト的に大変だが、ネット活用で簡単に出店しようとグレーな行動を取る人が増えてるようだ。

 

楽天で買ったのに「アマゾン」から届く…無在庫・タダ乗り「直送転売屋」、対策強化へ

価格を比較しないユーザーや、ポイント目当てのユーザーを対象に、Amazonより高い価格で販売し、その差額で利益をあげているとみられる。中には、実際にはかかっていない送料を徴収する業者もあるようだ。

楽天市場で注文したのに、箱には「Amazon」の文字。伝票には「このお届けものはギフト(贈物)です」と書かれていた。送り主の欄には、なぜか注文した本人の名前が…。ショップの名前はどこにも見当たらない。Amazonの処理上は、「自分にギフトを贈った」わけの分からない客ということになっているようだ。

 

こういうビジネスは「せどり」と言われてる。

 

せどりとは?転売と何が違うの?本当に稼げるの?せどり未経験者は必読!

 

いかがわしいビジネスが増える分野は注目されてる分野でもある。

 

 

発展する通販は、通貨という国家にのみ許されてる分野も侵食し始めた。

 

アマゾンギフト券は第二の通貨 謝礼として流通量が増大している

 

通貨を巡っては、ビットコインもあり、この分野も大荒れ必至だろう。

 

時代はストレスを減らすことを目指そうとしてるようだが、そういう分野は常にストレスと表裏一体だ。

ブラック企業がホワイト化するだけではマズイかも

ブラック企業問題は、何を教えているのだろうか?

 

ついついグローバル化や資本主義の行き詰まりという視点で見てしまうが、違う見方がある事に気付いた。

 

なぜ外国人と日本人の“忙しい”は違うのか

「karoshi」とそのままアルファベット化された単語が海外でも取り上げられるほど、働きすぎによる日本人の「過労死」は深刻な問題です。

 

 

海外で過労死が「karoshi」と表現されるということは、働き方に関連するブラックは、日本固有のものかもしれない。

 

 

気付いたキッカケは、下記の記事。

 

なぜ日系大手は海外企業とうまくツルめないのか?

北米市場でビジネスモデルの話をしていると、現地の人からこう言われることが多い。

「もう他ではやってないけど、日本企業は今でも代理店というやり方でモノを売っているよね?」

世界中でアライアンスという概念がビジネスの主流になってからは、代理店制というやり方は衰退し、販売モデルはがらりと変わった。しかし、日本はいまだ代理店が幅を利かせている。代理店をはさんだビジネスは主に機械系製造業で盛んで、日系大手商社を使った展開が多い。

 

ブラック企業を生み出すメンタリティ 

 

確かに改めて考えると、日本にはアライアンス(同盟、連合、提携)という概念が生活の身近に実感できない。

 

歴史やビジネス書に出てくる用語的な感じで意味合いはなんとなく理解できるが、じゃあアライアンスに基いて行動するにはどうしたら良いかと考えると????となる。

 

上記の記事によると、代理店制が衰退しアライアンスに移行したとなっている。

 

代理店という制度は、本部が上に位置し、代理店が下に位置する。

 

「わかってる本部」が、「わかってない代理店」の面倒を見るという意味での上下関係は当然だが日本ではこれに本部が代理店を支配するという意味合いがこもる。

 

この代理店制度が日本型のフランチャイズシステムに繋がっているだろう。

 

基本的には、本部が上前をはねるためのシステムである。

 

このシステムの傘下に入ると、抜け出すのが困難になる。

 

数少ない本部との逆転劇が演じられることもある。

 

ほっかほっか亭では、九州や東日本のエリアフランチャイジーであったプレナスと本部が対立した結果、プレナス側がほっともっとという新チェーンを立ち上げ、当時あったほっかほっか亭の店舗のうち60%以上がほっともっとに転換するという事態となったほか、本部もほっかほっか亭のエリアフランチャイジーであるハークスレイの傘下となっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/フランチャイズ

 

 

 

代理店制のモデルになったのは「のれん分け」だろう。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/のれん分け

奉公人や家人に同じ屋号の店を出させる(出すことを許可する)ことを言う。

商標等を共有しながら円満な形で独立することも指す。

 

 

生き続けるブラックメンタリティ 

 

上に立ち、下を支配するというメンタリティは、年貢に苦しめられた民が、自分の受けた苦しみを他人を苦しめることで晴らそうとするもののように見える。

 

まるで学校の部活で、「先輩は後輩をシゴクものだ」とシゴキが伝統として受け継がれるように。

 

 

 

今語られてるアライアンスには、ウィン・ウィンの関係が前提のような気がする。

 

ビジネスは弱肉強食で生き馬の目を抜くようなものだと語られてきたが、ルールは変わり始めていて日本は世界から遅れているのかもしれない。

 

 

 

日本人は日本のことを過大評価し過ぎてるかもしれない、しかしそれは巧妙に仕組まれた結果かもしれない、だから外国人には奇妙に見えるだろう。

 

“日本スゴい”問題で炎上の厚切りジェイソンが政治発言しない日本の芸能人を批判!
「どうでもいいと思ってる」

 

 

 

最初に戻ると、ブラック問題は改めるべきという視点で見てしまいがちだが、そうするとホワイト化すれば良いじゃないかという答えに行き着いてしまう。

 

しかし、それではブラックを生み出したメンタリティはどこかに生き残り続けるかもしれない。

 

ブラックを定義し、その定義から外れれば良しとする方向性では、悪しき日本のメンタリティは生き残り続けることになる。

 

 

 

ブラックメンタリティはしつこい伝染病

 

 

だとすれば、ブラックを生み出すメンタリティに消えてもらうしかない。

 

そのためにはブラック企業のホワイト化ではなく退場が必要だ。

 

そうすると、ブラック企業でブラックな環境を許容してる人達も巻き込まれてしまうが、そういうプロセスを経てでも、一方的な支配を志向するブラックメンタリティを消す必要がある。

 

 

ネイティブの日本人だったら、あるいは外国人でも日本で生まれて日本で育った人ならば、ブラックに苦しんでいる人やブラックを憎んでる人の心の中にも、ブラックなメンタリティがひっそりと生き続けてるかもしれない。

「生産性」は幸せと持続性を伴わなければ低下するだけ

https://ja.wikipedia.org/wiki/生産性

生産性'はより少ない労力と投入物(インプット)でより多くの価値(アウトプット)を産みたいという人間の考えから生まれてきた概念である。リソースとリターンの関係性とも理解される。

  • 生産性=アウトプット/インプット

 

 

 

 

生産性が低い状態から高生産性は自然にシフトが起きる

 

手作業の場合は、①器用さ②道具の活用③材料の工夫④デザインがポイントになる。

 

ここで発揮される人間の能力は、専門分野を作るだろうが、分野が違っても応用が効くという汎用性や多様性が生じる。

 

 

人間の熟練が機械化され、更に自動化されることで生産性が上がるが機械化の場合は、機械の操作やメンテナンスという管理部門に重きがシフトする。

 

ここでは人間の能力は、狭い領域に特化することで発揮されるので、その機械やその現場でしか通用しないということに繋がり、汎用性が弱くなる。

 

汎用性が弱いということは、関わる人間の代わりが容易に準備できないことを意味する。

 

現場における熟練度が評価されるが、その現場でしか通用しないというジレンマを生む。

 

 

この汎用性の弱点を克服したのが自動化だ。

 

この流れは現場から人間を排除する流れでもあるし、関わる人が誰でも構わないと言うことを目指す。

 

熟練度の高い人が必要な現場が、簡単な教育を受けた人でも務まる現場になり、自動化で誰でも務まる現場になった。

 

 

生産性という概念は、分業のマネージメントということとして生まれ発展した。

 

   機械化が部分的な頃に生まれた概念で、歩留まりを上げると言う意味で使われ始めたのではないだろうか?

 

 

「高い生産性=高度な制御」という意味で使われてるような気がする。

 

機械化やコンピュータ化による自動化と教育を受けた人間のリテラシーの高まりが飛躍的に生産性を高めてきた。

 

生産性は高めるのは限界がある

 

しかし、人工知能が出現し、先進国の少子高齢化(少産多死化)が進み、新しい仕組みと陳腐化・老朽化する既存の仕組みの混在が露呈させたのは、人間そのものが不安定な存在だということだ。

 

どんなに能力を高めても、肉体と感情がある以上、集中力を持続させることに限界があり、バイオリズムのように周期的なムラが人間の行動には付き物だということが無視できない状態になってきてるのではないだろうか?

 

おまけに長寿社会では、老化という負の側面もクローズアップし始めてる。

 

 

そもそも生産性とは 

 

工業化が促進する機械化や自動化が意味する生産性は、読んで字のごとくわかりやすい。

 

たぶん誤解も少ないであろう。

 

なぜ日本は「女性の生産性」が極端に低いのか

 

タイトルが女性となってるが、男性にも当てはまる。

 

ややこしいのは、人対人の現場にも生産性という概念が持ち込まれたことだ。

 

ここでは、根拠の乏しい売上や利益の目標が掲げられる。

 

その数字を、社員に割り振りノルマにする。

 

日本では、その目標の達成率が高いことを生産性が高いと表現する傾向がある。

 

時間をかければ達成できる可能性が高ければ、長時間稼働が促進される。

 

「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」が成り立つ場合に当てはまるのが長時間稼働だ。

 

こうして、「出来る奴は長時間働く」というセオリーが出来上がる。

 

 

時代が進むと、下手な鉄砲では当たらなくなってくる。

 

そうすると考えられる方法は、

 

  • 上手な人を探す
  • 鉄砲を良くする
  • 鉄砲以外の道具(方法)を探す

 

そうして導入された考え方が、誰でもできるようにするというマニュアルに基づく方法だ。

 

ここで要求されるのは、マニュアルを理解し、マニュアル通りに行動する能力だ。

 

そして、現場を側面支援するように機械化と自動化が進み、マニュアルを実践するハードルがドンドン下がり、誰でも出来る化が加速した。

 

結果、設備投資というイニシャルコストは発生するが、人件費というランニングコストが減少することで利益を確保でき、人という資産の重要度を下げることで生産性を上げてきた。

 

 

そして今、新たな生産性が求められ始め出した

 

人という資産の重要度を下げることで生産性を上げた社会では、当然のように人の能力が下がってしまっている。

 

下がった能力は、自ら考え答えを見つける能力であり、答えが不明なことに取り組む能力だ。

 

この下がった能力は鍛えることは可能だ。

 

今後要求される生産性の高さを考えると、最も注目されるのは「個人が持つリソース」になる。

 

ベースになるのは、「発想力やアイデア」で、それを上手に表現する能力だ。

 

また、嫌でも長生きするかもしれない時代の幕が開いたように見える最近では、生産性の概念も変わりつつあるのではないだろうか。

 

1企業や国家単位で計測されていた各種指標があまり意味のないものになりつつあるのではないだろうか。

 

 

勝つことを目標にするのが、民主主義下の資本主義だ。

 

なぜ勝ちを目指すのか?

 

勝てば幸せになれると思うからではないのか。

 

じゃあ、勝って幸せになってるのだろうか?

 

そういう疑問が、数年前から「勝ち」を目指す最先端でも生まれてるようだ。

 

 

ハーバード大学の調査。老年期の健康と幸福、温かな人間関係が
「素晴らしい人生」と強い相関関係を持つ (2013年)

 

 

これまで目指したのは、幸せに結びつかない「勝ち」が多かったのではないだろうか?

 

生産性という見方で捉えると、負の側面を多く作り出したのではないだろうか。

 

戦争は直接「死者や怪我人や病人」を作り出した。

 

そのことが、技術を発展させ、医療を発展させたかもしれない。

 

戦争が経済競争になり、地球環境や生態系を変化させながら、間接的に自然災害や人的災害や心の病で苦しむ人を作り出している。

 

このベクトルは、生産性の高さに結びついてるのだろうか?

 

 

 

昆虫が好きで、昆虫の生態に人間が学ぶことが多いと感じる養老孟司さんは、「文明とは秩序であり、秩序とは変化しないものを作り出すことであり、それには変化するものをコントロールするか、人間の社会そのものをコントロールして自然との折り合いをつけるかの二通りの方法がある。」と語っている。

 

 

一般に語られる「生産性を高める」ということは、「時間の短縮」で実現されている。

 

 

 

高生産性が「時間の短縮」を求めるのは効率が良いと考えられてるからだろうが、今求められるのは更なる「時間の短縮」だろうか?

 

「時間の短縮」が生んだ高生産性を実現した現代社会は本当に生産性が高いのだろうか?

 

見えてない、いや見ようとしない負の側面も含めると生産性は極端に低いのではないだろうか。

 

化石燃料を枯渇させるほどエネルギーを使いながらその代替の準備もできてない。

 

核廃棄物の処理もできないのに、核開発をしている。

 

地球資源や環境の有限性がわかっているのに、まだ貪ろうとしている。

 

今使われてる「生産性」は持続可能性を無視して語られている。

 

これからの生産性は持続可能性を備える必要がある。

 

今求められる効率の良さは、「リソースの有効活用」にシフトしなければいけない。

 

リソースの有効活用というと、エネルギーや資源や環境の事という、人間の外部にあるものという印象が強いが、それにとどまらず個々人の内側にあるものも含まれる。

 

変化の時代を迎えてる今、多くの人は持ってたものを失ってる事に気づき始めてる。

 

安全や安心は当たり前で、努力は報われると思われていた時代がなつかしい。

 

 

この数十年で、大学進学は珍しいことではなくなり、インターネットや各種デバイスの発達もあり多くの人にとって知識のインプット量はすごく多いはずだが溜め込まれてるだけかもしれない。

 

これも立派なリソースではないだろうか?

 

インプットされたリソースをアウトプットすることを考える際に、ビジネスの習慣でマネタイズすることを第一に考えてないだろうか。

 

そしてマネタイズのイメージが浮かばないとそこで終わりにしてないだろうか?

 

これは非常にもったいないことだと思う。

 

 

人が持つリソースには人間関係があるが、一般に語られる人間関係は、友人知人を始めとするリアルな接点を持つ人間関係であり、また俗にコネと言われる既得権益者とのリアルな繋がりを意味する関係がある。

 

生産性が高いと評される人の中には、ただ単にコネがあるだけの人も多い。

 

プロセスではなく結果のみが重視される社会では仕方ないが。

 

人間関係というリソースが生産性の切り札になる

 

多くの人にとってリアルな人間関係は新たな武器にならない。

 

そんな人にとってアウトプットを通じて新たな人間関係が出来るとしたら、おもしろいのではないだろうか。

 

この場合のアウトプットとは何でも構わない。

 

そこに自分自身の身体性や価値観が表現されてさえいれば、伝わる相手には伝わる。

 

リアルな知り合い以外と共感を感じられる関係が築けることが、何かをスタートさせるのではないだろうか。

 

こういう結びつきも、生産性を高めると言う中に含めても良いのではないだろうか。

 

 

ヒエラルキーを作るような結びつきではなく、脳細胞のシナプスが繋がるような人間関係を多くの人が作れれば「リソースの有効活用」ができ生産性が高まると言える。

 

ニューロンとシナプスの働きと構造とは。発火や結合を脳内で効率的に起こすには

 

 

こういうことが可能になれば、従来型のビジネスはヤクザな仕事と言われるだろう。

歴史は前にしか向かえない

日本でかつて「一億総中流」が成立していた頃と今の違いを「世帯」という観点で見てみたい。

 

一人暮らしの不思議

 

記憶があいまいだが、たぶん1980年頃のはなし。

 

NHKが、一人暮らしをする若者の生活の特集を放送したことがある。

 

大学入学や高校や大学を卒業して就職し、一人暮らしを始めた人の生活を長期取材するという番組だった。

 

それ以前の時期では、純粋な一人暮らしは意外と少なく、下宿や寮という集団生活をすることが多かった。

 

アパートに風呂がないというのが珍しくなかった時代であることも、集団生活を促進しただろう。

 

 

 

 

このNHKの番組では、純粋な一人暮らしをする若者を取り上げていた。

 

印象に残ってるのは、ほぼすべての若者が一人暮らしは寂しいと答え、その寂しさを紛らわせるためにテレビを点けっぱなしにすると答えていたことだ。

 

番組はなんでもよく、点いてるテレビを見るわけではない。

 

当時、私は母とこの番組を見ていて、私も母も「さびしいからテレビを点けっぱなしにする」という意味が全く理解できなかった。

 

それから数年後、大学に入学し一人暮らしをする際に、この番組の記憶があったのでわざとテレビは準備しなかった。

 

ラジオがあれば十分だと思っていた。

 

テレビは好きだったが、一日一時間とか家のルールがあった(当時こういう方針の家庭が多かった)からなくても大丈夫だと思っていた。

 

 

しかし、一人暮らしをして間もなくテレビを買った。

 

そして点けっぱなしにしていた。

 

寂しいというか間が持たないというか、ラジオではダメだった。

 

今でもこの時の気持ちをズバリ表現できる言葉を持ち合わせない。

 

おそらく大学生活に目標や目的を持っていたらこうはならなかった気もするが。

 

仕組まれていた世帯数の増加が導いたこと

 

大家族制が分散し、核家族化し、核家族が分散し、小規模核家族や二人暮らしと単身世帯に分散し世帯数がドンドン増えた。

 

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画像出典:http://www.garbagenews.net/archives/1953968.html

 

 

 

江崎道朗「GHQがもたらした〈神棚なき核家族〉」を読んで大いに驚いたこと

 

核家族化を推進した大本は、そのまた背後にあったGHQと日本人社会主義者たちだった

 

 

核家族化は良いことだと教科書にも書いてあったような気がするが定かでない。

 

しかしおそらく政策として推進されていたのであろう。

 

最初は、住宅産業を活性化するために。

 

世帯が増えると、それに連れて家財道具が増える。

 

最初はデパートが調達先だったかもしれないが、やがてホームセンターが主流になったのではないだろうか。

 

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出典:年間総売上高とホームセンター数の推移 社団法人 日本ドゥ・イット・ユアセルフ協会

 

 

政策という仕掛けられた戦略ではあるが、多くの国民にとっては、「見えざる手」に動かされていたということだろう。

 

 

一人暮らしに感じた寂しさは、幸せになるために良かれと思い取った行動が、実は「見えざる手」に動かされてることへの違和感だったのかもしれない。

 

 

 

核家族化の増加とそれに伴う単身世帯の増加は、経済成長のためだったのだ。

 

日本国内というドメスティックな環境で、成長拡大するための戦略だった。

 

ドメスティックな環境を狩り尽くした後は、活路を海外に求めグローバル化が加速した。

 

 

経済成長のために人の繋がりの末端の分散が拡大した。

 

人の繋がりの末端の分散の拡大は、先に成長をもたらすので、多くの人は「見えざる手」に動かされることに違和感は感じても不快感は少なかっただろう。

 

しかし「見えざる手」は、悪いことも動かす。

 

悪いというよりは、本来は一体なのだが顕在化するのに時間差が生じる。

 

成長の影で発生する負のコストがある。

 

物の生産につきまとう廃棄物であり、社会保障コストであり、インフラの維持管理だ。

 

これらの一部は、家族が機能してれば必要ないものもある。

 

介護や保育などがそれに当たる。

 

 

 

世の中は本来、「循環」が成立するならば、プラスマイナスゼロという世界観が成立する。

 

 

しかし人間社会は先に成長という恩恵を受けてしまったかもしれない。

 

だとすれば成長という恩恵を打ち消すベクトルが働くはずだ。

 

 

幸せな人が不幸になるという話ではなく、活路を見出すベクトルが変わることを意味する。

 

 「右肩上がり」の次の価値

 

現在のベクトルは、強大化する資本主義を支えているグローバル化だ。

 

グローバル化の究極で、資本主義の行き着く先には、1社あるいは1人によるすべて独占がある。

 

そうなってしまうと、敵という存在が無くなる、無くなるというより大きすぎて見えなくなる。

 

 

そもそも、「資本主義とは」と言えば「自由な競争」だ。

 

 

 

競争であるから、資本主義下では、勝つことを目指し、ナンバーワンを目指す。

 

 

最初は、同業界や同業種内での競争だが、やがてライバルが他業種や他業界にも及ぶ異業種間競争になっていく。

 

競争するのは、企業だけではない、都市間競争もあるし、国家間競争もある。

 

今、多くの分野でナンバーワンを築いてる企業や都市や国家はダントツのナンバーワンが多い。

 

独占までは行かないが。

 

 

上位8人の富豪、下位50%の合計と同等の資産保有

 

 

しかし、この勝ち抜けたナンバーワンが、ナンバーワンを維持できなくなりつつある。

 

最初に舵を切るのはナンバーワンで、金魚の糞が後に続くのは世の常。

 

ナンバーワンが、進路を邪魔する敵を探し始めているのが今だ。

 

昔は敵を見つけたら戦争だったのだろうが、先進国は戦争が解決にならないことを理解してるだろう。

 

戦争はテロの延長線では発生するかもしれないが。

 

ナンバーワンが敵対視してるのは、本当の敵ではない可能性が高いが、動き始めた。

 

 

 

新しい闘いはポピュリズムという形で表に出てきた。

 

ポピュリズムとは「敵」をつくること。

 

現在台頭するポピュリズムは、強大化しすぎた資本主義への反動だ。

 

ポピュリズムは、強固なヒエラルキー型社会が作り上げた「悪しき秩序」を崩壊するプロセスでのみ機能する。

 

役目は「悪しき秩序」の崩壊の支援であり、崩壊後の新秩序を作る段階ではポピュリズムは有害となる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ポピュリズム

「ポピュリズム」の用語は「ラテン語populus(民衆)」に由来し、

通常は「エリート主義」との対比で使用される。

 

 

つまりエリート優遇の政治の否定である。

 

ヒエラルキーの上位に位置する者が、独占することの否定である。

 

 

家族が分散しなければ大きな成長は無かったかもしれないが、循環社会が成立していたかもしれない。

 

しかし今更、分散した家族が集まっても大家族として機能しないだろう。

 

代わりにシェアという概念が生まれてきている。

 

シェアを成立させる要件は、「コストの低減や資源の有効活用」と「生き方の価値観の共有」だろう。

 

まだ試行錯誤の段階で、持続性が評価されるのはこれからだ。

 

 

 

政治が主導し、企業が活性化し発展し過ぎたことで問題が顕在化した。

 

企業の力が、政治力を超えているのかもしれない。

 

企業の理論は、いともたやすく国境の壁を越えるが、政治の理屈は簡単に国境を越えることはできない。

 

企業と政治と国境がせめぎあいを始めた。

 

 

歴史は、前に向かうことしかできない。

知らないうちに「見えざる手」に動かされているかもしれない

今、時代は変わっているのだろうか?

 

変わってほしいと思っているから、そう見える事柄を過大に評価しようとしてるのかもしれない。

 

 

四谷学院のCMの変遷に、時代の変化が感じ取れる。

 

2000年のCM

 

「ホントはね、ずっと好きだったの」と複数の女の子から告白される、少し冴えない男の子。

 

そこで画面にテロップが入る。

 

「あの男、あの大学に合格」

 

 

2000年にはもう1本別バージョンがある。

 

登場人物は二人の女の子。ひとりは美人で、もうひとりはポッチャリ。

 

美人とポッチャリは仲良しだと思われてたが、美人はポッチャリを引き立て役にしてただけ。

 

そんなある日、ポッチャリの浪人しているボーイフレンドが医学部に合格した。

 

「信じられない、夢みたい!」と喜ぶポッチャリに、美人が「じゃあ、つねってあげる」と言って、ほっぺをつねる。

 

ポッチャリは痛がるが、美人はつねることを止めない。

 

美人の顔をズームすると、口元は笑ってるのに目が笑ってなかった。

 

ポッチャリのほほをつねりながら引っ張り歩く美人。

 

「キャー」という悲鳴でCMが終わる。

 

 

2006年のCM

 

「なんで、私が東大に!?」と合格体験を語るのは男子だけだったCMに女子が登場。

 

CMの展開にはコミカルな要素がまだあった。

 

 

2012年のCM

 

自然を背景にし、合格体験を語る女子。

 

「東京大学に合格するには、あとは応用力だけだと思っていました。でも思いがけないところに穴があった。先生との一対一のやりとりで気付いたんです」

 

 

 

リアルタイムで見ていたこのCMの変化に気づかなかった。

 

塾や予備校のCMは、生徒を集めるために最も効果的な手法を用いるはずだ、今なら気付くことに当時は気付かなかった。

 

 

2000年当時は、まだ頑張るのは男の時代だった。

 

そして女は、勝ち馬に乗ろうとしていた時代だったのだ。

 

 

2006年に女子が東大合格を目指すCMが出たということは、この頃に女子の価値観が男依存ではダメだにシフトし始めたのだろう。

 

あるいはもっと別の価値観かもしれないが、現在のアラサー世代だ。

 

 

現在社会人になりたての若者が2012年ころのCMの対象世代だが、男とは?女とは?の違いが全くない。

 

 

男女の役割分担の違い的なことが無くなりつつあるのだろう。

 

これは、良い面も悪い面もあるような気がする。

 

 

実際の仕事の現場でも、男の世界だと思われていた「体力勝負」の職にも女性が進出している。

 

日本社会の中枢はまだまだ、オジサンとおじいさんがいっぱい居座ってるが、小池さんが都知事になったことで政治の中枢が少し変わるかもしれない。

 

女性国会議員には、良い意味での女のパワーを感じないが。

 

 

女性が次の時代の鍵を握ってるような気がする

 

 

だとすると、トランプ大統領の背後にはキーマンとなる女性が隠れてるかもしれない。

 

 

アダム・スミスは、たとえ利己心に基づく行動でも、すべての人が自分に忠実に行動すれば、社会全体では適切な資源配分が達成されると考えた。

 

この市場経済の自然調整が機能することを「見えざる手が導く」と言った。

 

 

しかし「見えざる手」は、市場経済に限定されないことを期待したい。

 

 

 

ソ連崩壊を経験したロシアには、示唆に富んだことわざがある。

 

起こることは避けられないこと。
Чему быть, того не миновать.

起こるべきことは起こる。必然的にそうなるようなことは、どうやっても回避不可能。

https://ja.wikiquote.org/wiki/ロシアの諺

 

 

 

これからは、「生きやすい人」と「生きにくい人」に別れる気がする。

 

お金のある無しは小さな要素だろう。

 

 

 

新しい一歩、自分自身の新しい言葉、これを何よりも恐れている

ドストエフスキー名言集

 

 

 

四谷学院のCMでの女子の変化のように、小さなキッカケで行動を変えることができるかが試されているかもしれない。

 

 

北斗の拳で「お前はもう死んでいる」というセリフがあったが、今の我々は「お前はもう見えない手に動かされてる」かもしれない。