違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

今求められてるのは『冒険』!

今年の夏に出た複数の記事から今起きてることを感じてみたい。

 

書かれてる内容は、異なる分野を対象にしてるものもあるので、本来直接比較できるものではないが、その背後に潜むメンタリティには『今』が感じられるような気がする。

 

相対的に上位に位置することが幸せだと考える人は、金や儲けを尺度とし、自己実現を図ろうとする。

 

一定以上のお金は人を幸せにしないと言われ、実際に金持ちでありながら幸福感を持てない人は結構多い。

 

お金で幸福は買えますか? はい、この方法なら──ハーバード大学の研究

米ハーバード大学の研究プロジェクトは、「時間をお金で買うと、いわゆる"時間飢餓"が緩和され、これによって日常の満足度が向上する」との研究結果を発表した

 

「時間をお金で買う」ことには相応の利点があるとみられるものの、実際、収入の一部をこれに充てている人はけっして多くない。

 

 

人間とは「無い物ねだり」な生き物だから、無い物を手に入れると幸せになれると考えたがるのだろう。

 

金持ちの多くが忙しく、忙しいが故にストレスが多く、幸せでないという理屈はわからないでもない。

 

一方、世の大半を占めるお金のない人々の動向を示す記事としては、

 

ライブコマースで勢いを増す「メルカリ」に疑問。“安く買える”価値がなくなってる?

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安さを求める層の人々が、仕組み上安くならないものを”安い”と判断してるのかなと感じさせる。

 

物がありすぎて、自分が何が好きなのかも判らなくなってるようにも見えるが、物欲が衰えてはいなさそうに感じる。

 

判断力を失っているようにも見えるが、どうでも良い(どうせわからないから)と考えてるようにも見える。

 

「釣りタイトル」に走ったビジネス書の罪

とりわけ読者をがっかりさせる要因になったのが「タイトル」でしょう。

00年代は「軽い本」が売れた時代です。各社が「ふざけたタイトル」「釣りタイトル」「過激なタイトル」を追い求めました。

 

しかし、タイトルで煽った期待値以上に充実したコンテンツを提供することは、非常に難しいものです。羊頭狗肉的な本にガッカリするという経験を何度も積み重ねた結果、いまの読者はタイトルに「不感症」になってしまいました。

 

 

「不感症」になった大衆が、良いと勧められるものを過剰に取り入れだしたようにも感じる。

 

勉強やスポーツのように、ある程度までは、やればやるほど伸びるということがある。

 

しかし、やりすぎると逆効果になるポイントが生き物には存在する、やり過ぎが良くないのは人間だけではない。

 

そういうことが、分かっているようで分かってなかったということが分かってきた。

 

ベテラン農家はなぜ記者の酒量を批判したのか  栽培の基本は「過剰の排除」から

植物の3大栄養素のリン酸にまつわる話だ。「いくら肥料を入れても効果が出ない。リン酸は100から150あればいいんだよ。調べてみたら、300あったから3倍。これって何。3倍もあるのに欠乏が出るってどういうことなんだ」。植物がうまくリン酸を吸収できていなかったのだ。

「あんたがビール3本飲んでるのが間違ってんの。できりゃあ、飲まねえほうがいいの。植物も同じなんだよ」

 

 

「減らすことが大事。多すぎると、バランスが崩れるじゃないですか。ミネラルのうち、どれかが多いと病気になりやすい。多すぎるものを減らす。苦土(マグネシウム)が多すぎるなら、それを入れなければ、全体のバランスがよくなる。そういうふうに観察する」

 

同じことは、健康志向の人々が正しい理解をしないで、受け売りを真に受けてサプリを摂取するさまに感じられる。

 

衝撃の報告「グルコサミンは効かない」! サプリメントの過剰摂取で副作用の危険も

関節部分の水分保持の働きをもつ「コンドロイチン」は、グルコサミンが元となる。

ちなみに、関節をスムーズに動かすのに必要なヒアルロン酸は、加齢とともに減少する。関節の痛みや不調に対してヒアルロン酸を注射するのは、潤滑成分を補うことで解決しようという考えからである。

そういうわけで、<グルコサミン=関節にいい>というイメージは一般的に定着し、サプリメントとしても高く認知されているのだ。

ところが最近、グルコサミン信奉者にとって、残念な報告がもたらされた。

 

邦訳すると<口から摂取するグルコサミンは、膝や股関節の痛みには効きません>……。

 

 

敢えて取る行動が、ピント外れになりだしているようにも見える。

 

一所懸命練った企画が全くヒットせず、苦し紛れの行動が功を奏したりすることがある。

 

テレビ業界「ジリ貧」視聴率競争、消耗する制作現場の実態

不思議なことに、時代劇ならなんでもいいというわけではないらしい。『暴れん坊将軍』でないと効果がないというのだから、テレビというのはわからないものである。局として番組内容全体の強化に取り組んだ成果はあるものの、「この意外性がテレビの醍醐味だ」と多くの業界人が口をそろえる。

 

「場当たり感」は、主婦層が主な視聴者となる夕方のニュース・報道番組でも見られる。

「ニュースゾーン」で落とした視聴率をグルメ情報などの「企画ゾーン」で取り戻し、番組全体として視聴率を維持するという戦法を取ってきた。

 

企画ゾーンには視聴率の取れる「お決まり」ネタというものがある。意外かもしれないが、その代表格は「うどん」と「スズメバチ」だ。

 

 

根本的に、判断や分析が間違っているのかもしれない。

 

問題解決のための取り組みが、新たな問題を生み始めてるかもしれない。

 

今年のサンマの来遊量は昨年の半分との見通し 理由は外国の乱獲ではない

サンマの漁獲量に影響を与える要因として、以下の3点を整理して見ましょう。

1)どのぐらい量のサンマが日本方面に産卵回遊をするか

2)どのくらいの割合のサンマが、日本の漁場(日本のEEZ内)に入ってくるか

3)外国船の漁獲

 

 

「量より質」ということばがある、中身で勝負してると思ってる時に使いたがることばだが、得てして負け犬の遠吠えになりがちだ。

 

料理動画のクラシル、圧倒的支持の意外なワケ

コンテンツにとって「プロかプロじゃないか」は正直、あまり関係ないと思っています。よく取材で「なぜクラシルの動画は愛されているんですか」と聞かれますが、僕は「うちのコンテンツに競争優位性はありません」と答えています。

 

圧倒的に強いコンテンツを持っているのであればコンテンツにこだわればいい。でも、そうでないなら仕組みで勝負すべきでしょう。

 

 

何が欠けてるのか?

 

「顧客目線でしょ!」

 

 

インフルエンサーが企業アカウントを運用?顧客と共創する、インフルエンサーマーケティングの未来

福田:わかりやすく言えばそういったリクエストには顧客目線がないことが多いんです。ブランド主体の一方的な発信には共感は生まれづらい。逆にインフルエンサーはソーシャル上にいるユーザ、つまり顧客のことをとてもよくわかっていますから、どうしてもそういったリクエストに応えられないことが多い。そこでご理解いただけない場合には数字を伸ばすのも難しくなってしまいます。

 

今起きてることと、これから起きることがどこまで繋がるのかは不明だが、世の中のシフトは連続的に起き始めてる。

 

今判断を誤ってるのは、古い価値観に基づく頭脳だ、だから正しい判断をするためのシフトが水面下で起き始めてる。

 

 

成毛眞が明かす AI時代に生き残るためのたった一つの条件

AIやロボットについても、パソコンで起きたのと同じような現象が起こるだろう。ただ、まったく同じではない。あの頃よりももっと早く、AIやロボットは、どんな分野の仕事をしている人にとっても当たり前になる。科学、そして技術の進化は加速しているからだ。それに置いて行かれたくなければ、それなりのスピードが求められる。だからこそ、理系脳が必要なのだ。

 

理系脳の持ち主には、理系学部で学んだ人も、文系学部で学んだ人もいる。理系学部で学んだからといって、理系脳とは限らない。

 

 

文系脳から理系脳へのシフトが起きてるようだが、わけのわからないことが起き始めてるわけではない。

 

理系脳とは、周りの誰もやってないことに手を出せる人ということだ。

 

周りの誰も知らないから、自分で考え、試行錯誤するということ。

 

文系脳とは、持ってる知識や、過去に積み上げた経験だけで生きていこうとすること。

 

理系脳が求められるということは、蓄積した過去だけでは問題が解けなくなってきたということで、大昔の人には当たり前のことだ。

 

 

それは、冒険と言われてる。

 

速読は意味がない

いつの頃からか、毎年夏になると、最近の夏は何かが足りないなと思っていたが、ひょんな事から、これだったかもと思い出すキッカケとなる記事に出くわした。

 

スプーン曲げに心霊写真、常にブームの中心にいた男
HONZ特選本『コックリさんの父 中岡俊哉のオカルト人生』

ブームというものがいかにして形成され、いかにして終焉を迎えるのか。そのプロセスにおいては、ブームの大きさゆえに社会問題が起こり、誰か一人がスケープゴートにされていく。そして、いつしか姿かたちを変え、また似たようブームが再び舞い戻ってくる。このサイクルを繰り返している限り、ブームを文化にしていくことなど到底不可能なのである。

 

 

暑苦しい夏を、涼しく感じさせるのが『恐怖』だった。

 

恐怖を感じさせるのは、霊や霊が起こす現象で、それは暗がりに潜んでいた。

 

そんな子供時代を過ごし、大人になったらいつの間にか忘れていた。

 

霊や霊が起こす現象なんて存在しないと気付いたからだろうか。

 

あるいは、霊より怖いのが人間だと気付いたからだろうか。

 

 

何に恐怖を感じるかには国民性や民族性の違いがあると、映画を見比べると感じる。

 

邦画のホラーと洋画のホラーの違いについて、皆さんどう思われますか?
自分が感じたのは、「洋画は悲鳴が多い。」「邦画は水の演出が多い。」などです。
そしてできれば、違いとその理由(社会性、恐怖への対象、歴史、宗教観…)について教えていただきたいです。

洋画の恐怖の源泉は「理不尽」

邦画における恐怖の源泉は「因果」

欧米的個人主義と日本的ムラ社会の差が見られるような気がしないでもないです。

あくまで私の個人の感想ですが

 

 

恐怖の対象」が、アメリカだと人間の姿から少しかけ離れたもの(ゾンビだとかモンスターだとか)であり、日本では「限りなく生存者に近い姿のもの」です。

 

神道での「罰当たり」「たたり」

仏教での「因縁」「輪廻」

に関係したことが多いのは当然ともいえると思います。

何か超自然的なものへの「触らぬ神へのたたり」の恐怖→化け物系

過去世の因縁からの「恨み・怨恨」の恐怖      →幽霊系

が日本での恐怖だと考えます。

 

 

 

洋画の恐怖は実在する何かが迫ってくる恐怖であり、その実在感をどう演出するかが映画の出来不出来に影響を与えるが、その恐怖の対象は自分の外側に存在する。

 

これに対し邦画では、恐怖の対象が最終的には心の中という自分の内側に存在するということが多そうだ。

 

昔、コックリさんをやった時、確かに10円玉は自然に動いていたが、これは自己暗示や筋肉疲労が影響し、潜在意識に従ったという説が有力なので、やはり根本は自分の内側にありそうだが、一人でやってるわけではないので不思議は残る。

 

ところで、邦画の恐怖が成立するための重要な要素として「ことば」があるような気がする。

 

脚本の大元は怪談で、落語家や講談師によって伝えられている。

 

「ことば」に映像を連想させる力が要求される。

 

ことばは絵を作る

作品を楽しむことに最も必要な能力は、ことばから絵を紡ぐ力です。

そこに並んだ文字のかたまりから頭の中に絵を浮かばせる。

僕はこれが読解力であると思っています。

 

 

「文字を読む」ことと「文章を読む」ことは明確に違うのです。

文字を読むとは、そこにある言葉を追いかけること。

主語と述語をしっかりととって、そこに書かれていることばを記号として受け止める行為です。

極端な話、理解などできていなくても「読む」ことはできます。

それに対して文章を読むとは、言葉から相手の言いたい事を汲み取る作業です。

それが小説ならば頭に絵を浮かべることまでが求められるし、論説文であるならば筆者の主張をしっかりとつかむ必要があります。

 

 

 

最近の夏に怪談が少なくなってきたのは、ことばが質的に変化し始めているからかもしれない。

 

速読を奨める文化が定着してるが、これが「文字を読む」だけで終わらせることに繋がってるかもしれない。

 

だから読んだ人が絵を紡げない。

 

絵を紡げないと心にアピールできない。

 

だから、怪談が成立しづらいのかもしれない。

 

読みながら、頭に絵が浮かぶと、読むことを忘れ、意識が絵の世界観に連れて行かれることがある。

 

そして、紡がれた絵が、新たなことばを紡ぎ出す。

 

こんな時、速読なんてできない。

 

速読できる時は、絵が浮かんでないだろう、それは中身が薄っぺらいからだ。

 

 

じっくり時間をかけて読み込むことこそが、豊かな世界を広げるかもしれない。

なぜそんな情報を出すのかを考えよう

現在の生活「満足」が過去最高 内閣府世論調査 8月26日

現在の生活について「満足している」か「まあ満足している」と答えた人は合わせて73.9%で、こうした質問を始めた昭和38年以降、最も高くなりました。

また所得・収入については「満足」が51.3%、「不満」は46.9%で、平成8年の調査以来、21年ぶりに「満足」と答えた人が「不満」と答えた人よりも多くなりました。

 

 

こんな記事が出ていた。

 

この調査は、このように行われていた。

 

内閣府は、ことし6月から7月にかけて、全国の18歳以上の1万人を対象に世論調査を行い、63.2%にあたる6319人から回答を得ました。

 

それなりの機関が行い発表するデータは中立で信頼性を感じるが、その調査母数を巡る議論が昔からある。

 

例えばwikipediaによるとテレビの視聴率は下記のように行われているらしい。

 

日本では、測定する有力会社が「ビデオリサーチ」1つのみになった2000年3月以降、同社の調査結果が世帯のリアルタイム視聴率とされている。「ビデオリサーチ」の場合、機械式の視聴率調査は関東関西名古屋札幌仙台福島新潟静岡岡山香川広島北部九州の11地区で毎日、青森岩手秋田山形富山金沢長野山陰鳥取島根)、山口愛媛高知熊本長崎大分鹿児島沖縄の16地区で毎月の月始め2週間、それぞれ調査期間を設けて調査を行っている。標本数は関東は900、関西、名古屋の2地区で600、それ以外の地区は200である。なお、放送エリア内に地元民放テレビ局が3局以上あることが機械式視聴率調査の条件のため、福井山梨徳島佐賀宮崎では機械式視聴率調査は行われていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/視聴率

 

 

 

余りにも少ない調査母数を、どこまで信頼してよいのか、偏りは排除されてるのかという疑問が常につきまとう。

 

”サンプリング調査”というキーワードで検索すると、いろいろなものが出るが、具体的な数字を出していた下記サイトによると、

 

適切なサンプリング数とは?アンケートサンプル数の決め方 

例えば、上下5%の誤差範囲で調査する際に必要なサンプル数は、母集団の人数ごとに以下のように変動します。

  • 母集団:100人→必要なサンプル数:80人
  • 母集団:1,000人→必要なサンプル数:278人
  • 母集団:10,000人→必要なサンプル数:370人
  • 母集団:100,000人→必要なサンプル数:383人
  • 母集団:1,000,000人→必要なサンプル数:384人

 

 

以下は、母集団10,000人のときの許容誤差と信頼レベルを保つために必要なサンプル数です。

  • 許容誤差:10%→必要なサンプル数:96人
  • 許容誤差:5%→必要なサンプル数:370人
  • 許容誤差:1%→必要なサンプル数:4,900人
  • 信頼レベル:90%→必要なサンプル数:264人
  • 信頼レベル:95%→必要なサンプル数:370人
  • 信頼レベル:99%→必要なサンプル数:623人

 

 

ここで出て来る数字は、統計学という数学を駆使した理論に基づくもので、理屈を聞くと反論する材料もないのでなんとなく受け入れるが、生じる違和感は拭えない。

 

価値観の多様化が加速しているように見える現在、また価値観が大きく変化し出してる現在、その生じてる変化を、少ないサンプル母数に反映されてるかという疑問は、ますます大きくなってる気がする。

 

自分自身がけっこうブレることがある。

 

そんなブレは他人には見せないようにしてるから、他人からはブレがないと評価されてるが、自分には嘘がつけないから、自分がブレてることは自覚している。

 

しかし、調査されても私がこのブレを表に出すことはない。

 

私のような人はけっこう多いと想う。

 

決して嘘をつこうとしてるのではない。

 

調査の目的が、このブレを知ることならば、たぶん調査自体が意味を持たなくなる。

 

調査は規模が大きくなるほど、調査は他者に委ねられる。

 

つまり、依頼者と請負者が存在するようになる。

 

実態を知ることが目的の調査が、都合の良いデータを演出する小道具に姿を変えることは容易に想像がつく。

 

私は自分が初対面の他者に持つ第一印象に自信が持てない、間違うことがしばしばあるからだ。

 

外見を含めた表面的なことで下す印象が、その後に180度変わることがある。

 

自分にそういう傾向があることはわかってるので、第一印象で結論を下さないようには気をつけてるが、第一印象が悪い人を好きにはなれない。

 

こんな時に、自分が自分を上手にコントロールできてないことを感じる。

 

逆のパターンもある。

 

第一印象があまりにも良く、急速に意気投合することがある、この場合はほぼ両方に下心がある時だ。

 

結局、時間を掛けないとわからないことが多いという話に落ち着くのだが、こういうことは誰にでも当てはまると感じてる。

 

しかしビジネス面では時間を掛けずに判断を迫られることが多くなる現代では、判断を他者に委ねることも出てくるだろう。

 

経営判断、迷ったら「占い」に頼るのも吉
意思決定スピードを速める奥の手

 

つまり、占いや風水などの言葉は、孤独な経営者が意思決定をする際の唯一の支えとなる。どうすべきかと迷って一手が遅れるくらいなら、「占い師に聞く」。それで企業や事業部門が成長を遂げるのならば何の問題もないはずだ。

 

経済誌で占いに頼ってますと顔を出す経営者はいないだろうが、占いに頼ってる経営者は実は多いかもしれない。

 

なぜそうなるのか?

 

統計やデータなど、判断の拠り所になるものが信頼できないことを知ってるからだろう。

 

まだ日本では、国や大企業が発する情報の信頼性は疑ったほうが良いだろう。

 

なぜそんな情報を出すのかを考えたほうが良い。

【逆襲】社員を泣かせた「ブラック企業」が、社員が集まらなくて泣いている!

最近立て続けに、企業の人材不足や採用の困難さを取り上げる記事が目立つ。

 

記事だけ見てると、景気が良くなり、社員の給料もさぞかし上がってるのかなという感じを受けるくらいだ。

 

しかし、これらの記事に対するコメントをみると、「会社に都合が良い低賃金労働者が不足してるだけなんでしょ」という意味合いのものが多い。

 

 

正社員不足、企業の45%に=IT関連で深刻帝国データ調査 8/24(木)

業種別では、ソフト開発など「情報サービス」が9.7ポイント増の69.7%と最も高く、「家電・情報機器小売」や「放送」、「運輸・倉庫」も60%台だった。

 

 

 

「人手不足倒産」が日本を襲い始めた…「求人難倒産」、前年比2倍のペース 2017.08.21

東京商工リサーチによると、今年7月の人手不足関連倒産は24件(前年同月は28件)で、3カ月ぶりに前年同月を下回った。内訳は、代表者死亡や病気入院などによる「後継者難」型が16件(同27件)、「求人難」型が7件(同1件)、「従業員退職」型が1件(同0件)だった。

 

 

休廃業・解散の背景に高齢化と後継者不足があるのは明らかで、人手不足の問題はこれからが本番といえそうだ。

 

ニュースサイトで読む: http://biz-journal.jp/2017/08/post_20249.html

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昨年の10月、電通の高橋まつりさんの自殺が急にクローズアップされた。

 

その理由は、2016年9月30日に自殺が労災認定されたからだ。

 

劣悪な労働環境で過酷な労働に晒されることを「ブラック」と呼ぶことが世間に定着し、タイトルにブラックと付いた書籍が出回り始めたのが2008年頃と言われてる。

 

日本では、過酷さに耐えることは修行と解され、一種の登竜門的な扱いを受けることがあるが、高橋まつりさんの一件が一気に流れを変えた。

 

電通という日本のトップ企業がブラック認定された。

 

政治や経済の中枢との絡みも多い電通は、少々の理不尽さなどものともしない地位を築いていたように思われていたが、この件では行政が電通を突き放した。

 

行政が世間の空気を読んだのかもしれない。

 

だとすれば、逆忖度が起きたのだ。

 

この件を境に、ブラック企業の経営者は蔑まれ始めた。

 

またブラック企業の従業員の中には、辞めたいのに辞めさせてもらえない人々がいたが、行政の窓口が機能を取り戻し始めたし、ハイエナのような弁護士がブラック企業相手の訴訟をターゲットにし始めたことで、「No」が言いやすい環境が整備されてきた。

 

こういう一連の流れが、上記の人材不足に繋がっているのだろう。

 

1年前だったら、嘘の待遇条件で募集し、入社したら不満を受け付けないという手法をとっていた企業が、嘘がつけなくなったら誰からも相手にされなくなったということだろう。

 

また、かつての流通業界における問屋のような中間搾取の仲介企業が、人材分野には本当に多い。

 

これらの企業に取られてる意味のないお金が余りにも高額なため、社員の給料が増やせないという側面もあるようだ。

 

新卒不足で「1人100万円」でも採れない 2017年08月25日

従業員200人弱のあるIT企業は2018年卒の採用戦略を見直し、大手就活サイトの利用を中止したという。

「これまでは大手のサイトを通じてたくさんのエントリー数を集めて、その中から選考するスタイルでしたが、数年前から見向きもされなくなりエントリー数が激減しています。実際、受験者も少なく、採用数に達しなかった。就職情報サイトには300万円近く支払っていますが、あまり効果がないので利用をやめました。今年は中小のSNSサイトのスカウトメールを使って直接学生と接触したり、全国の大学や研究室を訪問したりしています。地道な活動ですが、リアルな場所で顔をつきあわせたほうが学生の人柄を知ることができ、採用にもつながりやすい」(採用担当者)

 

 

マイナビの調査では、採用費のなかで「就職サイトなどの広告費」の割合は40%を超えている。

 

 

メルカリなどの一部の企業では、社員募集を縁故で行ってるところも出てきてる。

 

信頼できる人間が奨める人間は、信頼できるだろうということであり、縁故で採用された人には、信頼を裏切ってはいけないという気持ちも芽生えるということを期待してのことだ。

 

起きてることの根本は同じで変わってないのだが、見え方だけが全く違ってきた人材や求人を巡る現象という話。

多様化した価値観は、「消費」に飽き始めている

以前、歴史は前にしか向かえないというエントリーを書いた。

 

核家族化とテレビの関係について書いたのだが、その時思いつかなかったことが気になりだしてきた。

 

核家族化の進行が、その後の一人暮らしと二人暮らしの増加を招いた。

 

この核家族の分裂が、一人1台のテレビを実現した。

 

昔、日本人の多くは核家族で生活してる時、テレビのチャンネルの選択権は一般的に父親が持っていた。

 

父親不在時は、母親が持ち、例外的に時間制限などの条件付きで子供にも与えられていた。(個人的な実感)

 

しかし、テレビが一人1台になると、そんなチャンネルの選択権をすべての人が持つようになった。

 

テレビが一人1台というのは、一人一部屋と同じ意味でもある。

 

一人1台のテレビは、ラジオに大きなダメージを与えた。

 

おそらく、今の子供や若者が携帯電話やスマホを初めて所有した時の行動と似たようなことが、初めて自分のテレビを持った昔の子供や若者にも起きていたのではないだろうか。

 

私は大学入学で一人暮らしをしたことで、自分のテレビを手に入れたが、この時の印象は自由を手に入れた感覚だった。

 

一方、初めて携帯電話を所有した時は、仕事上の必要だったからだろうか、束縛の象徴のように感じ、不愉快だったことを思い出す、通話料金が高いことも不愉快だったが、全くプライベートな理由で所有してれば違う気持ちだったかもしれない。

 

 

以前のブログでは、80年台初頭に進学や就職で一人暮らしを始めた人が、一人暮らしの寂しさの間を埋めるためにテレビを点けているというNHKの特集の話を書いた。

 

寂しいと言っても別に泣いてるわけではない。

 

要は、間がもたないのだ。

 

価値観で言うと「間をもたせたい」の1つだけなのだが、その間を埋める手段や方法が年月の経過とともに多様化し始めたのだ。

 

だから、この多様化した末端の動きだけを捉えて、価値観の多様化と呼ぶことが増えた事に対し、違和感が拭えない。

 

間を埋める行為は、「娯楽」と言われる。

 

娯楽にはいくつかパターンが有る。

 

  • 映画や読書その他、作られたコンテンツを楽しむ
  • 趣味として、コンテンツを自ら創る、演じる
  • 飲食や旅行で家族や仲間や時には一人でコミュニケーションを楽しむ
  • 好きでやる勉強や研究やスポーツ

 

ここに上げた娯楽の特徴は、その場では1つしか楽しめないという点だ。

 

この当たり前のことに革命を与えたのが、一人1台になったテレビだ。

 

チャンネルを変えれば複数の番組を瞬時に切り替えられる。

 

一人1台のテレビは80年台の娯楽の最後発で、特徴はコンテンツの消費が無料で、見るのも止めるのも自由だという点だ。

 

 

大きな画面で迫力ある映画に対し、小さい画面のテレビだったし、テレビドラマの脚本は、小説という原作があったので、こんなキャッチコピーが成立していた。

 

「読んでから見るか、見てから読むか」

映画界としてみれば、テレビはお客さんを奪った「憎らしい存在」なので、そのテレビを利用して宣伝するという発想がなかったんです。それを角川映画は、もともと映画界の会社ではないので、合理的に判断して、テレビコマーシャルを打った。それで映画人からはだいぶ嫌われ、批判もされました。

 

業界の垣根がはっきりしてた時代は、小さなことでも、異業種参入と騒がれたかもしれないが、一人1台のテレビの実現が、情報のテレビへの集約と言う意味で、実はかなり大きな影響を与えていたのではないだろうか。

 

上記のブログを書いて以降、最近になって追加で気付いたことだ。

 

ここまでは、今回の前置き。

 

 

今現在を基準に、転換点がどこにあったかを考えると、一般的には、”windows95の登場によるPCの普及と携帯電話の普及が同じ時期に起きたことが大きな変化をもたらした。”となるのだろうが、それだと説明がつかないのが”フジテレビの凋落ぶり”だ。

 

80年台にダントツ一番人気だったフジテレビが、現在ダントツで凋落してる。

 

その凋落ぶりは多くの記事になっている、ほとんどが同じことを指摘している。

 

フジテレビ凋落は「内輪ウケ・世間ズレ・自己保身」が原因か
週刊女性2016年8月2日号2016/7/24

「'80年代、フジテレビは“庶民的”なテレビ局でした。当時の番組に共通する特徴は、反権威主義でリアルを追求するところ。当時、個性化が進んでいた若者たちは権威主義的に教員や親から考え方を押しつけられることに対し、鬱屈した感情をため込んでいたのでしょう。

 

しかし、お台場への移転などをきっかけに、フジテレビは“エリート”になってしまった。

「いつの間にかおごりが生じ、成功体験から抜け出せず、独善的な番組作りをするようになりました。それを省みることができなくなり、視聴者ではなく“番組制作者本位主義”、いわゆる内輪ウケの姿勢が根づいていたことも独善性に拍車をかけます。その結果、世間の変化に目を向け、耳を傾け、謙虚に寄り添おうという気持ちが薄くなり、感覚がズレてしまったのです」

 

 

このような記事を読んでると、読みやすいし、なんとなくそうかなと思うが、どうしても納得できない気持ちもあった。

 

視聴率という尺度を気にする民放業界では、大衆が何に反応してるのかに最も敏感なはずだからだ。

 

この点に関しては、テレビ局と広告代理店はセットであろう。

 

いろいろな調査をしたりして、世間の動向はわかっているだろうに、なぜ間違った判断を繰り返すのだろうか。

 

視聴率が上がれば儲かるならば、喜んでおごりやプライドを捨てると思うのだが。

 

テレビはこうして作られる

テレビが作られるまでのメカニズムが極めていい加減であることです。こういう話を真に受けてしまえば、私みたいな素人にだって番組が作れそうに思えてきます。

 

 

 

業界の体質の問題はあるのだろうが、それだけでは謎は解明できない。

 

 

フジテレビの問題の中には、テレビ業界に共通した問題と、フジテレビ固有の問題があるはずだ。

 

謎の解明は、フジテレビ固有の事情にある。

 

検索して、似た意見を引用しようと思ったが、なんだかズバリを言ってくれるものが見つからない。

 

昔は、フジテレビ好きだったな〜と思い出しながら自分で考えてみることにする。

 

フジテレビが大人気になりだした時期は、秋元康やとんねるずが牽引した。

 

この特徴は、素人の活用だった。

 

一流のプロを活用すべきシーンや主役に素人を活用することで人気が出たのだ。

 

この手法は、とても新鮮だった。

 

揶揄すれば、テレビ番組の学芸会化なのだが、見事に予定調和を崩したのだ。

 

新人を主役に抜擢することがルーティン化すると、緻密な台本や脚本を活かすことが出来なくなる。

 

こういうフジテレビのやり方を「キャストで勝負する」と当時言われていたことを思い出す。

 

この時期は不思議な時期で、技のあるベテランがうんざりされ、技も何も無い新人が輝いて見えていた。

 

どうせ難しいことを要求してもできないし、視聴者も完成度の高さなんか求めてない、そんな時期が90年台に入っても続いていた。

 

この時期は、裏方のベテランにとっては辛い時期だったかもしれない。

 

ベテランの技が求められないし、評価もされない。

 

やがてバブル景気が崩壊し、不景気が長引く中で、表面的な価値観の多様化が顕在化し始めた。

 

このことが、ベテランの復権も果たしたが、芸能界のヒエラルキーはキャリアではなく人気のままで現在に至ってる。

 

素人は相変わらずいろいろな場で重宝され続けたが、短い賞味期限で消えていくものがほとんどで、次から次に新人が補充されては消えるを繰り返し現在に至ってる。

 

この傾向が一番強いのがフジテレビだと感じてる。

 

人もコンテンツも流れるもので、たまたま網に引っかかったものが人気が出れば良いという感じで、消費するだけだったのだろう。

 

それから20年、30年経過して、気がついたら最初にいた一部の人だけが残っており、あとは事情がよくわからない人ばかりになったように見える。

 

消費だけを繰り返し、気がついたら何も残ってない。

 

それが今のフジテレビかもしれない。

 

つまり、この30年間消費するだけで、育てなかったのだ。

 

実は、こんな日本企業がすごく多いと感じてる。

 

 

娯楽という意味でのコンテンツに目を向けると、いつの頃からかテレビドラマの原作が漫画というのが非常に増えている。

 

書籍は売れないが、コミックだけは売れるということを示しているのだろう。

 

消費行動が旺盛な分野に、乗っかることしか思い浮かばないのがテレビや広告の業界であり、CMの世界なのだろう、掻き立てたいのは新たな消費なのだから当然に感じるが、大衆のベクトルが変わりだしてるかもしれない。

 

大衆は、消費行動に飽き始めていて、何かを創りたいと思い出してるのではないだろうか。

 

金持ちは消費を極めようと動き、超お金持ちを目指してるが、そういうのとは無縁な0円のコンテンツで育った人々は、自分流コンテンツを持ちたいと思うのは自然な流れだろう。

 

昔の子供は、夏休みに、朝顔やひまわりを育てていたが、最近の子はどうなのだろうか。

 

大人もやってみると思い出すだろう、蒔いた種から芽が出ることがどんなにうれしいかということを。

 

 

生きてる人間は、誰でも種を持っている。

そろそろ眠っていたゴリラが目を覚ます!

スペインやフランスで、車を使ったテロが起きている。

 

最初に異変に気づく時には、既に事件は起きている。

 

気づいた誰かが、「危ないぞ〜!」や「逃げろ〜!」などと大声を上げた場合、声を聞いた人々は、何が起きてるかを確認しようとするだろう。

 

そうしないと、何が危険なのか、どこに逃げれば良いのかがわからないから。

 

しかし、車が暴走する気配を音で感じたら、車が人や物に衝突する音を感じたら、反射的に音が発生してるところから遠い方向に逃げようとするだろう、それも瞬時の判断で。

 

平常時には、何かを判断する時は、少し時間を掛けて、視覚情報や声のやりとりを行っている。

 

これに対し、緊急時には、瞬時の判断が要求される時には、音や振動などの情報のほうが強く動機を刺激しそうだ。

 

と個人的には思っている。

 

声というのは耳から入るから聴覚情報なのだが、目で見る行為とセットで機能することが多いと思うので、私の中では視覚情報に含めて捉えている。

 

平時は見ることが中心だが、ピンチ時は聞いたり感じたりすることが中心になる。

 

私の場合、「言葉」は「見るもの」と位置づけてるが、そうすると「聞く」の対象は何になるだろうか?

 

あまり意識してなかったが、「音や振動そして歌」などが入るだろう。

 

違いは、「感じる」か、「考える」かのような気がしてる。

 

どちらも脳が処理してるのだろうが、「考える」ほうが処理の行程が多い気がする。

 

 

言葉を使い、考えることで人間は高度な知識や技術を手に入れたが、それを進歩と手放しで喜べるだろうか?

 

日常生活の中で「聞く」機会がすごく減ってるような気がする。

 

スマホの普及でイヤホンで何かを聞くことは増えてるが、それは別の音を遮断してるように見える。

 

人間同士のコミュニケーションの場合、言語が違うと簡単な意味でも簡単には伝わらなくなる。

 

そんな時には、身振り手振りが有効になる。

 

言葉の世界では、高度なことになればなるほど、コミュニケーションが難しくなるので、ほとんどが英語で行われるようになる。

 

しかし、喜怒哀楽のような原始的な感情は、言葉の壁を比較的簡単に乗り越える。

 

人間同士であれば通じる万国共通な感覚がある。

 

長調と短調の違い!簡単な見分け方を解説!

長調と短調の最も大きな違いは、曲の明るさです。上の画像で長音階と短音階を聞き比べた時に、長音階の方は明るく短音階の方は暗く感じなかったでしょうか?

 

実際に長調は明るくて力強い印象を与えるために使われ、短調の曲は悲しさや苦しい印象を与えるために使われます。

 

 

この感覚が万国共通だから、映画で使われる音楽や効果音が通用するのだ。

 

ホラー映画なんて特にそうだろう。

 

日本のドラマやアニメが世界で通用する裏方的な理由の1つも音楽や歌だろう。

 

日本人が思ってる以上に、表現し伝えてるものがあるはずだ。

 

 

日本を振り返っても、マイクやスピーカーが無い時代には、言葉で難しい理屈を伝えるのは結構大変だっただろうと想像できる。

 

そんな時に、俳句や川柳のような短い言葉の中に思いを込めて伝えるというのは有効なコミュニケーションで、現代人が思ってる趣味や遊びとは少し違う位置づけだったかもしれない。

 

「歌を詠む」という表現がある。

 

読むと、詠むの違いを教えてください!

「読」は書いてあるものをみて言語化(黙読したり、音読したり)すること。

「詠」は自分の中にある思いをある形式にのせ言語化すること。また他人の作ったそれを同じ気持ちで追体験すること。

 

 

歌うのは人間だけかと思っていたら、

 

野生のゴリラは食事中に歌を作曲している

チンパンジーやボノボなどの類人猿が、食事中に歌を歌っていることがこれまでの観察結果から明らかになっていますが、新たにゴリラも食事の満足感を表すために歌を作曲していることが判明しました。

 

歌うということがコミュニケーションに大きな影響を与えているのかもしれない。

 

歌うのは、人間と類人猿だけのようで、この場合「猿」は別の存在になる。

 

こんな話がある。

 

人間よ、ゴリラに学べ/山極寿一「サル化する人間社会」

「サル化する人間社会」は、 

ゴリラとサルが築く社会性の違いを紹介しながら、

 

  • ゴリラ…序列を作らず、勝ち負けの概念がない

 

  • サル…力の強いサルを頂点にヒエラルキーを構築

 

人間がサルに近づいているのでは?と警告する。 

 

 

著者によると人間の持つ普遍的な社会性は3つ。

 

  1. 見返りのない奉仕をすること。共感能力を成長期に身につけ、家族の枠を超え、共同体、そしてより広い社会へと広がっていく。
  2. 互酬性。何かを誰かにしてもらったら、必ずお返しする。お金を払ってモノやサービスなどの価値を得るという経済活動。
  3. 帰属意識。人間は相手との差異を認め尊重し合いつつ、きちんと付き合える能力を持っているのは帰属意識があるから。

 

 

 

猿とゴリラを分けているのは、歌うというコミュニケーションかもしれない。

 

序列を作らないゴリラの世界にも喧嘩は起きる。

 

二頭のゴリラが喧嘩を始めると別のゴリラが仲裁に入る。 

でもサルのようにどちらかに加勢するようなことはしない。 

二頭の間に体を割り込ませ、ただうつ伏せになるだけ。 

そうしているうちに喧嘩がおさまるんだとか。

 

 

序列を作らず、勝ち負けの概念がないゴリラ社会のルールは、父親ゴリラが子ゴリラと遊ぶことで伝えている。

参考:京大連続講座・人間とその進化の隣人たち ゴリラの社会に探る人間家族の起源.pdf

 

「遊ぶ」ことを上手に出来るのは、人間とゴリラだけらしい。

 

進化の歴史を振り返ると、人間には猿の要素もゴリラの要素も両方あるだろう。

 

資本主義の発展は、どうやら人間の中の猿の要素を強く刺激したのだろうが、そろそろ眠っていたゴリラが目を覚ます時期だ。

 

目を覚ましたゴリラを歌を詠み、遊びながら、序列のない、勝ち負けがないことを楽しもうとしだすだろう。

”充実症候群”に毒されてる現代人

解決困難な悩みや問題に直面した時、多くの人はきっとため息をツキながらこう言うだろう。

 

「ああ、人生とはなんだろうか?」

 

シンプルな問いだが、禅問答のように無限の答えがあるのだろう。

 

こんな時、わたしは反対語を考える。

 

”人生=生きること”とした場合の反対語は、”死”だろう。

 

"生きる"の反対語は?

回答ありがとうございます。

いろんな人の回答を読むまでは、死ぬ=生命がなくなることだと考えていました。つまり死ぬとはこの世からあの世(仮に)に渡ることだと考えていたため、死ぬの反対は生まれるだと考えていました。しかし死ぬという言葉が死んでいる状態も含むならば生きるの反対語となりますね。

 

 

 

生きてる人間は、遅かれ早かれ絶対に死ぬのだが、意外と死は身近なものに感じられなくなってきてる。

 

”人生とはなにか”を考える時、”生きる”の反対が”死”と思える時には許容できていたことが、最近許容されなくなっているような気がする。

 

つまり、”生きる”の反対語が”死”ではなくなっているのだ。

 

おそらく、”生きる”の反対語は”充実してない”になっている。

 

かなり前からそうなっていた気がするが、表現する言葉がなかったのだが、”リア充”という表現が出た頃から、”生きる=充実”が公式化したのだと感じる。

 

改めてそう思ったのは、最近やたらと騒ぎになっていたこの件だ。

 

話題の牛乳石鹸のCMを、男性学の研究者に見てもらったら......

それでいうと、このCMについて男性は、個人的な感情を表に出さず、一般論として分析するスタンスに回っている人が多い印象です。一連のジェンダーがらみのCMでも、リアクションするのは女性に偏っているようです。

 

放送作家の鈴木おさむさんのブログは、子育てについて男性が発信しているにもかかわらず、コメント欄の書き込みは女性とみられる人ばかりです。男性たちがジェンダーに関心が薄いという点は、認識しておいたほうがよさそうです。

 

 

 

このCMが話題になってから数日経って、どんだけひどいのかなと思いながらCMを見たが、そんなにひどいとは思わなかった、強いて言うなら全編を通じて昭和の男が作ったCMだなという感じだった。

 

昭和の頃は、まだ”生きる”の反対語が”死”として通用していたので、家族は最小の運命共同体として機能していたので、生活ができるならば少々のことは許容されていた、許容を強いられていたのは父親以外の家族だろうが。

 

家庭の中では、家族に犠牲を強いる父親も、社会や会社では犠牲を強いられていた。

 

しかし、世の中そんなものだとすべてが許容されていたのが日本社会だったが、時間の経過は緩やかに世間の空気を変えていった。

 

 

 

そして、現在では家族は充実追求共同体になり、家族全員が自分の充実を最優先するようになっているのかもしれない。

 

これってなんだか、チルチルミチルの幸せの青い鳥の話に似てるのでは?

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/青い鳥

2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。

 

もう少し具体的に捉えると、

 

幸せの象徴「青い鳥」を意識することで心が豊かになる方法

「幸せの青い鳥ってどこにいるの!?」と女性がよく口にする言葉。

 

1.小さい頃やっていた事をやってみる

2.自分が欲しい幸せがなくてもいいと思ってみる。

3.お友達に聞いてみる

4.やりたくないことを辞めてやりたいことをやってみる

5.毎日青い鳥の存在を感じる

 

 

 

充実を巡る問題のキーパーソンは女性だ。

 

日本社会はまだ昭和の理屈で動いているところが多い、昭和の理屈は犠牲になることを強要してくる。

 

その昭和の理屈に対抗する勢力が、充実という盾を構えている。

 

昭和的な支配は、いづれ時間の問題で消える(昭和脳が死ぬから)。

 

忘れてはいけない、求める充実は、遠くにあるのではなく、身近に存在してるということを。